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12 上野講演録


クレスチンをYの上司として統括していたのは当時東京研究所副所長だったUである。京大の助教授から呉羽の食品研究所に転職した食品関係の農学博士である。Uはクレスチンの開発の総括責任者的な立場にありながら、クレスチンの成功により周囲から妬みをかったか、策略にあったかして左遷された格好になり、しばらくして退社し京都で自分の研究所を設立し、食品関係のコンサルタント業になった。UのPSKに関する研究報告書殆ど殆どに取扱注意、マル秘がおされており、限定した情報しか提供されなかったことから、会社全体が取り組むことになったときには所長になったHが表舞台に立つようになった。

 

Uは1979年12月に退職し京都に戻り食品関係の仕事に就いたが、第37回環研セミナーでクレスチン開発の研究について講演し、その記録が環境科学研究所年報第8巻p-261~282(1980)として残っている。


「担子菌、糖蛋白の制癌剤としての研究」がタイトルである。詳細は文献を参照して欲しいが、その中から少し引用すると(靑字)

 1.    緒論

ただいまお話がありましたょうに、昨年12月末まで、呉羽化学工業株式会社中央研究所副所長及び食品研究所所長として、約20年在勤しました。本日お話申し上げることは、その間に開発した、この表題の研究内容です。申すまでもなく、これは機密に渡る面がたくさんございますので、本日発表いたします内容はすべて公表された論文等の内容だけでございます。(中略)

私は企業におります時にシイタケとかナメコという食用菌の母菌をつくる仕事をやっておりました。そのシイタケとかナメコを木に植えつける場合に最も害になる有害菌が、たまたまこれからお話し申し上げるカワラタケでございます。

カワラタケが生えるとどうにもならない。これが一番強くて、自分が植えようと思うシイタケとかナメコが負けてしまう。しかも、それが昔からの伝承によると、癌に効くと言われていたのですが、だれも科学的なレベルで研究し直して、医薬品化しようとはしなかったわけです。

それを私どもは医学、薬学のしろうとであったがゆえに、先ずやってみようと考えて、実験動物の移植腫瘍にやってみたところ、果たして腫瘍が消えた。これは何とかいけそうだと言うことで、内部でこっそり研究を始めました。

ところが、私は満田所長の教えを受けたものですが、本来水産の出身で、「サカナヤ」でございます。魚あるいは魚介類を加工する専門家が、癌の薬という、薬をつくる上で最も難しい仕事ができるはずがないと、だれも相手にしなかった。また、医学の方々も99.9%成功の可能性はないとおっしゃいました。0.1%の可能性を求めてやった事になりますが、私はそう思わなかった。

あとでスライドにも出ますが、長年、世界のいろんな地域で癌に効くという言い伝えが独立にある。特定の一箇所から伝わったものではなくて、独立してあることは何かある。もしそれがうそであったら、途中でそういううわさが消えていくはずです。さような伝承を大事にして、実験動物のレベルでやってみよう。もし、それでよい結果が出なければやめようと思ったわけです。ところが、やはり伝承のとおりにそのことが出ました。

その次の段階では、ネズミの癌に効いてもヒトの癌には効かないだろうという批判です。これは当然でございます。しかし、あらゆる制癌剤が初めから人間の癌で研究できるわけではございません。人間は実験動物ではありませんから。必ず動物の癌、移植腫瘍、及び自然発生の癌について実験され、それから安全性の確認をやり、次に予備臨床と称する、おおざっぱな粗い試験を末期癌の患者にやりまして、いい点が出たら、数千例の本臨床の実験に移って行くわけです。本臨床に入ると、先ず20億や30億円の金は軽く吹っ飛んでしまいます。そういう段階を通っていくので、先ず何としても手堅く動物実験をすることが必要であります。(中略)

ここに取り出したカワラタケは、京都大学の裏側の東山吉田神社の裏山の朽ち果てた木に生えていたもので、去年の秋にあることを見ており、雪の降った今年1月20日に行ってみましたら、やっぱりありました。これがそれでございます。これがカワラタケから抽出した問題のPSK。これは私たちのかいはつ段階ではポリ・サッカライド・クレハと言ったところからPSKという名前を頂き、それが現在の発売段階では商品名の「クレスチン」となりました。PSK(クレスチン)と、このもともとのキノコと、それから朽ち落ちたキノコ、それから皆さんが幾らも見ていながら、案外いままで見過ごしていた枯木を、もういっぺん見てもらうために回します。(中略)

 2.    研究の発端

世界各国でカワラタケが抗腫瘍性である、といういわゆる癌に効くと言われております。「ガン病棟」というソルジェニツインの本がございますが、何人かの方はお読みになったと思います。ソ連に行くとシベリアの原野に白樺がいっぱい生えています。それが倒伏して朽木になりますが、それにはほとんどといっていいほど、カワラタケが生えます。

かってソビエトが非常に貧しかった頃労働者はシベリアに行った場合に、お茶が飲めなかった。そこでカワラタケを採ってきて、干してお茶代わりに飲んでいたと言われます。そのときには癌が少なかった。ところがだんだん収入が増えて、いろんな国からコーヒーを買ったり、お茶を買って飲むようになったら癌が増えてきた。これはどこまで本当かわかりませんが、そういう言い伝えがあるわけです。そのことからして、現在でもモスコーの人たちは、休みになると郊外に出かけて、カワラタケを争って採ってきて、煎じて飲むとうことがソルジェニツインの「ガン病棟」に出ています。彼は日本からの伝承から習ったわけではないと思います。

わが国において調べてみますと、北海道、東北では仙台はガンとカワラタケのことが良く知られており仙台の東北大学ではサルノコシカケ属の糖蛋白について抗腫瘍性があるのではないかということで、多くの注目すべき研究をしております。関東地区、北陸では金沢大学にそういう記録も残っております。

また、ある末期の食道癌の患者が、こういうキノコを飲んでいるうちに、いっぺんに腫瘍が消えた臨床記録もあります。それを確認いたしました。近畿地区では、滋賀県甲賀地区の甲賀病院で、胃癌の末期症のおばあちゃんがかなり大きな腫瘍があって、もう手遅れで、治療のいたし方もないという段階になっているのを、甲賀地方で伝わっているカワラタケを煎じて飲んでいるうちに、消えてしまった。いつまでたっても死なないということから、おかしいといって調べてみたら腫瘍はなかった。そこでその次がまた問題なのですが、治ったと思って飲むのをおやめになったら、1年ぐらいで亡くなられた。その時には癌であったかどうか、確認されて降りません。そこまで判っております。

そこで、一体どんなキノコを飲んだのか調べてみたわけです。私の研究所の研究員の1人がこの地区の出身で、そのキノコを採ってきて、どれだったか調べましたら、主体はこのカワラタケでした。

もう1つ、シュタケといって、同じような形で色の赤いのがあります。それは非常に少なくて、たくさんは採れませんし、また抗腫瘍性はカワラタケが一番安定して強いし、培養もしやすいことから、カワラタケを選んできました。なお、たまたまナメコとシイタケの菌をやっていたものですから、いろんな山を歩いてキノコを採ってきて、組織培養をして、各種のキノコを調べました。そうしたところ、おおざっぱに申しますと200種類くらいのキノコの中で、その半数以上が抗腫瘍性を持っていることがわかりました。しかし、その程度は種類によってかなり違います。たとえばナメコとかシイタケにもその成分がありますが、非常に少ないことがわかりました。そんなことからナメコ、シイタケを原料として使うことはやめたわけです。

それから、台湾の方たちと話す機会がございまして、聞いてみたら、台湾の東側に新高山のある山脈がありますが、あそこにいろんなキノコがあって、やはり食えない、堅いカワラタケが効くのだという伝承があるということでした。

 3.    研究開発継続の困難性

さて研究をやる場合の問題点ですが、いままでの抗癌剤はすでにタイプが決まっており第1に癌細胞に直接作用して、癌細胞を小さくするもの。いわゆる癌細胞が異常増殖していきます場合は、それが有糸分裂をして、癌細胞のDNAがどしどし複製されます。諸君は最近の分子生物学でいろんなことを知っていると思いますが抗癌剤は細胞分裂を阻害するものですから、細胞毒性を持ったいろんなグループに分類されております。そういうものが従来の抗癌剤でありましてクレスチンはさような抗癌剤のグループに入らない、全く違うグループの薬品でありますので、新たな薬効評価基準を作る必要性に迫られました。これは薬事審議会で審議してもらい薬としての許可をとるわけですから、従来の尺度に当てはまらないという問題があるわけで最も大きな問題でした。

クレスチンは抗癌剤の従来の分類、構造及び作用機序に入らないので、先ず有効成分を分離して構造決定し、その吸収、排泄、代謝の研究と、薬効、副作用の動物実験、並びに臨床試験にも新しい尺度つくりが必要になりました。

 4.    クレスチン開発の背景

これを始めましたのは昭和38年ころで、私が呉羽化学にまいりましたのは昭和35年です。2年後の昭和37年から動物実験を始めました。その動物実験を始めた時点に起きまして、今から17,8年前なので、腫瘍免疫すなわち癌には癌免疫があるのだということはあまり理解がなかったのです。それから免疫療法と最近でこそ申しますが、いまから17,8年前には免疫療法なんてできるはずがないといわれておりました。昔から言われているけれども、一体何を使うのだというような理解の問題がございました。そういうことからして、たぶん99.9%、ものにならんだろうということになったのだろうと思います。

アメリカで、腫瘍免疫を人において証明するためにこんな実験をしました。有名な実験です。死刑囚を2つのグループに分ける。1つは癌にかかっている死刑囚、もう1つは癌にかかっていない健康な死刑囚に分けて、健康な死刑囚に癌患者の細胞を移植するわけです。日本でこんなことをやったら大問題になります。アメリカではそれができたわけです。そうしますと、健康な群では10人のうち10人が癌細胞がつかないのです。とにかく健康な人には癌細胞が絶対つかないことがわかりました。ところが癌になっている死刑囚には10人のうち8人も他人の癌がついた。これは大変意味のある研究です。がん免疫上決定的な研究といわれております。

もう1つは企業体質の問題。

私が前におりました会社は製薬会社ではなしに化学会社でございました。石油化学会社で例えばカセイソーダや塩酸、硫酸などをつくるあるいは農薬とかベンゾール系の有機薬品を作る工場で、癌の薬とは縁もゆかりもない。したがってそんなものをあてにしないということもございました。

抗癌剤における世界的な動向でございますがその時点においては化学療法が優先でございました。アメリカは癌の研究では最も進んでいまして、日本の研究費に比べて、100倍近い癌の研究費を使っております。大統領が直接これに大きな指導力を持ちまして、研究費を出しているわけです。民間の研究費も一般の研究でも78割も国の補助があるというほど大きいわけですけれども、そこでは化学療法が全盛でございました。(中略)

この開発の背景としましては、食品研究所を創設させてもらいましたのは1960年で、その3年後にはこの研究にも着手しました。研究者は私は水産学で、それからいろんな大学の農芸化学、畜産学出身者、食品研究所ですから食品を作る、あるいは保存包装する研究が主体でございまして、このグループには医学、薬学の研究者は1人もいなかったのです。それが食品添加物、食品包装材料の安全性の確認のために当初実験動物を始めたのでございます。(中略)

それで一般毒性試験ですが、一般毒性は急性、亜急性、慢性毒性からなり、特殊毒性は発癌実験、催奇形性、繁殖試験、局所刺激、アレルギー試験、依存性、習慣性などをいいます。発癌試験と抗癌剤開発試験とは表裏の関係にありますので、3つくらいの研究テーマを同時並行的に進めたわけです。この発癌性試験の中で、天然物についてはだれもやっていない。しかもいろんな言い伝えがあるということから、これは面白いと思って、研究を進めました。

それから研究経費の確保ですが、いい薬をつくるには最低10年、大体15年くらいの年数が要ります。しかもその成功率たるや、そう高くはないということで、主たる研究、つまり実益につながっている研究費の一部を回していただきまして、利益を充分に上げながら研究を続けていく、これしかないわけです。そういうことで、食品包装材料関係の研究費の一部を制癌剤の開発に振り分けたわけです。(中略)

それから、微生物の知識で、先ほど回しましたようなものを純粋分離して、分離培養し、大量培養する段階での外部からの汚染を防止するということに役立ちます。

自然界のキノコは数千種ありますが、どの種類でも山の中で分離して持って帰りますが、それができるということが重要です。

それから、最近問題になっているグッド・ラボラトリー・プラクティス(実験の成果を正しい記録に残しておくこと)も重要です。こういうキノコは突然変異を起こし易いものです。たとえば色が変わってくるとか、シイタケですとキノコが出来なくなることがあります。菌糸はいっぱいあるのですが、子実体が出来なくなることがある、そういう変異防止にも技術的に出来るのです。

実際に作ります場合に、培養抽出精製し、それを大型にしていくためのスケールアップ、コストの算定、生産工程のグッド・マニュファクチャリング・プラクティス(GMP)など、現在いろんなことがきつく言われておりますが製造工程を完璧なものとして、いつでも安全性上の問題がないようにしなければなりません。

実験動物の知識は、だれも専門家はいないのですから、基礎から勉強しました。医学部、獣医学部に通い、いろんな勉強をしました。今にして思えばなまはんかの知識がなかった方が、かえってよかったと思っております。

幸いなことに食用キノコ、シイタケ、ナメコ、ヒラタケ(人工シメジ)など、これらの母菌を工業的に生産して販売することをやっておりましたので、この設備を使ったわけです。そこで臨床実験の数千例の治験薬は充分に出来たわけです。これがなかったら、なかなか臨床実験に困ったと思います。

次に生物学、微生物学、実験動物学の関係でいろんな大学の医学部、癌関係の研究機関、がんセンターあるいは府県の癌研究所、各大学の癌の関係者などに人脈がありました。そういう方のご指導と協力を得ました。研究統括、方向付け、これは非常に大事なのですが、これも先ず伝承を科学的なレベルで、動物実験で再現するということで、いろんな方向に走らなくて一本でいったことが良かったと思います。

 5.    研究のプロセス

その開発のプロセスは、先ず第一に伝承的に良いと言われるものを、子実体を採ってきて、その分類をやる。それを今度は動物実験で確認するのが第一段階。

次に200種類くらいのキノコについて抗腫瘍性のスクリーニング、どのキノコがどういう腫瘍に効くか、これがネズミの移植腫瘍が100種類近くございますから、その中のどういうタイプ、例えば腹水型の癌に効くのか、薬物耐性のある種の癌に効くのか、あるいは結節型の腫瘍など、いろんな腫瘍について試験をして、どのグループに効くか検査します。それから、最も有効なキノコがこれで見つかった場合には同種の異株につきチェックし、同じカワラタケでもいろんな山から採ってきて調べます。一番良く効く株を選ぶことが生産上大事なことです。それを登録いたします。そして突然変異を起こさないように維持します。次に子実体と培養菌糸体の有効性の比較をします。子実体のキノコを使うと大変時間がかかりますので、生産性の問題で培養菌糸体に直さなければならない。そこで、これと同じような効果が出るように培養条件を求めていくわけです。これも大事な技術です。(中略)

治療検査のための治験薬申請、次いで予備臨床といいまして、2,30例やる予備的な実験2、30例の中で少なくとも数例、注目すべき結果が出なければ、ここでストップするわけです。これが予備臨床で約25例のうち5例、非常に面白い結果が出まして、本臨床に入ったわけです。

臨床試験のためのプロトコールの作成が大変重要です。プロトコールというのは判定基準です。相撲で言うならば、相撲の審判員がいますが、どういう方法で結果を記録して整理するかこれがなかなか一様ではないわけです。各大学によって伝統的にやり方が違うので、それを北海道から九州まで同じ方法でやる、これが大変難しい問題です。そして全国的な研究組織を構成して分担研究を致します。その中間的な結果をフィードバックして、さらにプロトコールに反映して正式のプロトコールを作製していくこともあります。

最後に臨床試験のまとめとなります。臨床試験はたいていののものは2年か3年かかるはずです。まとめだけでも1年くらいかかります。そして申請認可となります。研究の報告書が厚生省から、薬事審議会で審査されて、返ってくるわけです。癌の場合は癌特別部会、癌常任委員会がありここで詳細に審査されます。そして次に健康保険薬の申請、認可、販売となります。

さて、菌の分離ですが、枯木にカワラタケが生える。これから子実体を山の現場で、寒天斜面培地を持っていきまして、イースト・グルコース・アガー培地上に切り取ったキノコ子実体の一片を乗せます。そうすると菌糸が伸びてきます。それを今度は研究室に持って帰り数回分離培養の後、拡大培養いたします。拡大培養は先ず静置培養でやります。ビンを横にして、液体培地を入れて菌を接種して約4週間すると草履みたいな菌のかたまりができます。これを摩砕して、熱水抽出して精製します。そして今回の場合には先ずサルコーマ180S-180)腫瘍株を用い、これをハツカネズミ(体重は成長したもので20gくらい)の腋下に接種します。このもともとの腫瘍は腹水型で、水の中に腫瘍細胞が独立に存在するものです。これを約106個、顕微鏡で見て、計算して植えつけます。そうしていると3週間くらいで身体の大きさ半分くらいの腫瘍ができて死んでしまいます。その3週間くらいの腫瘍成長というのがミソでして、ある程度の時間がないとこのものは効かないです。通常の抗癌剤は数日で効くのですがこういう免疫関連のクスリは時間が充分でないと効果がない。したがって従来の抗癌剤のスクリーニングにこういうものを乗せたら効かないという結果が出るわけです。そういうところが問題だとわかりました。これを接種して10匹を一群として、この腫瘍を3週間前後に取り出して、腫瘍の目方を量るわけです。片方は薬をやらなかったもの、片方はこの薬をやったもの。薬をやるとこれがほとんど消えますから、その10匹の腫瘍の目方を足して、その目方と、何もやらなかった場合は大きな腫瘍ができますから、その目方の比で有効性を見るわけです。それを抑制率といいます。(中略)

先ほどのは静置培養ですが、これは通常の拡大培養の通気攪拌培養です。このもともとの菌糸を小さなジャーファーメンターに移し、それから10倍あるいは50倍の比で段階的に拡大していきます。そしてある一定期間たったところで、菌糸体だけを集めます。栄養菌糸体です。そして集めた菌糸体を濾過して粉砕して、抽出して、粉末乾燥にかけます。一度ここで検査をします。これはGLPGMPという規定の方法で検査しまして、製剤化します。先ほど回したものは粉末ですから、飲みにくいので造粒します。粒状にして検査をし、分包、出荷します。工業的製法を図3に示します(タンク培養の方法が図示されている)

こういうふうにして造ったキノコのそれに初期PS-K(ポリ・サッカライド・クレハ)という名前をいただきました。

 その後PSKの構造、毒性試験、薬理薬効試験、吸収分布試験の実験結果が示されているが割愛する。タンク培養については 既に「6 PSKの製造方法 」で引用した。

 5.2 臨床試験

(中略)これは国立がんセンターの伊藤一二先生、それから三富先生らの74年の報告であります。そこでは胃癌、直腸・結腸癌、食道癌、乳癌の再発及び末期癌に手術と併用しました。例えば胃癌ですと合わせて54例、直腸・結腸癌が24例合計112例に3ないし6g/日、現在の臨床用量はクレスチン3gが標準でございます。これをやって効果をみたわけです。これは本臨床の初期の段階のものです。それを総括しますとほとんどの例で強い食欲増進効果が出る、中には体重増加の例も見られることがあります。

その記録を2,3紹介しますと、ステージ3、4と数字が進んでいくほど癌が悪化していくわけですが、もう末期癌に近いわけです。ステージ3,4の胃癌の切除手術の例で、22例中16例に顕著な食欲の増進があった。それから術後6週間で5kgの体重増加があったのが3例ある。これは珍しい例です。同じようなことが東大でやった予備臨床で出てきたのでこれはいけると踏んで、本格的な臨床に入ったわけです。

結論として、直接的な腫瘍の縮小効果は出てきません。腫瘍は徐々に大きくなりながら、本人の自覚的な症状が、癌の末期ではほとんど食欲がなくなる、倦怠感がある、うんとやせるということになるのですが、PSKを服用すれば食欲が出るから当然体重はふえます。倦怠感がなくなる、痛みが退縮するするなど、いろいろ出てまいりました。そういう状態を伊藤先生らは、この薬を使うと、腫瘍と人間が共存し、共栄し癌が共栄したら困るのですけれども、そういう関係にあるのではないかと見ておられます。通常の抗癌剤では全く考えられないことが起こっているわけです。

臨床例のこの1例は、63歳の女性で・・・・

 と臨床例が紹介されているがこれも割愛する。ただまとめの段階で

 それから、ここでは言いませんでしたが、臨床試験によってこれが認可されたのは、末期癌に対する延命効果が統計的な処理によって証明されたからであります。延命効果としてこれが受理されたわけであります。クレスチンは癌の免疫療法、あるいは免疫療法と化学療法の併用療法への拡大の引き金となりまして、有用な免疫療法剤が続々と現在開発されつつあります。おそらくこの2年くらいで出てくるでしょう。それによって免疫化学療法、及び外科手術の免疫療法、及び放射線と免疫療法等々の組み合わせられた有用な治療法の発展が期待されるわけであります。

 と臨床試験の審査が単独使用の腫瘍縮小効果を中心とした癌治療学会判定基準等に則って行われたことを間違って示している。このように開発責任者であったUも臨床効果等については記憶違いが存在している。私も文献や資料に基づいたブログ作成を心がけているが多々記憶違いがあるかも知れない。



11  呉羽・創世記

 

「呉羽・創世記」という人材募集用のパンフレットが後日発刊された。発刊日は不明だが添付資料に昭和59年3月期の業績が記されていることから、昭和60年頃の発刊と思われる。





その中にkureha development storyとして、クレスチン物語、クレハロン物語、UN・SN物語が取上げられている。
クレスチン関係部分を引用(青字は引用部分)するとサクセスストーリーとして格好のよい話となった。

 

クレスチン物語


上野から常磐線でおよそ2時間、いわき市の入り口“勿来”の郊外に雄大な広がりを見せる呉羽化学錦工場。ここの西側、グリーンの芝生が続く静穏な一角に抗がん剤として知られるクレスチン(PSK)の基地がある。銀色のパイプが縦横にはしるその牙城の外観は、とても生化学の拠点とは思えない。どちらかというと工業技術の粋を集めた先鋭化学工場という趣である。クレスチンはサルノコシカケと呼ばれる担子菌カワラタケの一系統CM101株の培養菌糸体から抽出した制がん効果を持つ蛋白多糖体である。「菌糸体培養に、不純物は禁物ですからね。初期培養のタンクや配管にはすべてステンレスを使用しています。」という説明を聞くまでもなく、クレスチン生産基地の内部は、ほとんど自動化された無菌空間の雰囲気を漂わせている。24時間止まることのない培養タンクの回転音が低く響き、あたりはまるで神の声を聴く未来の神殿のように、空気までが森厳とひきしまって見えるのである。
人類からガンの不安を取り除く・・・という夢は、まだ遠い日の出来事であるにせよ、ガン患者とその家族たちに大いなる希望とやすらぎを与えてきたクレスチンの社会的な役割は大きい。古くは塩素、苛性ソーダという電解工業、その後、塩ビ、塩化ビニリデンなどの石油化学を主軸として歩んできたクレハにとって、クレスチンの開発という生化学への挑戦は、新たなる大海原への船出だった。そして興味深いことに、この新たなる旅立ちは、まったく予期せぬところから芽生え、はぐくまれ、やがて時代の風雪に迎えられて、クレハの屋台骨をしっかりと背負うほどの豊穣な大地に辿り着いた。
企業の歩みはドラマである。と、人は好んでこんな言葉を口にするが、本当のドラマなどそう沢山転がっているはずはない。だが、不思議なことに呉羽化学には、真にドラマと呼ぶにふさわしい“メモリアルな歴史”がいくつもあった。技術陣の夢を育てる研究開発を社の本分とし、常に好奇心に目を輝かせている企業は、企業そのもののありかたが既にドラマなのだ、といえるかもしれない。まさにそういった意味で、「クレスチン物語」は、呉羽化学を代表する現代の逸話なのである。


郷里の滋賀でひらめいた抗がん剤研究へのヒント
医薬第一研究室長・吉汲が、まだ入社草々だった頃のことだ。クレハロンによる独特の密封包装によって、次々と世に送り出される新食品を手がけようと「食品研究所」への配属を希望した彼は、首尾よく同所の一員となれたものの、まかされた仕事は“クレハロンに関する”衛生試験であった。東京オリンピックを間近にひかえた昭和37年のことである。
ちょうどその頃、米国では合成樹脂による毒性の問題が「NEWS WEEK」をはじめ、各マスコミの紙面を賑わせていた。「このままだと日本でも間もなく騒ぎはじめるだろう。その前に樹脂の一般毒性試験と発がん性の有無をも含めた動物実験のデータを揃えておかねば・・」という社の方針で、彼は樹脂からの抽出物の分析にとりかかった。
その頃、食品研究所は動物(マウスとラット)を飼いはじめた。
「当時、月島にあった研究所の1階で飼うことになりまして、我々はそこを「ネズミ小屋」と呼んでいたんですが、匂うんですよね。建物全体に動物の匂いがプーンと染みつく。とんでもない職場を選んだと思いました。」
だが、食品を分析し、生体の組織を調べるうちに「健康食品の開発くらい空いた手で出来るのではないか」と考えるほど、仕事に興味を持てるようになった。
「食品研究所のムードも、熊笹で健康食品をやってみよう・・とか、とにかく何か開発をやりたいという熱気で盛り上がってきたのです」
もとより食品の研究開発をやりたくて社に入ってきた彼だけに、そんなムードに夢中になった。だが、いくら知恵を絞ってもいいアイディアは浮かばない。
と、そんな折、開通したばかりの新幹線で郷里の滋賀県に遊んだ彼は、父親が仏主を務める寺の檀家に仏の幸が授かったという話を聞いた。末期のガンで死を宣告されたおばあさんが、仏の功徳によって病が治ったというのである。さらに聞くところによれば、彼女は自宅療養をしながら、サルノコシカケというキノコを煮汁を飲んでいたという。彼女がはじめ入院していた甲賀病院の医師も不思議がった。信仰厚かったおばあさんだけに本当仏の功徳だったのだろうか・・?
「その時ピーンときたのです。そこで檀家の家に出かけていろいろ聞いてみると、かなり転移の進んでいたはずの胃ガンが、キノコを飲むようになって数ヵ月後、精密検査をしたら、ほとんどキレイに消えて、本人も元気に買物に行ったりしているという。やった、これだ!と思いました。」
吉汲はさっそく、おばあさんに飲ませたという数十種類のキノコを貰って会社に持ち帰り、嬉々として「この研究をやらせて欲しい」と頼んだという。だが周囲の反応は冷たかった。「NO」と言われないまでも、上司も同僚も、「ばかな、そんなものが化学屋の商売になるはずがない」と相手にしなかったのである。
しかし、吉汲はキノコに獲りつかれた様に譲らなかった。そして今度は当時専務であり、東京研究所長だった大塚に直訴してみた。
「ここがクレハのいいところなんですが、若手の意見に「絶対ダメだ」とは言わないんです。それに大塚さんは研究魂の旺盛な人でしたからね。土曜日の午後にやってきて、ちゃんと聞かせてみろ・・と言ってくれました。」
吉汲は「やりたいのです」の一点張りで頑張った。「必ずマスプロになります」とも言い張った。
「そうか、それならくじけずにやってみろ。会社の施設は使っても良いが、そのかわり残業代はつけるなよ。休日出勤してやりなさい・・」
とりあえずGOサインは出た。吉汲が28歳の時である。


文献よりも実験事実の優先から生まれたクレスチン
それからの吉汲は、日常の合間をぬってサルノコシカケの分析にとりかかった。もちろん、夜遅くまで、休日を返上しての大奮闘である。同期の広瀬も、ガン細胞への効果を調べる動物実験を引き受けてくれた。いつの間にか2人は本気になった。
広瀬が行っていた動物実験の報告によれば、サルノコシカケから抽出したエキスを飲んだマウスは、ガン細胞を移植した他のマウスに比べて、病状の進行が5分の1以下に抑えられているという。
「思ったとおりだ。となると、あとは培養の問題がネックになる」
この時点で吉汲には成算があった。ただ問題は、キノコそのものではなく、菌糸体でもガンに活性があるのだろうか・・という点である。
「だいじょうぶ、うまくいくさ」
吉汲は信じていた。そして、だからこそ1日も早く動物実験でその成果を見極めてみたかった。と同時に菌糸体を工業的に増殖させることができれば、これまでのクレハの技術が役に立つ。そこ辿りついてはじめて、吉汲の考えているマスプロ化が可能となるのだ。
吉汲たちが夢中になっている間に、月日は思いもよらず早く過ぎた。そして、少しずつ彼の努力が社内で評価されるようにもなった。応援しくれる先輩や同僚も増え、わずかながらクレスチンの明日も見え始めた。うれしくなるような研究の成果は、まだ何も形として表れなかったが、吉汲のなかの“やる気”は少しずつ“自信”に変わっていった。
そんなある日、吉汲の自信をさらに強めるような出来事が起きた。それは「なぜ経口投与なのか?」という論争からはじまったのである。この問題に関して、吉汲は「経口投与でいくべきだ」と当初から決めていた。もちろん、マウスを使って他の投与経路のデータも集めてみた。だが、彼にとってはそういうデータより、故郷のあの檀家の家の庭先で、幸せそうな笑みをみせたおばあさんの印象の方が鮮烈だった。「あの笑顔に戻れるのなら経口投与で充分だ」科学者にはめずらしい盲信である。
話は、ある外部の研究所の出来事に戻る。吉汲のこの盲信をある有名な学者が「そんなことは絶対にあり得ない」と否定した。当時は「多糖類は経口投与で効かない」という学説が学会に根強く浸透しており、吉汲の発言は“爆弾発言”だったのである。
ちょうどその時、藤井(孝)という吉汲より2つ年下の青年が、クレスチンの薬効の研究に加わっていた。その研究所の学者発言にカチンと来たのは、吉汲よりむしろ彼のほうだったらしい。彼はむこうみずにも“立会い実験”という真剣勝負で殴りこみをかけたのである。
「その頃のクレハはガン研究の分野で何の実績もありませんよね。にもかかわらず、一化学屋の若僧がポーンと乗り込んでいって「見てください」とやったから、先方も驚いたと思います。」
勝負の結果は藤井の勝ち。後にこれはガン研の追試によって実証された。
「文献よりも、実験事実を優先しろ」
と、これはクレハに当時から伝わる研究者の気風である。そして大塚の後をうけて研究所長になった五味は
「さわっている間にものはできます。これは研究の基礎だ。現場にいるから、常にさわっているからヒラメキというやつが出てくる」とこんな台詞が口癖だった。
「私は今でも五味さんのこの言葉に感銘を受けています。これぞ研究者魂ですよ。文献は文献として参考にはしますけど、クレスチンはすべて実験事実を優先して押し通したんです。それが良かったんじゃないでしょうか」
吉汲は当時のエピソードを、今、こんな風に振り返るのである。


菌糸体のタンク培養から許可申請までをやってのけた20代の若き血
さて、どこまでも副業だったクレスチンが、会社の後押しを受けて一人歩きを始めたのは、吉汲がキノコを持ち帰ってから7年後の昭和46年のことである。
懸案だった菌糸体のガンに対する活性も、工業化のためのタンク培養も、吉汲がはじめに狙った通りの成果を生み出したのである。
さっそく吉汲はキノコのなかで、もっとも制ガン効果の高い菌糸体の選択に大村の参加を得て取組みはじめた。それを母菌としてタンク培養をはじめるのである。とりあえず臨床実験用のサンプルとして数百の患者に飲んでもらうだけの量が必要だった。
おりしも、その頃、栃木県壬生でキノコの菌糸を作っていた呉羽化学の関係会社が整理されることになった。売却されるという話を小耳にはさんだ吉汲は、大塚に頼み込み「サンプル用のクレスチン工場には、その設備を利用する」との決定を得たのである。
そのキノコ工場の技術責任者をしていたのが和田であった。彼は暗中を模索してあえいでいた吉汲たちにとって、唯一の信頼できる先導者となったのである。「あの時、和田さんがいなかったら、大量の菌糸体をつくる作業はかなり難航したと思います」
このようなスタートを切ったクレスチンのプロジェクトは、代謝分野で生沢、免疫分野で松永の参加などがあって47年には専従スタッフも20名となり、今度は薬事申請の準備にとりかかったのである。だが、なにぶんにも会社の景気が悪すぎた。投資を続けた石油化学の分野が、まだあまり軌道に乗らないうちに、原油をめぐる世界情勢が一変して、呉羽化学は「あわや!」と思われるほどの打撃を受けたのである。したがって、発足間もないクレスチンのプロジェクトは、予算すらないに等しい状態だった。
「人件費と基礎研究の費用だけでもかなりの額になりますからね。よく続けさせてくれたものです」それでも「やろう!」という熱気がみなぎっていたから、誰もグチひとつ言わなかった、と吉汲は言う。
そして培養物からの目的物の精製処理の方も大変だった。こちらは大阪へ大豆蛋白の研究に行って帰って来た若手の藤井が頑張った。また、プラントの周辺装置は同じく若手の小平が一手に引き受けたのである。ともに20代の青年たちであった。
いっぽう、認可申請のほうも、骨の折れる仕事である。製薬会社の専売特許のようなことを“素人の集団”がやろうというのだから、並たいていの努力ではない。吉汲と古荘が交替で厚生省に足を運び、わからないことを遂一学んだのだが、臨床データの集め方など、ことあるたびに窓口の厚生省薬務局審査課に通うという毎日だった。
「きつかったけど、多くの外部の先生方や社内の協力を得て研究から申請まで全部自分たちでやり通したのがよかったですね。失敗したり迷ったりしたぶんだけノウハウの蓄積になりました。その時学んだものが、今もずいぶん役立っています」


社の財政難の中、自由な気風に支えられたクレスチン基地
ところで吉汲たちの認可申請に歩調を合わせながら、錦工場で奮闘していた男がいる。当時、できたばかりの医薬部長となった真田。彼は認可後の本格的生産を行う錦のクレスチン工場の建設と運営をまかされた。
「敷地は広かったですからね。普通なら隅の方にポツンと建てたでしょうけど、ちょうど上に高圧線が走っていた関係で、敷地のど真ん中に小さい工場を建てたんです。後になってみれば、これが正解だった。生産量が上がるたびにその周囲に無駄なく増築できましたからね。クレスチンはいろんな意味でラッキーな要素に恵まれていました」
着工にかかった昭和51年は、呉羽化学の歴史において、財政的な困難が続いていた最中である。当然、予算は少なかった。通常の建設は、先ずプランから見積りを建てて、予算の枠を決めるのであるが、この時ばかりは「いくらでやれ!」の大号令である。
「医薬品関係の設備はコストが高いんですよ。ですから、道の舗装も止めて、たとえば工務室なんかの壁は自分たちで塗りました」
このようにして生まれたクレスチンプラントが、通常の運転を開始したのは昭和51年10月。そして翌年5月には三共株式会社を通して全国各地の病院へ供給されたのである。
「ここまで来られたのもね・・・」と感慨深げに吉汲は言う。
「研究者の好奇心をどこまでも大事にする、呉羽化学の自由を尊重する気風があったからなんです」


生化学に化学工学のシステム・オペレーションがドッキングして完成を見た、呉羽化学のクレスチン基地。この牙城は“化学を駈けた”熱き研究者たちの、ドラマティックな夢のよりどころなのである。

と言うことで申請関係は完了である。


 

 


10 「微笑」

 

PSKは学会発表等で少し名を広めていたが、この頃に発刊された本に近藤啓太郎の「微笑」という小説があり、その中にPSKらしき薬がでている。これは小説新潮、昭和48年8月から49年3月にかけて連載され、昭和49年10月に新潮社から発刊されたものである。





微笑は近藤の妻がガンになり、亡くなるまでの物語で、テレビでも高峰秀子が妻の寿美役、千秋実が近藤啓太郎役で放映された。途中で千秋実が脳出血で倒れたという記憶がある。

その中にPSKが出てくるが小説であるため、会社名や名前が少しずつ変えてある。

以下に「微笑」から、関連のありそうな部分を引用してみるがあくまで小説である。引用部分は青字である

寿美が亀田病院に戻ってから10日ほど経った昼前、英子ねえさんから電話がかかってきた。弾んだ声であった。

「あのね、昨日、水田が旅行から帰って来たのよ。奥さんのことを話したら、とても効く癌の薬があるんですって。水田が知っている中矢化学っていう会社で研究中の薬が、凄く効くんですって。今。水田が会社から電話をかけてきてね、その薬を秘書の樋口さんに持たせて、鴨川へ向かわしたからって。だから、待っていて」(中略)

4時間近く経った頃、秘書の樋口さんを乗せた自動車が着いた。樋口さんは折り目正しい感じの、30過ぎの人であった。挨拶をすますと、持参の風呂敷包みを解き、薬の入った紙箱をテーブルの上に置いた。

樋口さんは薬について、簡単な説明をした。

中矢化学はビニールなどの製造会社で、製薬会社ではない。中矢化学の社員に、滋賀県甲賀地方の出身者がいた。その社員の隣家の60すぎの爺さんが胃病になり、阪大へ行った結果、胃癌と診断された。爺さんは手術を拒否して帰って来て、自分で薬を作って飲んだ。爺さんは甲賀流忍者の末裔であって、癌にはカワラタケの煎じ薬特効ありという家伝によったのであるが、それ以来、5、6年も元気で暮らしている。その事実に注目して研究し、精製した薬であって、現在、国立がんセンターにおいて、臨床実験中である。

「この薬、冷蔵庫に入れておいて、使用するんだそうです。それから、薬がなくなる1週間前に、恐れ入りますが、手前どもまでお電話を下さいませ。中矢化学さんからいただいて来て、会社の冷蔵庫に保管しておきますので、よろしくどうぞ。ではこれで失礼します。」

と樋口さんは茶を一杯飲むと、もう立ち上がった。

樋口さんが帰ると、私はすぐに薬を持って、亀田病院へ行った。郁太郎先生は薬に添えてあった書類に目を通してから、看護婦を呼んで命じた。

「この薬、冷蔵庫へ入れておいて、毎日1本ずつ、飲ましてくれ」

私は期待に胸を弾ませながら、郁太郎先生に言った。

「こないだの変な茸の煎じ薬も効いたし、これもカワラタケから作った薬だって言うし、効くんじゃないかな。それに、がんセンターでも使ってるっていうくらいだからさ」

「がんセンターなんかでは、いろんな薬を実験的に使っているんだよ。ずいぶんいろんな薬を使っているけど、なかなか効かないんだから、あんまり期待しない方がいいよ」

郁太郎先生にたしなめられ、私は苦笑を浮かべながら黙り込んだ。(中略)

翌日、「週間ポスト」の女性編集者の百瀬さんが来た。既に郁太郎先生の了解を得て、柴田デスクに頼んでおいた、丸山ワクチンを手に入れて、届けてくれたのである。

「丸山先生って、日本医大の教授で、もうお年寄りでしたけど、とても優しくて、いい先生でしたわ。卵巣癌も今までに2人直っているから、あきらめないようにって、おっしゃいました。」

「私用で百瀬さんに面倒をかけて、すまなかった。それで、ワクチンは幾らだった?」

「ワクチンはただなんです。丸山先生、これは研究だし、一人でも助かってくれれば、それでいいんですって」

「丸山先生ってそういう人か・・・」(中略)

満の結婚式から10日余りたった頃、阿川から電話がかかってきた。

「お前、喜べ。中矢化学の薬を手に入れて、麻井に飲ましたら、ここんとこ急に快くなってきたんだ。咳も血痰も、すっかり出なくなっちゃった」

「やっぱり、効くんだな。医者は何て言ってる?」

「横ばい状態だって言ってるんだ」

「横ばいとは、変な話じゃないか。咳も血痰も出なくなったということは、それだけはっきり快くなったわけ。じゃないか中矢化学の薬の効果を、なぜ医者は素直に認めようとしないんだろう?」

「全く、医者っていうのは、変なところがあるよな。ところで、中矢化学の薬を手に入れる時、槙沢さんのお世話になった」

阿川は以前、千駄ヶ谷のマンションに住んでいた頃、隣近所の誼で、がんセンターの院長や東和海上保険の槙沢会長と知合いになった。阿川は中矢化学の薬を入手しようと思って、千駄ヶ谷のマンションに院長を訪ねて行ったところ、槙沢夫人に出会った。事情を話すと、槙沢夫人は中矢化学の重役に親類の者がいると言い、さっそく電話をかけて薬を手に入れてくれたのである。(中略)

私は亀田病院へ行き、医局で郁太郎先生と会った。弟の博行先生も一緒にいた。博行先生も毎日、寿美の診察をしてくれている。私は中矢化学の薬を飲んだ麻井の状況を話した。

「ひょっとすると、あの薬、ほんとに効くかも知れないな。今、博行先生とも話してたんだけど、何しろ不思議なんだよ」

と郁太郎先生は苦笑しながら、首をかしげて見せた。

「昨日はうちの先生みんなに集まってもらって、検討したんだけど、結局、誰も分らない」

「でも、快くなっているんだから、いいことだよ。快いことは、善いことだ」

と博行先生は唄うような調子で言って、朗らかに笑った。

その後東2の木村先生や婦人科のドクターらが診察しても、全快に近い状況が得られたことが綴られたあと、再び悪化傾向が見え始めた。

 

毎日、病院へ行く度に、気息奄々とした寿美の様子を見ながら、あせる気持ちを押えては無理な知恵をしぼり続けた。その結果、私はもう1度、医者を疑ってみるよりほか手がないと思った。具体的に言うならば、寿美のあの奇跡的な回復に中矢化学の薬の効果は全くなかったのか、ということである。単に腹水を取っただけで、あのような回復が見られるものであろうか。寿美ほどの回復は、久保先生でさえ生まれて初めて見る例だという。久保先生は今までに数え切れないほど、患者から腹水を取ったであろう。が、寿美のような回復は一度も見たことがなかったわけである。

そう考えてみると、中矢化学の薬の効果が全くなかったとは思えない。やはり、相当な効果があったと考えたい。そこで思い出すのは、薬というものはだんだんと効かなくなってくると言った、木村の言葉である。薬の量を増やしてみたら、どうであろうか。

第一、 中矢化学が決めた一日の薬の分量は、動物実験から割り出した数量である。動物と人間とでは、常識外の相違があるのではないか。私はときどき、犬に薬を与えていることで、それが良く分る。犬が嘔吐し下痢をし、食欲不振に陥ったとき、胃腸薬を4,5錠与えただけで、けろりと直ってしまう。人間が嘔吐し下痢をしたとき、家庭の胃腸薬では到底直らない。そういうことからも、実験動物から割り出した中矢化学の薬の量には大いに疑問がある。

私は今までの倍ずつ飲ませることにして、中矢化学研究所の薬担当の上野副所長に電話をかけ、了解を求めた。上野さんは薬の製作が需要に追いつかずに困ったような口ぶりだったので、私は英子ねえさんにも電話をかけ、水田さんから中矢化学の社長に交渉してくれるよう頼んだ。1月6日のことであった。

が、寿美は薬を飲むのが、苦痛らしい。飲んでも度々吐くと文が言うので、私は強く言った。

「この薬だけは、どんなに苦しくても飲め。口を押えてでも絶対に吐くな。いいか。分ったか」(中略)

中矢化学の薬を倍量にしてから5日目の朝、思いがけなくも寿美から電話がかかってきた。

「今日は朝から、急に気分が爽快なんですよ。どうしたんでしょうね」

と寿美は。声にも元気があった。

「朝ごはんも、おいしくてね。自分でも。びっくりしているの」

「すぐそっちへ行く」

私は電話を切るなり、今度はタクシー会社のダイヤルを回した。タクシーが来るまで、まどろっこしくてならない。玄関を出て、タクシーを待ち受けた。

病室へ入って、寿美の顔を見るなり、私は驚いて立ち竦んだ。これが昨日までの寿美とは、どうも信じられない。唇は赤く、頬にも血の気がさしていた。かったるそうに目を閉じていた目をはっきりと開いて、私を見返しながら、寿美は笑いかけた。

「さっき、グレープ・フルーツを食べたら、うまいのに驚いちゃった。急に悪くなったり、快くなったり、全く変な病気ですね」

「いや、全く驚いたな」

と言いながら、私は喜びがこみ上げてきて胸がいっぱいになった。

「さっき、郁太郎先生がまた腹水を取る用意をして、看護婦さんと一緒に来たんだけど、私の顔を見るなり、驚いて急に腹水を取るのをやめちゃったわ」

「おれ、ちょっと郁太郎先生に会ってくるよ」

私は病室から廊下に出ると、偶然、郁太郎先生が向こうから歩いて来た。私の姿を認めると、手招きしてから、ナースステーションに入って行った。机をはさんで差し向かいに座ると、郁太郎先生はお手上げだと言う表情で笑いながら言った。

「突然、今朝からがらりと快くなってきちゃったよ。いや、全く振り回されちゃうなあ。僕には全然分んないや」

「いや、おれも今見て、嘘みたいに元気なんで、ほんとに驚いちゃった。やっぱり中矢化学の薬のせいじゃないのかな。最初のときも、薬を飲みはじめてから、5、6日で、急に快くなってきたからね」

「まだ、なんとも言えないけど、とにかく不思議だよ。奇々怪々とは、まさにこのことだよ」

と郁太郎先生は分らないというふうに頭を左右に振って見せながら、声を上げて笑った。

翌日、寿美はさらに元気になった。私が行くと、ベッドから起きて茶を入れようとした。私は叱りながら、どうしても嘘のような気がしてならなかった。

その次の日、中矢化学研究所副所長の上野さんと所員の吉国さんが、寿美の様子を聞きに我が家に来た。上野さんは40歳すぎの農学博士であって、医者ではなかった。私が黒い柄の茸の煎じ薬の効力について話すと、上野さんはそれをノートに書き取り、黒い柄の茸の略図も描き、研究資料とした。上野さんは中矢化学の薬の効果について事例を挙げて説明し、またカワラタケを精製する苦労話もした。上野さんは学者に似ず、話術の巧みな人であった。上野さんの話を聞いていると、私はもう大船に乗ったような気になった。

「つかぬことを伺いますが、あの薬、1本つくるのにいくらぐらいお金が掛かるんですか」と私は上野さんに訊いてみた。

「そうですねえ?・・何から何まで計算すると、今のところ、1本、1万円くらいにつくんじゃないでしょうか。いずれは千円か千五百円くらいで、販売できるようになると思いますが・・・」

「1万円・・・。すると、うちの女房は毎日、2万円ずつ飲んでいることになるわけか・・・!」

「まあ、そうです」

と上野さんは笑いながら

「帝国製鋼にはうちの会社も弱いんですよ。うちの製品を買っていただいていますからね。帝国製鋼の社長から、2本ずつくれと言われれば、無理してそうするより仕方ありません」

水田さんは中矢化学に対して強い立場であるだけに、無理強いするようで、請求が却ってつらかったであろう。

私は上野さんと吉国さんを案内して亀田病院に行き、郁太郎先生を紹介した。9階の喫茶室で紅茶を飲みながら、郁太郎先生が上野さんに言った。

「僕もあの薬使ってみたいな。うちにも何人か癌患者がいますからね」

「何とかいたしましょう」

「あの薬には、今のところ、副作用が全くない。そういう抗癌剤は珍しい」

私は郁太郎先生と上野さんの会話を聞きながら、うきうきとして東京へ行って遊びたくなってきた。(中略)

 

その後寿美さんはPSKを2倍量、3倍量服用したりして治癒と悪化を繰り返し、東京第2病院へ転院し、さらに完治かと思われるほど回復した。が、著者が禁を破ってついに卵巣癌であることを打ち明けてしまった。

この告白の原因は著者が上野さん宛にお礼として贈った蜂蜜の礼状が寿美さんに届いたことにより、上野さんはどういう関係の人かと問われ、肝臓の薬を送ってもらっている会社の人で、この薬は肝臓病の特効薬だと説明したが、同じ病棟の癌の人が飲んでいたので「本当は癌の薬ではないか」「私は肝臓癌ではないか」などのやり取りがあって「そうではない、卵巣癌だ」とついにしゃべってしまうのである。

結局、この告白以後、急激に悪化し、帰らぬ人となったが、卵巣癌の末期の七転八倒する癌性疼痛を痛み止めの注射を打ちながら見事に我慢し、眠っている間はいつも微笑えんでいたことからタイトルが「微笑」と付けられたようである。

PSKの効果は単独で有効であり、申請では東京第2病院外科の症例として、採用された。
小説の中の「中矢化学」は「呉羽化学」であり、「上野副所長」は「U」、「𠮷国所員」は「Y」である。

 

後日ネットでPSKを検索していたらhttp://www.geocities.jp/syousetu_gan/index.htmlにPSKのことが、この「微笑」と関連して出てきた。


「癌 新薬を探せ!ある松下電器常務 闘病の記録」島田國雄とあり、松下産業株式会社(現パナソニック)の重役が癌になり、それをもとにした御子息の物語である。この中で中矢化学が「呉羽化学」であると近藤啓太郎から教えてもらったとある。

第6章にPSKとあり、次のような記載がある。以下の青字は引用部分。


第六章 〝PSK〟

十二月十日 三回目の丸山ワクチンをもらいに行く日である。今回も、兄と一緒だった。前日の朝刊の広告欄に、近藤啓太郎著《微笑》という新刊書が掲載されていた。内容の説明に癌の一文字が入っていたので、私は、東京へ行く車中で読もうと思い、昨日の間に買っておいた。新幹線に乗るとすぐに、私はその本を読み始めた。文中では登場人物の名前が変えられていたが、近藤啓太郎氏自身の話であることはすぐに分かった。

敬一郎の奥さんである寿美が癌を患い、最後は亡くなってしまうのだが、途中で使用したある薬が驚異的な効果を発揮し、かなりの期間、寿美が完全に治ったように見えたという内容だった。「中略」

私は、すぐにでも、その薬を手に入れたいと思い、東京の上野でバス待ちの間に出版社に電話した。私の声が余程、切羽詰まった声をしていたのかもしれないが、編集部で近藤先生の自宅の電話番号をすぐに教えてくれた。私が電話をすると、近藤先生本人が出てくれたので驚いた。「中略」

私は父の病状のことを説明し、今から丸山ワクチンをもらいに行くところであることや、父を何とか治したいと思っていることなどを早口で捲し立てた。近藤先生も私の気持ちをすぐに汲み取ってくれたようで、本来なら簡単に教えてもらえないようなことも、すべて話してくれた。

文中では、中矢化学が製造し、国立癌センターで臨床試験中であると書いてあったが、中矢化学というのは、呉羽化学のことであり、発売元は三共製薬であるということだ。また、薬の名前もラックスと書いてあったが、実際には、まだ治験薬の段階で、PSK(後のクレスチン)という名称で呼ばれており、大阪なら、大阪大学微生物病研究所付属病院で臨床試験中であることなども教えてくれた。 「中略」

兄がそれに答えた後で、今度は私がPSKのことを話し始めた。《微笑》という本に載っている薬が癌に著しい効果があったと書いてあった。電話で尋ねると、その薬はPSKといって、大阪大学微生物病研究所付属病院で臨床試験中だと教えてもらったことなどを話した。

田附先生は、「 そんなに効く、いい薬がありますか・・・分かりました。そこの院長は知ってる先生なんで紹介状を書きましょう」と言ってくれた。その先生は田口鉄男先生といい、癌の権威であり、日本でも屈指の有名な先生であることも教えてくれた。「中略」

翌日、会社で、朝の打ち合わせを終えるとすぐに、公衆電話から微研に電話を入れた。交換で待つように言われたが、私は待っている間も、期待と緊張で胸の鼓動が激しく打っていた。暫くすると田口先生の声がした。男性的な太い声で、だからと言って、圧迫感のない柔らかな声だった。私は先生のその声を聞いた途端に緊張がほぐれ、「 田附先生に御紹介頂きました島田と申します」 と言った。「 あぁ、聞いてます。今日、何時頃来られますか」 と丁寧に聞いてくれた。一時に決まり、私はすぐに兄に電話を入れて、十二時四十五分に微研の駐車場で待ち合わせることにした。

付属病院は、微生物病研究所と隣り合わせになっていて、田口先生は微生物病研究所付属病院の院長だった。受付けで、田口先生と約束していることを告げると、院長室を教えてくれた。院長室は二階の奥まった部屋だった。兄が扉をノックすると「どうぞ」と声が聞こえたので私達は扉を開けた。「中略」

「 PSKですか……あれは今、臨床試験中の薬で、かわら茸というキノコから熱抽出したものなんですよ。いくらでも差しあげますから、使ってみて下さい」 とこんなに偉い先生が、私達のような年齢の低い者に敬語でしゃべってくれた。「中略」

私が本の話をすると、田口先生は、「そんなにあれが効いたと書いてましたか」と少し驚いた顔をした。私は、少し自慢気にその下りを話したが、田口先生は、「あれは普通、単体で使うより、抗癌剤と併用して、その副作用を和らげるというものなんで、あれだけを使うというのは、どんなもんでしょうかね」 と言った。私は免疫療法に心酔していたので、『先生は、ご存知ないのかな。これは免疫療法では最高のものなのに・・・』と神をも恐れぬ生意気なことを考えていた。しかし、その時はまだ、PSKの使用法というものは、確立されていなかったようだった。田口先生に待つように言われ、私達が暫く待っていると、先生自ら袋に一杯のPSKを持ってきてくれた。私達にとって、それは宝物より大切なものに見えた。「中略」

中川医師にはPSKのことは何も言ってなかったので、兄から説明したが、「そんな薬があるんですか」と丸山ワクチンの時とは表情が全く異なり、その対応の違いに、私は困惑させられてしまった。中川医師にPSKを渡した後、私達は病室にいた。夕方、看護婦が持ってきた薬の中にPSkが加えられていた。暫くすると中川医師が入ってきて、「今日からこれを飲んで頂きます。少し飲みにくいかもしれませんが、体の調子を良くする薬ですから頑張って飲んで下さい」と父に説明してくれた。父は少し変な顔をしながら頷いていた。田口先生からPSKを受け取った時、私は有頂天になっていたので、余りその薬を見ていなかった。よく見ると、コップに五分の一ぐらいしか入ってないのだが、真っ黒で気味の悪い薬だった。
 
とあり、当時のPSKは「真っ黒で気味の悪い薬」だったことがわかる。

田口先生はその頃PSK研究会の外科部会でPSKとフトラフールの併用試験を実施中でいわゆる延命効果を検証中であった。また、発売元が三共製薬とあるが、治験中であればまだ確定していない時期だと思われるのだが・・・



 

  9 がんセンター贈収賄事件

申請の準備中、昭和50年に国立がんセンター職員の贈収賄事件が勃発した。その内容を昭和51年度警察白書より引用する。

事例1〕 国立ガンセンター職員らの贈収賄事件
 国立ガンセンター薬剤科長らが、同病院への薬剤納入に関し業者に便宜を与え、自分たちが都内の高級ホテル等で飲食した代金の請求書を、薬品納入業者ら3人に示して支払を要求し、115万円相当の賄賂を受け取っていた(警視庁)。

 さらに詳しい内容は参議院会議録に詳しいのでそれを引用する。 

『第076回国会 公害対策及び環境保全特別委員会 第2号
昭和五十年十一月十九日(水曜日)

「前略」

○神沢浄君 厚生省。

○説明員(浅野一雄君) 国立がんセンターを直轄している主管課長といたしまして、こういう問題を引き起こしたことに対しまして深くおわび申し上げます。

 いま先生御指摘のこの事件の概要と性格でございますけれども、大きく二つに分かれるかと存じます。 一つは医薬品の購入に関します贈収賄事件でございます。で、簡単に申し上げますと、国立がんセンターの薬剤科長と副薬剤科長、それから製剤主任の三人の薬剤師がその地位を利用して、薬剤購入に便宜を与えたということで逮捕された事件でございます。それから、もちろんこの問題に関しましては、われわれいろいろ現在検討しております。まあ購入手続き等には問題はなかったかと思いますが、一つのポストに長くこの薬剤師がいたというところに問題があろうかということで、十分反省している次第でございます。

 もう一つは治験薬の取り扱いについてでございます。この二番目の治験薬の問題につきましては、司直の手で調べられましたが、贈収賄事件としては特に立件されませんでしたが、社会を騒がしたという点において、先生の御指摘のとおりだと思います。この治験薬の問題につきましては、いわゆる新薬開発の途中におきまして臨床試験を行わなければなりませんが、それは国立病院のみならず、各病院で行われているわけでございますが、特にがんセンターにおきましては、私の口から申し上げるのはどうかと思いますが、日本におけるがんの研究ではトップクラスの病院でございますので、そういうふうな関係で、いろいろの制がん剤の治験の委託を受けたというふうなことに端を発しまして、まあ非常にその件数も多いと、また委託費の金額も多いというふうなことから、われわれといたしましては、会計法上は問題がなかったと思っておりますけれども、個人の恣意が働いたと申しますか、個人的な管理下に置かれていたというふうなことで非常に問題があったと思っております。

まあ、この二つの問題につきましては、一つは贈収賄事件、一つは贈収賄事件ではございませんが、国立がんセンターとしては、非常に複雑に絡んだ問題として、われわれ十分反省している次第でございます。

   更に委託研究についても

次に厚生省ですが、端的に申し上げますが、これはまた表面に出た事件なんというのはそれは何といいますか、ちょっと品性低劣な一部の者が、誤った立身出世主義みたいなことでもってしでかしたことのように思います。しかし、これも私、調べてみましたらそんなことではなくて、もっとそれこそ重大な問題がひそんでおるというようなことをこれは気がつかざるを得なかったんですがね。これは毎日新聞の報道ですが、がんセンの副院長という人がこういうことを言っているわけですね。ちょっと読んでみます。
  調べに対して木村副院長は、治験の費用名目で金を受け取り、一部を研究費に、残りを出張の費用、忘年会、新年会の費用、またその二次会の遊興費に使っていたことを認めたが、自分個人の家計や飲み食いには使っていないと供述。また1自分の知る限りでは現在の預金残高である千六百万円の数十倍の金が業者から治験費用の名目で病院に渡っており、その額は多分三億円を超えている2医局を運営する裏金が要るので、治験費用の名目で製薬会社の協力を受けた3こうしたことは全国の国、公立病院どこでも慣習になっており、年間三十億円が製薬会社から国、公立病院に流れているはず――と供述、
こう書いてあります。さらにその副院長の談話として、
  木村副院長は六月夜、毎日新聞記者との会見に応じ、治験費の使い方やメーカーからの援助がなければ医局のスムーズな運営ができない点などを次のように語った。
  治験費は実験器具の購入や病理実験の助手、アルバイトへの謝礼に使ったり、医師の出張費、外国から有名な研究者が来た時の接待費などに使った。われわれは治験費を研究補助費と考えている。もちろん、治験活動は日常の医師活動をしながらできるのだから、特別の費用がかかるわけではない。
  だから国の研究費で治験費をまかなうこともできるわけだが、今度は医局の運営費が足りなくなる。たとえば、研究会を毎週のように開いて必要な医師を講師に頼むが、その講師の宿泊代や飲食代が足りないという状態だ。捜査二課は、この治験費の受渡しが汚職の温床だといっている。確かに金銭面でルーズになりがちで疑惑を呼んだことは反省しているが、我々の方からワイロを取るつもりで要求したことはない。善意のメーカーが我々の研究を援助してくれる程度に考えている。

 こういうが出ているんです談話ね。これは私率直のところ警察にも尋ねてみました。まあ金額なんかの点については必ずしもこのとおりに警察でも押えているではないようです。しかし、大体いま副院長が言っておるようなことが実態であることは警察でも認めているようであります。こうなりますと、まず第一に指摘をしなければならぬのは公私の混同ですね。出張費なんというのは、これは公のものだろうと思いますよ。それから、何か聞くところによると、病院の運営でもって何か臨時雇いなんかして、その臨時雇いの賃金なんかまで業者から出ている金でもって払っている。一方においては、忘年会の費用や遊興飲食にも使われている。けじめが全然ないわけなんですね。しかも、この談話でもってまず感じられることは、そういう善悪の認識とか、大体罪の意識というようなものが全然これはないんですね。こういうことがここで書いてあるように全国の国公立病院においてはどこでももう慣習化されて行われておると言うに至っては、これは容易ならないことだと思います。何か私などの聞いたところでは、これだけの問題でなしに、たとえばいま言い値でもって薬を買っておるのは国公立病院であって、他の私立あるいは開業医などにおいては、かなり薬の購入なんかについても適正な価格を業者に認めさせて買っておる。国公立病院では言い値でもって薬を買うものですから、端的な言い方をすると、その分がこういう治験費というような名目でもって病院へ返ってくる。返ってきた金がこういうふうな使い方をされておる。表へ出た事件なんというものは、こんなものはきわめて微々たるものですけれども、まずこういうような実態というものを、これはこの際ひとつ厚生省としては本当に真剣に改善是正に取り組んでもらわなければ――あるいはとてもそういうことはいまの厚生省なんかでは、昔から象牙の塔なんという言葉があるとおり、学者だとかこういった特殊の部門に対しては口がきけないというようなことがあってそのままになってきておるのかどうかわかりませんけれども、それはこの際、本当にメスを入れてもらわなければどうにもならぬですよ。繰り返すようですけれども、これは国民の側からすれば、要りもしない薬も買わされたり治療もさせられたりということにもなりかねないわけでありまして、しかも公私の名分がはっきりしないなどという状態がさらに今後も続いていくなんということになりましたら、これは容易ならぬことだろうと、こう思うんでありまして、いろいろ調べたこともありますが、時間がないものですから一番重大だと思われる点を一つ取り上げて、これは今後厚生省としてはどうしていかれるのかという点をお聞きしておきたいと、こう思います。


○説明員(浅野一雄君) 言いわけがましくなるかもしれませんが、国立がんセンターの性格というのをもう先生御存じのとおりだと思うんでございますけれども、先ほど申し上げましたように日本で一、二を争うがんの臨床研究をやっているところでございます。したがいまして、医師にいたしましても、薬剤師にいたしましても、かなりのレベルの人が集まってきております。また、それらの技術屋の総合力を発揮することによりまして、日本のがんの医療並びに研究の推進ということが行われているというふうな従来自負があったわけでございます。で、その自負が今度逆にその自件を引き起こしたとわれわれは考えておる次第でございます。で、いま先生おっしゃいました木村副院長でございますけれども、木村さんは、白血病という血液の病気がございますが、これは血液のがんと言われております、これの日本的な学者でございます。世界的にも有名な人でございます。そういうふうなことで、治験一つにしましても木村さんのところにいろいろ集まってくるというふうな事態がある、また学者の卵もたくさん集まってくるというふうなことから、非常に世帯が大きくなっていたわけでございます。これはがんセンターのみならず日本的に、大学もまたほかの病院の研究者、臨床家もみんな木村先生の教えを請うというふうなことがございました。その関係で、百人近い弟子が学位を取ったり、またそういうふうな関係で、講演会に木村さんが呼ばれたり、原稿を帯いたりというふうなこともございまして、そのあたりのいわば私的な金も、また公的な研究費もごっちゃにしていたという点に問題があったわけでございます。警察の調べを終わって帰ってきました段階で、われわれ厚生省の医務局の幹部が木村さんからいろいろお話を聞きましたが、どの程度警察で話をしたのか、われわれには何か隠しているのかその点わかりませんが、われわれが聞き出した範囲におきましては、決して飲み食いに使ったりというふうなことはないようでございます。ということで、いろいろ通帳その他メモ等調べてみましたが、製薬メーカーからいただいた金につきましては、実験器具、またそれに必要な人件費というものは私は当然の支出だと思いますが、いわゆる実費的なもので消費しておりまして、余りむだ遣いと申しますか、それ以外のものには使っていないように思われました。ただ、いま申し上げましたように私的な金もかなり入っておりますので、それが一つの通帳で個人的に管理されていたというところに疑惑が生じたんだろうと思いますので、即刻その点につきましては、私的なものと公的なものを分けるように指示いたしまして、現在作業中でございます。そういうふうなことでございまして、先生御指摘のとおり公私混淆と言われるのはそのあたりに問題があっただろう、特に金の管理の点でそういうふうな知識に乏しい一人の医師が管理したというふうなところに問題がございますので、今後の問題といたしましては、これを公的な場でやっていく。がんセンターといえどもと申しますか、がんセンターといたしましては、従来、治験薬の取り扱いにつきましては薬剤委員会の中に治験薬取扱小委員会というものを置きまして、技術的には十分な検討をしておりましたが、残念ながら会計上の問題で不備があったという点をわれわれは反省しておりますので、それを今後、会計的にも全部その治験薬取扱小委員会で公的に、ガラス張りにしていくというふうなことで、現在、今週じゅうにでもその制度を固めたいというふうに考えている次第でございます。

 最後に先生御指摘の、ほかの国立病院並びに公立病院――公立病院のことは私はわかりませんが、ほかの国立病院を調べてみましても、がんセンターのようなことはございませんで、もちろん取り扱い件数も少うございますけれども、薬剤委員会を設けまして、そこで薬の内容等につきましても十分チェックし、また金の管理につきましても、事務官も入りまして、十分に管理されているという実態をつかんでおります。しかし、そういうふうな誤解を生じた現段階におきましては、全国立病院を通じて、今後こういうことが起こらないように、十分な指導体制を敷きたいというふうに考えている次第でございます。

「後略」

以上ががんセンター贈賄事件の概要である。呉羽でも全国の国公立の病院で治験中であり、委託研究費も出し、盆暮れには付け届けをしていたので、そういう会社に特捜が踏み込むのではないかという噂があり、Yと二人で贈収賄に関わるような文書の対策を考え、結局疑われそうな書類で不必要なものや関係先のドクターの住所、電話番号など個人を特定できる情報も焼却処分することとした。またこの仕事は秘密裏に行うことがベターと判断し、仕事が終わった後の深夜に焼却することを考えた。

 当時のCTには馬鹿でかい焼却塔があり、行動を特定できる日誌などの私物を含め、関係書類を数日にわたりYと二人で焼却した。この仕事が彼の中で私を外様から譜代に昇格させ?、その後のYとの深い関係につながっていくことになった原点かも知れない。

汗と焼却熱による眼の痛みと徹夜での焼却の苦労は今でも思い出すことが出来るが、残念ながら?贈収賄事件はがんセンターのみで終息したので徒労に終わった。 

噂ではがんセンターへの食い込みを図っていたT社がなかなかうまくいかず、薬局に問題ありと告発したらしいというが真偽は分からない。また、薬剤科長らが海外出張の餞別を要求したことが事件の発端とも言われたようだった。その後各メーカーの不祥事は多々発生したがこれらは後で述べるかも知れない。

それ故PSKが認可されるまでの個人的な記録(仕事関係の)は殆どなくなってしまったので記憶をたどって記している。


 


  32 ゾロ品 クレスチン製造は基本特許(昭和43年10月3日 制癌剤の製造方法 特許登録番号968425 昭和51年公告)により昭和63年10月3日までの20年間は特許法によって守られていた。 特許が失効すると医薬品メーカーはある条件下で同一類似品(後発品)を承認申請出来る。...