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28 東京研究所

昭和48年に東京研究所(以下CTと略)に異動してからの様子を少し述べよう。

昭和48年にCTの壬生分室に異動になったときのCT所長は通産省から呉羽に天下ったYであったが、同年11月にCTに内部異動したときにYは兼務していたCT所長を解かれ、副所長をしていたHが所長となった。PSK開発の担当だった同じ副所長のUは昭和50年なぜか食品研究所の所長として異動していった。Uの秘密主義を本社の企画本部長であったY元CT所長が気に入らなかったとも言われた。

H所長がK大薬学部出身という背景からか(U副所長を外に出した時から)それまでは医薬品開発には全く無関係だったにも関わらず医薬品開発の担当となった。HはO元副社長からも大変可愛がられていたようで、留学経験者でもあったのも担当になった理由かも知れない。会社というのは組織で動くようで医薬品の開発に向くか否かは無関係だったことはその後の研究所長の履歴から見てよく分かった。それにしてもHは頭の良いまた要領の良い人だった。

昭和49年にPSKの保護者であったO元副社長が突然亡くなられ、PSK開発者のYがその命運をかけて「医薬品としてのPSK申請」を決心した時に、Hはその機会を利用して申請関係、工業化、社内の根回し等を手がけた。PSKが大いに売れるとPSK承認時のCT所長として社内でも有力者になった。PSKが大幅に売り上げを伸ばしているときには順調だったが、昭和57年K-247の申請が失敗に終わり責任をとらされたのか、又はN専務の命令(Yを潰せ)を無視したのがたたったのか等が噂されたが、昭和59年7月にCT所長を解任され兼務していた開発本部副本部長専任となり、CT補佐役だったKが所長になった。Kも又医薬品開発には無縁だった。その後もCT所長は医薬品開発には無関係だった人が順繰りになったが、このような態勢(経営者の判断)が医薬品開発を断念する下地を作ったのではないかと思う。

もちろん医薬品開発自体が多額の開発費用と優秀な人材と長期間を必要とし、海外の製薬会社のように巨大な組織と競争することが必須になってきた背景を考えると所詮小さな会社では開発が困難になったせいもあろう。

Kも穏やかな頭の良い人だったが、(Yの話によれば)本社N専務からのCT改革案(Yグループを消滅させるため所長室などを作るという案)を素直に実行しようとした。所長室を作ってそこにPSK(k247を含む)研究関係グループの主たるメンバーを集め、実務から手を引かせようという人事配置案を作成した。その連中を新たに本社に作る予定の医薬学術部にまとめて異動させようという案でもあったようで、その後これを実行に移そうとYにその案を示したところ、Yは「その案には賛成しかねる」と返答した。N専務にその旨報告したら、Nはそれが出来ないなら所長を首にすると脅したらしい。そこで再度Yにこの案を飲ませようとしたので、Yは「実行すればPSKの秘密をばらしてPSKを潰しますよ」と恫喝した(Yの話)。これはさすがのNも驚いたらしくその案を引っ込めたが、Kでは改革できないと2年後の昭和62年4月にKを更迭し、自分の配下にいた薬品農材営業企画室長だったTを新所長にした。

私はk247が終わったあとPSKの構造研究と同時に本社からの内緒の(Nは医薬品部の連中の東京研究所への出入りを禁止したため)PSKに関する資料作成など要請がたくさんあり仕事は相変わらず忙しかった。Nは本社の医薬関係者に「CTの協力は得ずに仕事をしろ」と命じたが、彼らにその能力は無く本社の仕事の大半はCTが内緒でおこなった。その理由はPSKの拡販には必要な仕事だったためであった。 

 

N専務との確執から呉羽を見限ったのか、Yから「ヘッドハンティングで良い条件のところがあるのでついてくるか」との話があった。(私のところにも数件ヘッドハンティングらしい電話があったが無視していた頃だが、クレスチンが馬鹿売れしているときには転職する気にはならなかった。)

Yの話を聞くとS製鉄が医薬品開発研究所を設立するので癌研究分野を担当して貰えないかという話だった。私にとってはもともとPSKの開発自体が突然の助っ人研究だったし、壬生に転勤になったときに本気で転職を考えた位なので彼に任せることにした。しかし、よく先方の条件を聞くと先ずはY一人をヘッドハンティングしたいというのであったという。Yが「PSK開発に関わった数人を纏めてなら転職を検討する」と返事したところ最初から多人数は難しいとのことでYも転職を諦めた。転職に備えてPSK関係の書類などをコピーして一応準備まではしたが。その他の誘いも数件あったらしいが結局自分が開発したPSKを無にするには忍びがたく残留することになった。

そのS製鉄の転職を断って正解だったのは後日PIフォーラムという異業種が医薬品業界に参入するフォーラムに参加していたS製鉄が退会し医薬品の開発を中止しヘッドハンティングで集めた人々を解雇したからである。もし数人纏めて移籍していたらその人々の再就職はかなり難しかったろう。PIフォーラムに参加していたS製鉄の人も転職先がなかなか見つからないと嘆いていた。PIフォーラムについては機会があれば言及しよう。

 1979年FDAが「優良試験所基準・GLP(GoodLaboratryPractice)を施行し、日本でもこれに倣い非臨床試験のデータ取り扱いが厳しくなりつつあった。申請できそうな開発品をすべてそれらに合わせる作業が行われた。これは厳しい作業もあり時代を古く見せるためにデータを取った用紙を紫外線で焼いて古く見せるようなことも行ったが、両所長とも見て見ぬふりだった。これらの作業も後日PIフォーラムで同業他社から同じような作業をしたと聞いた。それは「お上は資料が揃っていれば問題ないので、どのようにして作業したかは問わないからね」とのことだった。このような考えは業界の体質であり医薬品業界の法令違反はその後も数多く摘発された。世界に通用する医薬品開発を目指して医薬品業界は大手同士が合併していったが、それでも世界の製薬会社の規模には遠く及ばなかった。後年呉羽が医薬品開発から手を引いたのは賢明な判断だったが私たちが医薬品開発のあり方を検討したのは1990代であり、その頃撤退を決断していれば無駄な研究開発は避けられたであろう。クレスチンとクレメジンは偶然生まれた「あだ花」だったように思う。


新たに所長になったTは合成樹脂や石油化学を専門にしていた人だが、他にはNの言うことを聞く人がいなかったらしく医薬品研究無経験であったが所長に就任した。彼はYグループの解体を2~3年間かけて行うことをNに提案し、褒め殺し作戦を実行した。(この裏話はTの博士号作成を担ったと言われたNが仲間うちにうっかり漏らしたとUが教えてくれた)

Yは最初T所長の「ニコポン」作戦に引っかかり彼を信用した。

Tはクレスチンや開発中のプロジェクトの概要説明を聞いて「もう全て理解した」と豪語した。また留学経験者でもあり海外に関する研究調査などは自ら進んで担当し、よく海外出張をしたし、海外の癌学者を招聘しては講演会を開催した。YによればTは出世意識が強く、奥さんも伊藤忠の関係者をもらい、留学にも利用したしたたかな人であったようだ。

褒め殺し作戦の第一段は昭和62年6月に副所長兼1研室長だったYを副所長専任とし、1研はMに、2研はK、3研はN、細胞工学研にM、薬理・安全性研にI、製剤研にF、所長室に私をと大量のYグループの人材を室長にした。2研、3研の2室長がYグループではなかっただけでPSK開発グループの主だった人たちを優遇したように見えた。Wはその前に動物管理室室長になっており、Yはグループから多くの室長が出て大いに満足し、昭和63年に本社の研究本部副本部長として異動した(研究開発室長を兼務し?研究開発室には実務で海外からの導入案件を探すため留学経験のあるMとKもつれて異動したが、KはYから離れられると喜んだのも束の間でまたYと一緒になってがっかりしたと仲間に漏らしたそうだ。この辺にYの人となりが現れている。両人とも彼が推薦し留学先なども斡旋したのだが。)

私は所長室長になったためいわゆる研究の実務からは離れ、予算や研究テーマの選定などいわゆる管理業務がメインになった。所長室には各研究室の室長の席もあり、毎朝所長を囲んでミーティングが行われ、しばらくは順調のように見えた。1年後ぐらいからTは室長を異動させる作戦を徐々に実行していった。私にはA研究開発本部長からの頼みという名目をつくり兼務していたPSK研究マネージャーをメインにするようにとし、所長室長としての仕事を(A常務の囲碁の師匠である)Kに実務でさせるようにした。私は所長室にいたA(k2210研究マネージャー)と同じように別室で仕事をするようになった。これがYグループ外しの第1段だったように思う。

この頃所長室のY君が「PSK開発時の室員だったHがAにPSKの申請時に行ったことをいろいろ話していた」と言ってきたので、Hに確認後Yに相談しようと思い仲間を集めて箝口令を敷いた。ところが一大事とばかり誰かがはこっそりYに電話したらしい。Yから突然「料亭を用意したので遊びに来い」と連絡を受けたので出かけたところ「お前はオレに隠し事をしてるだろう」と迫ってきた。Hのことかなと思ったが一応箝口令を敷いていたので「何のことですか」と言ったら怒りだして、Hのことがばれていたことを知った。その時に「PSKはオレのものだ。お前らは手伝っただけだ。PSKに関することは全て報告してくれ」と言われ、さんざん説教され不愉快な気持ちになったが、その時からPSKに対する情熱が薄くなっていったことも事実である。翌日仲間に聞いたところ「非常に大事なことなのですぐ注進した」とIが言ったのでその事をあらかじめ教えてくれていたらYへの対応も変っていただろうと彼のこともその後用心するようになった。

昭和63年6月にPSK申請時の社長であったTは会長となりKが社長に就任した。同時にN専務も退任したが、この時CT所長だったTも役員になった。後日お世話になったIも同時に役員になっている。Kは慶応大出の営業畑であり、PSKが下り坂に突入した時期であったのでその後大変苦労された。

N元専務は顧問として残り、その後もTをコントロールしてY撲滅を執念のように追求した。

                昭和63年 社長交代

所長室長になって2年後の平成元年7月に営業部、研究部門を中心とした組織・制度の改正が行われた。私はCTのお隣にあった蚕糸研が呉羽と共同で立て替えて出来ていたサンケンビルに出来ていた新技術開発研究所(通称ST、以下STと記すこともある)の探索研究グループマネージャーとして異動した。完全に医薬研究から外されPSKからも外れた。この間にPSKの再評価や丸山ワクチンがらみの対応などを行ったが、これらは資料も膨大なので別項に譲る。開発に失敗した研究の概要は別項で既に延べた。

私の異動時にCTでも制度変えがあり、私の後任にM(1研室長から)がなり、3人のYグループの室長だったK、I、Mは研究開発マネージャーとなった。Nは3研室長から副所長兼探索兼室長に、Hが薬理・安全性研室長に、Nが構造研究研室長になり、T体制が強化されYグループは徐々に排除されつつあった。その後研究を続行できたのは数人になった。T体制以降続いた医薬品研究では新医薬品も芽が出ることは無かった。医薬研究所も最終的には消滅した。研究体制の推移については「25 再び東京研究所へ」で既に記した。

その後クレスチンの利益で再建したCTの建物と敷地は売払われた。




 

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