10 「微笑」
PSKは学会発表等で少し名を広めていたが、この頃に発刊された本に近藤啓太郎の「微笑」という小説があり、その中にPSKらしき薬がでている。これは小説新潮、昭和48年8月から49年3月にかけて連載され、昭和49年10月に新潮社から発刊されたものである。
微笑は近藤の妻がガンになり、亡くなるまでの物語で、テレビでも高峰秀子が妻の寿美役、千秋実が近藤啓太郎役で放映された。途中で千秋実が脳出血で倒れたという記憶がある。その中にPSKが出てくるが小説であるため、会社名や名前が少しずつ変えてある。以下に「微笑」から、関連のありそうな部分を引用してみるがあくまで小説である。引用部分は青字である
寿美が亀田病院に戻ってから10日ほど経った昼前、英子ねえさんから電話がかかってきた。弾んだ声であった。「あのね、昨日、水田が旅行から帰って来たのよ。奥さんのことを話したら、とても効く癌の薬があるんですって。水田が知っている中矢化学っていう会社で研究中の薬が、凄く効くんですって。今。水田が会社から電話をかけてきてね、その薬を秘書の樋口さんに持たせて、鴨川へ向かわしたからって。だから、待っていて」(中略)4時間近く経った頃、秘書の樋口さんを乗せた自動車が着いた。樋口さんは折り目正しい感じの、30過ぎの人であった。挨拶をすますと、持参の風呂敷包みを解き、薬の入った紙箱をテーブルの上に置いた。樋口さんは薬について、簡単な説明をした。中矢化学はビニールなどの製造会社で、製薬会社ではない。中矢化学の社員に、滋賀県甲賀地方の出身者がいた。その社員の隣家の60すぎの爺さんが胃病になり、阪大へ行った結果、胃癌と診断された。爺さんは手術を拒否して帰って来て、自分で薬を作って飲んだ。爺さんは甲賀流忍者の末裔であって、癌にはカワラタケの煎じ薬特効ありという家伝によったのであるが、それ以来、5、6年も元気で暮らしている。その事実に注目して研究し、精製した薬であって、現在、国立がんセンターにおいて、臨床実験中である。「この薬、冷蔵庫に入れておいて、使用するんだそうです。それから、薬がなくなる1週間前に、恐れ入りますが、手前どもまでお電話を下さいませ。中矢化学さんからいただいて来て、会社の冷蔵庫に保管しておきますので、よろしくどうぞ。ではこれで失礼します。」と樋口さんは茶を一杯飲むと、もう立ち上がった。樋口さんが帰ると、私はすぐに薬を持って、亀田病院へ行った。郁太郎先生は薬に添えてあった書類に目を通してから、看護婦を呼んで命じた。「この薬、冷蔵庫へ入れておいて、毎日1本ずつ、飲ましてくれ」私は期待に胸を弾ませながら、郁太郎先生に言った。「こないだの変な茸の煎じ薬も効いたし、これもカワラタケから作った薬だって言うし、効くんじゃないかな。それに、がんセンターでも使ってるっていうくらいだからさ」「がんセンターなんかでは、いろんな薬を実験的に使っているんだよ。ずいぶんいろんな薬を使っているけど、なかなか効かないんだから、あんまり期待しない方がいいよ」郁太郎先生にたしなめられ、私は苦笑を浮かべながら黙り込んだ。(中略)翌日、「週間ポスト」の女性編集者の百瀬さんが来た。既に郁太郎先生の了解を得て、柴田デスクに頼んでおいた、丸山ワクチンを手に入れて、届けてくれたのである。「丸山先生って、日本医大の教授で、もうお年寄りでしたけど、とても優しくて、いい先生でしたわ。卵巣癌も今までに2人直っているから、あきらめないようにって、おっしゃいました。」「私用で百瀬さんに面倒をかけて、すまなかった。それで、ワクチンは幾らだった?」「ワクチンはただなんです。丸山先生、これは研究だし、一人でも助かってくれれば、それでいいんですって」「丸山先生ってそういう人か・・・」(中略)満の結婚式から10日余りたった頃、阿川から電話がかかってきた。「お前、喜べ。中矢化学の薬を手に入れて、麻井に飲ましたら、ここんとこ急に快くなってきたんだ。咳も血痰も、すっかり出なくなっちゃった」「やっぱり、効くんだな。医者は何て言ってる?」「横ばい状態だって言ってるんだ」「横ばいとは、変な話じゃないか。咳も血痰も出なくなったということは、それだけはっきり快くなったわけ。じゃないか中矢化学の薬の効果を、なぜ医者は素直に認めようとしないんだろう?」「全く、医者っていうのは、変なところがあるよな。ところで、中矢化学の薬を手に入れる時、槙沢さんのお世話になった」阿川は以前、千駄ヶ谷のマンションに住んでいた頃、隣近所の誼で、がんセンターの院長や東和海上保険の槙沢会長と知合いになった。阿川は中矢化学の薬を入手しようと思って、千駄ヶ谷のマンションに院長を訪ねて行ったところ、槙沢夫人に出会った。事情を話すと、槙沢夫人は中矢化学の重役に親類の者がいると言い、さっそく電話をかけて薬を手に入れてくれたのである。(中略)私は亀田病院へ行き、医局で郁太郎先生と会った。弟の博行先生も一緒にいた。博行先生も毎日、寿美の診察をしてくれている。私は中矢化学の薬を飲んだ麻井の状況を話した。「ひょっとすると、あの薬、ほんとに効くかも知れないな。今、博行先生とも話してたんだけど、何しろ不思議なんだよ」と郁太郎先生は苦笑しながら、首をかしげて見せた。「昨日はうちの先生みんなに集まってもらって、検討したんだけど、結局、誰も分らない」「でも、快くなっているんだから、いいことだよ。快いことは、善いことだ」と博行先生は唄うような調子で言って、朗らかに笑った。
その後東2の木村先生や婦人科のドクターらが診察しても、全快に近い状況が得られたことが綴られたあと、再び悪化傾向が見え始めた。
毎日、病院へ行く度に、気息奄々とした寿美の様子を見ながら、あせる気持ちを押えては無理な知恵をしぼり続けた。その結果、私はもう1度、医者を疑ってみるよりほか手がないと思った。具体的に言うならば、寿美のあの奇跡的な回復に中矢化学の薬の効果は全くなかったのか、ということである。単に腹水を取っただけで、あのような回復が見られるものであろうか。寿美ほどの回復は、久保先生でさえ生まれて初めて見る例だという。久保先生は今までに数え切れないほど、患者から腹水を取ったであろう。が、寿美のような回復は一度も見たことがなかったわけである。そう考えてみると、中矢化学の薬の効果が全くなかったとは思えない。やはり、相当な効果があったと考えたい。そこで思い出すのは、薬というものはだんだんと効かなくなってくると言った、木村の言葉である。薬の量を増やしてみたら、どうであろうか。第一、 中矢化学が決めた一日の薬の分量は、動物実験から割り出した数量である。動物と人間とでは、常識外の相違があるのではないか。私はときどき、犬に薬を与えていることで、それが良く分る。犬が嘔吐し下痢をし、食欲不振に陥ったとき、胃腸薬を4,5錠与えただけで、けろりと直ってしまう。人間が嘔吐し下痢をしたとき、家庭の胃腸薬では到底直らない。そういうことからも、実験動物から割り出した中矢化学の薬の量には大いに疑問がある。私は今までの倍ずつ飲ませることにして、中矢化学研究所の薬担当の上野副所長に電話をかけ、了解を求めた。上野さんは薬の製作が需要に追いつかずに困ったような口ぶりだったので、私は英子ねえさんにも電話をかけ、水田さんから中矢化学の社長に交渉してくれるよう頼んだ。1月6日のことであった。が、寿美は薬を飲むのが、苦痛らしい。飲んでも度々吐くと文が言うので、私は強く言った。「この薬だけは、どんなに苦しくても飲め。口を押えてでも絶対に吐くな。いいか。分ったか」(中略)中矢化学の薬を倍量にしてから5日目の朝、思いがけなくも寿美から電話がかかってきた。「今日は朝から、急に気分が爽快なんですよ。どうしたんでしょうね」と寿美は。声にも元気があった。「朝ごはんも、おいしくてね。自分でも。びっくりしているの」「すぐそっちへ行く」私は電話を切るなり、今度はタクシー会社のダイヤルを回した。タクシーが来るまで、まどろっこしくてならない。玄関を出て、タクシーを待ち受けた。病室へ入って、寿美の顔を見るなり、私は驚いて立ち竦んだ。これが昨日までの寿美とは、どうも信じられない。唇は赤く、頬にも血の気がさしていた。かったるそうに目を閉じていた目をはっきりと開いて、私を見返しながら、寿美は笑いかけた。「さっき、グレープ・フルーツを食べたら、うまいのに驚いちゃった。急に悪くなったり、快くなったり、全く変な病気ですね」「いや、全く驚いたな」と言いながら、私は喜びがこみ上げてきて胸がいっぱいになった。「さっき、郁太郎先生がまた腹水を取る用意をして、看護婦さんと一緒に来たんだけど、私の顔を見るなり、驚いて急に腹水を取るのをやめちゃったわ」「おれ、ちょっと郁太郎先生に会ってくるよ」私は病室から廊下に出ると、偶然、郁太郎先生が向こうから歩いて来た。私の姿を認めると、手招きしてから、ナースステーションに入って行った。机をはさんで差し向かいに座ると、郁太郎先生はお手上げだと言う表情で笑いながら言った。「突然、今朝からがらりと快くなってきちゃったよ。いや、全く振り回されちゃうなあ。僕には全然分んないや」「いや、おれも今見て、嘘みたいに元気なんで、ほんとに驚いちゃった。やっぱり中矢化学の薬のせいじゃないのかな。最初のときも、薬を飲みはじめてから、5、6日で、急に快くなってきたからね」「まだ、なんとも言えないけど、とにかく不思議だよ。奇々怪々とは、まさにこのことだよ」と郁太郎先生は分らないというふうに頭を左右に振って見せながら、声を上げて笑った。翌日、寿美はさらに元気になった。私が行くと、ベッドから起きて茶を入れようとした。私は叱りながら、どうしても嘘のような気がしてならなかった。その次の日、中矢化学研究所副所長の上野さんと所員の吉国さんが、寿美の様子を聞きに我が家に来た。上野さんは40歳すぎの農学博士であって、医者ではなかった。私が黒い柄の茸の煎じ薬の効力について話すと、上野さんはそれをノートに書き取り、黒い柄の茸の略図も描き、研究資料とした。上野さんは中矢化学の薬の効果について事例を挙げて説明し、またカワラタケを精製する苦労話もした。上野さんは学者に似ず、話術の巧みな人であった。上野さんの話を聞いていると、私はもう大船に乗ったような気になった。「つかぬことを伺いますが、あの薬、1本つくるのにいくらぐらいお金が掛かるんですか」と私は上野さんに訊いてみた。「そうですねえ?・・何から何まで計算すると、今のところ、1本、1万円くらいにつくんじゃないでしょうか。いずれは千円か千五百円くらいで、販売できるようになると思いますが・・・」「1万円・・・。すると、うちの女房は毎日、2万円ずつ飲んでいることになるわけか・・・!」「まあ、そうです」と上野さんは笑いながら「帝国製鋼にはうちの会社も弱いんですよ。うちの製品を買っていただいていますからね。帝国製鋼の社長から、2本ずつくれと言われれば、無理してそうするより仕方ありません」水田さんは中矢化学に対して強い立場であるだけに、無理強いするようで、請求が却ってつらかったであろう。私は上野さんと吉国さんを案内して亀田病院に行き、郁太郎先生を紹介した。9階の喫茶室で紅茶を飲みながら、郁太郎先生が上野さんに言った。「僕もあの薬使ってみたいな。うちにも何人か癌患者がいますからね」「何とかいたしましょう」「あの薬には、今のところ、副作用が全くない。そういう抗癌剤は珍しい」私は郁太郎先生と上野さんの会話を聞きながら、うきうきとして東京へ行って遊びたくなってきた。(中略)
その後寿美さんはPSKを2倍量、3倍量服用したりして治癒と悪化を繰り返し、東京第2病院へ転院し、さらに完治かと思われるほど回復した。が、著者が禁を破ってついに卵巣癌であることを打ち明けてしまった。この告白の原因は著者が上野さん宛にお礼として贈った蜂蜜の礼状が寿美さんに届いたことにより、上野さんはどういう関係の人かと問われ、肝臓の薬を送ってもらっている会社の人で、この薬は肝臓病の特効薬だと説明したが、同じ病棟の癌の人が飲んでいたので「本当は癌の薬ではないか」「私は肝臓癌ではないか」などのやり取りがあって「そうではない、卵巣癌だ」とついにしゃべってしまうのである。結局、この告白以後、急激に悪化し、帰らぬ人となったが、卵巣癌の末期の七転八倒する癌性疼痛を痛み止めの注射を打ちながら見事に我慢し、眠っている間はいつも微笑えんでいたことからタイトルが「微笑」と付けられたようである。PSKの効果は単独で有効であり、申請では東京第2病院外科の症例として、採用された。
小説の中の「中矢化学」は「呉羽化学」であり、「上野副所長」は「U」、「𠮷国所員」は「Y」である。
後日ネットでPSKを検索していたらhttp://www.geocities.jp/syousetu_gan/index.htmlにPSKのことが、この「微笑」と関連して出てきた。
「癌 新薬を探せ!ある松下電器常務 闘病の記録」島田國雄とあり、松下産業株式会社(現パナソニック)の重役が癌になり、それをもとにした御子息の物語である。この中で中矢化学が「呉羽化学」であると近藤啓太郎から教えてもらったとある。第6章にPSKとあり、次のような記載がある。以下の青字は引用部分。
第六章 〝PSK〟十二月十日 三回目の丸山ワクチンをもらいに行く日である。今回も、兄と一緒だった。前日の朝刊の広告欄に、近藤啓太郎著《微笑》という新刊書が掲載されていた。内容の説明に癌の一文字が入っていたので、私は、東京へ行く車中で読もうと思い、昨日の間に買っておいた。新幹線に乗るとすぐに、私はその本を読み始めた。文中では登場人物の名前が変えられていたが、近藤啓太郎氏自身の話であることはすぐに分かった。敬一郎の奥さんである寿美が癌を患い、最後は亡くなってしまうのだが、途中で使用したある薬が驚異的な効果を発揮し、かなりの期間、寿美が完全に治ったように見えたという内容だった。「中略」私は、すぐにでも、その薬を手に入れたいと思い、東京の上野でバス待ちの間に出版社に電話した。私の声が余程、切羽詰まった声をしていたのかもしれないが、編集部で近藤先生の自宅の電話番号をすぐに教えてくれた。私が電話をすると、近藤先生本人が出てくれたので驚いた。「中略」私は父の病状のことを説明し、今から丸山ワクチンをもらいに行くところであることや、父を何とか治したいと思っていることなどを早口で捲し立てた。近藤先生も私の気持ちをすぐに汲み取ってくれたようで、本来なら簡単に教えてもらえないようなことも、すべて話してくれた。文中では、中矢化学が製造し、国立癌センターで臨床試験中であると書いてあったが、中矢化学というのは、呉羽化学のことであり、発売元は三共製薬であるということだ。また、薬の名前もラックスと書いてあったが、実際には、まだ治験薬の段階で、PSK(後のクレスチン)という名称で呼ばれており、大阪なら、大阪大学微生物病研究所付属病院で臨床試験中であることなども教えてくれた。 「中略」兄がそれに答えた後で、今度は私がPSKのことを話し始めた。《微笑》という本に載っている薬が癌に著しい効果があったと書いてあった。電話で尋ねると、その薬はPSKといって、大阪大学微生物病研究所付属病院で臨床試験中だと教えてもらったことなどを話した。田附先生は、「 そんなに効く、いい薬がありますか・・・分かりました。そこの院長は知ってる先生なんで紹介状を書きましょう」と言ってくれた。その先生は田口鉄男先生といい、癌の権威であり、日本でも屈指の有名な先生であることも教えてくれた。「中略」翌日、会社で、朝の打ち合わせを終えるとすぐに、公衆電話から微研に電話を入れた。交換で待つように言われたが、私は待っている間も、期待と緊張で胸の鼓動が激しく打っていた。暫くすると田口先生の声がした。男性的な太い声で、だからと言って、圧迫感のない柔らかな声だった。私は先生のその声を聞いた途端に緊張がほぐれ、「 田附先生に御紹介頂きました島田と申します」 と言った。「 あぁ、聞いてます。今日、何時頃来られますか」 と丁寧に聞いてくれた。一時に決まり、私はすぐに兄に電話を入れて、十二時四十五分に微研の駐車場で待ち合わせることにした。付属病院は、微生物病研究所と隣り合わせになっていて、田口先生は微生物病研究所付属病院の院長だった。受付けで、田口先生と約束していることを告げると、院長室を教えてくれた。院長室は二階の奥まった部屋だった。兄が扉をノックすると「どうぞ」と声が聞こえたので私達は扉を開けた。「中略」「 PSKですか……あれは今、臨床試験中の薬で、かわら茸というキノコから熱抽出したものなんですよ。いくらでも差しあげますから、使ってみて下さい」 とこんなに偉い先生が、私達のような年齢の低い者に敬語でしゃべってくれた。「中略」私が本の話をすると、田口先生は、「そんなにあれが効いたと書いてましたか」と少し驚いた顔をした。私は、少し自慢気にその下りを話したが、田口先生は、「あれは普通、単体で使うより、抗癌剤と併用して、その副作用を和らげるというものなんで、あれだけを使うというのは、どんなもんでしょうかね」 と言った。私は免疫療法に心酔していたので、『先生は、ご存知ないのかな。これは免疫療法では最高のものなのに・・・』と神をも恐れぬ生意気なことを考えていた。しかし、その時はまだ、PSKの使用法というものは、確立されていなかったようだった。田口先生に待つように言われ、私達が暫く待っていると、先生自ら袋に一杯のPSKを持ってきてくれた。私達にとって、それは宝物より大切なものに見えた。「中略」中川医師にはPSKのことは何も言ってなかったので、兄から説明したが、「そんな薬があるんですか」と丸山ワクチンの時とは表情が全く異なり、その対応の違いに、私は困惑させられてしまった。中川医師にPSKを渡した後、私達は病室にいた。夕方、看護婦が持ってきた薬の中にPSkが加えられていた。暫くすると中川医師が入ってきて、「今日からこれを飲んで頂きます。少し飲みにくいかもしれませんが、体の調子を良くする薬ですから頑張って飲んで下さい」と父に説明してくれた。父は少し変な顔をしながら頷いていた。田口先生からPSKを受け取った時、私は有頂天になっていたので、余りその薬を見ていなかった。よく見ると、コップに五分の一ぐらいしか入ってないのだが、真っ黒で気味の悪い薬だった。
とあり、当時のPSKは「真っ黒で気味の悪い薬」だったことがわかる。田口先生はその頃PSK研究会の外科部会でPSKとフトラフールの併用試験を実施中でいわゆる延命効果を検証中であった。また、発売元が三共製薬とあるが、治験中であればまだ確定していない時期だと思われるのだが・・・
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