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11  呉羽・創世記

 

「呉羽・創世記」という人材募集用のパンフレットが後日発刊された。発刊日は不明だが添付資料に昭和59年3月期の業績が記されていることから、昭和60年頃の発刊と思われる。





その中にkureha development storyとして、クレスチン物語、クレハロン物語、UN・SN物語が取上げられている。
クレスチン関係部分を引用(青字は引用部分)するとサクセスストーリーとして格好のよい話となった。

 

クレスチン物語


上野から常磐線でおよそ2時間、いわき市の入り口“勿来”の郊外に雄大な広がりを見せる呉羽化学錦工場。ここの西側、グリーンの芝生が続く静穏な一角に抗がん剤として知られるクレスチン(PSK)の基地がある。銀色のパイプが縦横にはしるその牙城の外観は、とても生化学の拠点とは思えない。どちらかというと工業技術の粋を集めた先鋭化学工場という趣である。クレスチンはサルノコシカケと呼ばれる担子菌カワラタケの一系統CM101株の培養菌糸体から抽出した制がん効果を持つ蛋白多糖体である。「菌糸体培養に、不純物は禁物ですからね。初期培養のタンクや配管にはすべてステンレスを使用しています。」という説明を聞くまでもなく、クレスチン生産基地の内部は、ほとんど自動化された無菌空間の雰囲気を漂わせている。24時間止まることのない培養タンクの回転音が低く響き、あたりはまるで神の声を聴く未来の神殿のように、空気までが森厳とひきしまって見えるのである。
人類からガンの不安を取り除く・・・という夢は、まだ遠い日の出来事であるにせよ、ガン患者とその家族たちに大いなる希望とやすらぎを与えてきたクレスチンの社会的な役割は大きい。古くは塩素、苛性ソーダという電解工業、その後、塩ビ、塩化ビニリデンなどの石油化学を主軸として歩んできたクレハにとって、クレスチンの開発という生化学への挑戦は、新たなる大海原への船出だった。そして興味深いことに、この新たなる旅立ちは、まったく予期せぬところから芽生え、はぐくまれ、やがて時代の風雪に迎えられて、クレハの屋台骨をしっかりと背負うほどの豊穣な大地に辿り着いた。
企業の歩みはドラマである。と、人は好んでこんな言葉を口にするが、本当のドラマなどそう沢山転がっているはずはない。だが、不思議なことに呉羽化学には、真にドラマと呼ぶにふさわしい“メモリアルな歴史”がいくつもあった。技術陣の夢を育てる研究開発を社の本分とし、常に好奇心に目を輝かせている企業は、企業そのもののありかたが既にドラマなのだ、といえるかもしれない。まさにそういった意味で、「クレスチン物語」は、呉羽化学を代表する現代の逸話なのである。


郷里の滋賀でひらめいた抗がん剤研究へのヒント
医薬第一研究室長・吉汲が、まだ入社草々だった頃のことだ。クレハロンによる独特の密封包装によって、次々と世に送り出される新食品を手がけようと「食品研究所」への配属を希望した彼は、首尾よく同所の一員となれたものの、まかされた仕事は“クレハロンに関する”衛生試験であった。東京オリンピックを間近にひかえた昭和37年のことである。
ちょうどその頃、米国では合成樹脂による毒性の問題が「NEWS WEEK」をはじめ、各マスコミの紙面を賑わせていた。「このままだと日本でも間もなく騒ぎはじめるだろう。その前に樹脂の一般毒性試験と発がん性の有無をも含めた動物実験のデータを揃えておかねば・・」という社の方針で、彼は樹脂からの抽出物の分析にとりかかった。
その頃、食品研究所は動物(マウスとラット)を飼いはじめた。
「当時、月島にあった研究所の1階で飼うことになりまして、我々はそこを「ネズミ小屋」と呼んでいたんですが、匂うんですよね。建物全体に動物の匂いがプーンと染みつく。とんでもない職場を選んだと思いました。」
だが、食品を分析し、生体の組織を調べるうちに「健康食品の開発くらい空いた手で出来るのではないか」と考えるほど、仕事に興味を持てるようになった。
「食品研究所のムードも、熊笹で健康食品をやってみよう・・とか、とにかく何か開発をやりたいという熱気で盛り上がってきたのです」
もとより食品の研究開発をやりたくて社に入ってきた彼だけに、そんなムードに夢中になった。だが、いくら知恵を絞ってもいいアイディアは浮かばない。
と、そんな折、開通したばかりの新幹線で郷里の滋賀県に遊んだ彼は、父親が仏主を務める寺の檀家に仏の幸が授かったという話を聞いた。末期のガンで死を宣告されたおばあさんが、仏の功徳によって病が治ったというのである。さらに聞くところによれば、彼女は自宅療養をしながら、サルノコシカケというキノコを煮汁を飲んでいたという。彼女がはじめ入院していた甲賀病院の医師も不思議がった。信仰厚かったおばあさんだけに本当仏の功徳だったのだろうか・・?
「その時ピーンときたのです。そこで檀家の家に出かけていろいろ聞いてみると、かなり転移の進んでいたはずの胃ガンが、キノコを飲むようになって数ヵ月後、精密検査をしたら、ほとんどキレイに消えて、本人も元気に買物に行ったりしているという。やった、これだ!と思いました。」
吉汲はさっそく、おばあさんに飲ませたという数十種類のキノコを貰って会社に持ち帰り、嬉々として「この研究をやらせて欲しい」と頼んだという。だが周囲の反応は冷たかった。「NO」と言われないまでも、上司も同僚も、「ばかな、そんなものが化学屋の商売になるはずがない」と相手にしなかったのである。
しかし、吉汲はキノコに獲りつかれた様に譲らなかった。そして今度は当時専務であり、東京研究所長だった大塚に直訴してみた。
「ここがクレハのいいところなんですが、若手の意見に「絶対ダメだ」とは言わないんです。それに大塚さんは研究魂の旺盛な人でしたからね。土曜日の午後にやってきて、ちゃんと聞かせてみろ・・と言ってくれました。」
吉汲は「やりたいのです」の一点張りで頑張った。「必ずマスプロになります」とも言い張った。
「そうか、それならくじけずにやってみろ。会社の施設は使っても良いが、そのかわり残業代はつけるなよ。休日出勤してやりなさい・・」
とりあえずGOサインは出た。吉汲が28歳の時である。


文献よりも実験事実の優先から生まれたクレスチン
それからの吉汲は、日常の合間をぬってサルノコシカケの分析にとりかかった。もちろん、夜遅くまで、休日を返上しての大奮闘である。同期の広瀬も、ガン細胞への効果を調べる動物実験を引き受けてくれた。いつの間にか2人は本気になった。
広瀬が行っていた動物実験の報告によれば、サルノコシカケから抽出したエキスを飲んだマウスは、ガン細胞を移植した他のマウスに比べて、病状の進行が5分の1以下に抑えられているという。
「思ったとおりだ。となると、あとは培養の問題がネックになる」
この時点で吉汲には成算があった。ただ問題は、キノコそのものではなく、菌糸体でもガンに活性があるのだろうか・・という点である。
「だいじょうぶ、うまくいくさ」
吉汲は信じていた。そして、だからこそ1日も早く動物実験でその成果を見極めてみたかった。と同時に菌糸体を工業的に増殖させることができれば、これまでのクレハの技術が役に立つ。そこ辿りついてはじめて、吉汲の考えているマスプロ化が可能となるのだ。
吉汲たちが夢中になっている間に、月日は思いもよらず早く過ぎた。そして、少しずつ彼の努力が社内で評価されるようにもなった。応援しくれる先輩や同僚も増え、わずかながらクレスチンの明日も見え始めた。うれしくなるような研究の成果は、まだ何も形として表れなかったが、吉汲のなかの“やる気”は少しずつ“自信”に変わっていった。
そんなある日、吉汲の自信をさらに強めるような出来事が起きた。それは「なぜ経口投与なのか?」という論争からはじまったのである。この問題に関して、吉汲は「経口投与でいくべきだ」と当初から決めていた。もちろん、マウスを使って他の投与経路のデータも集めてみた。だが、彼にとってはそういうデータより、故郷のあの檀家の家の庭先で、幸せそうな笑みをみせたおばあさんの印象の方が鮮烈だった。「あの笑顔に戻れるのなら経口投与で充分だ」科学者にはめずらしい盲信である。
話は、ある外部の研究所の出来事に戻る。吉汲のこの盲信をある有名な学者が「そんなことは絶対にあり得ない」と否定した。当時は「多糖類は経口投与で効かない」という学説が学会に根強く浸透しており、吉汲の発言は“爆弾発言”だったのである。
ちょうどその時、藤井(孝)という吉汲より2つ年下の青年が、クレスチンの薬効の研究に加わっていた。その研究所の学者発言にカチンと来たのは、吉汲よりむしろ彼のほうだったらしい。彼はむこうみずにも“立会い実験”という真剣勝負で殴りこみをかけたのである。
「その頃のクレハはガン研究の分野で何の実績もありませんよね。にもかかわらず、一化学屋の若僧がポーンと乗り込んでいって「見てください」とやったから、先方も驚いたと思います。」
勝負の結果は藤井の勝ち。後にこれはガン研の追試によって実証された。
「文献よりも、実験事実を優先しろ」
と、これはクレハに当時から伝わる研究者の気風である。そして大塚の後をうけて研究所長になった五味は
「さわっている間にものはできます。これは研究の基礎だ。現場にいるから、常にさわっているからヒラメキというやつが出てくる」とこんな台詞が口癖だった。
「私は今でも五味さんのこの言葉に感銘を受けています。これぞ研究者魂ですよ。文献は文献として参考にはしますけど、クレスチンはすべて実験事実を優先して押し通したんです。それが良かったんじゃないでしょうか」
吉汲は当時のエピソードを、今、こんな風に振り返るのである。


菌糸体のタンク培養から許可申請までをやってのけた20代の若き血
さて、どこまでも副業だったクレスチンが、会社の後押しを受けて一人歩きを始めたのは、吉汲がキノコを持ち帰ってから7年後の昭和46年のことである。
懸案だった菌糸体のガンに対する活性も、工業化のためのタンク培養も、吉汲がはじめに狙った通りの成果を生み出したのである。
さっそく吉汲はキノコのなかで、もっとも制ガン効果の高い菌糸体の選択に大村の参加を得て取組みはじめた。それを母菌としてタンク培養をはじめるのである。とりあえず臨床実験用のサンプルとして数百の患者に飲んでもらうだけの量が必要だった。
おりしも、その頃、栃木県壬生でキノコの菌糸を作っていた呉羽化学の関係会社が整理されることになった。売却されるという話を小耳にはさんだ吉汲は、大塚に頼み込み「サンプル用のクレスチン工場には、その設備を利用する」との決定を得たのである。
そのキノコ工場の技術責任者をしていたのが和田であった。彼は暗中を模索してあえいでいた吉汲たちにとって、唯一の信頼できる先導者となったのである。「あの時、和田さんがいなかったら、大量の菌糸体をつくる作業はかなり難航したと思います」
このようなスタートを切ったクレスチンのプロジェクトは、代謝分野で生沢、免疫分野で松永の参加などがあって47年には専従スタッフも20名となり、今度は薬事申請の準備にとりかかったのである。だが、なにぶんにも会社の景気が悪すぎた。投資を続けた石油化学の分野が、まだあまり軌道に乗らないうちに、原油をめぐる世界情勢が一変して、呉羽化学は「あわや!」と思われるほどの打撃を受けたのである。したがって、発足間もないクレスチンのプロジェクトは、予算すらないに等しい状態だった。
「人件費と基礎研究の費用だけでもかなりの額になりますからね。よく続けさせてくれたものです」それでも「やろう!」という熱気がみなぎっていたから、誰もグチひとつ言わなかった、と吉汲は言う。
そして培養物からの目的物の精製処理の方も大変だった。こちらは大阪へ大豆蛋白の研究に行って帰って来た若手の藤井が頑張った。また、プラントの周辺装置は同じく若手の小平が一手に引き受けたのである。ともに20代の青年たちであった。
いっぽう、認可申請のほうも、骨の折れる仕事である。製薬会社の専売特許のようなことを“素人の集団”がやろうというのだから、並たいていの努力ではない。吉汲と古荘が交替で厚生省に足を運び、わからないことを遂一学んだのだが、臨床データの集め方など、ことあるたびに窓口の厚生省薬務局審査課に通うという毎日だった。
「きつかったけど、多くの外部の先生方や社内の協力を得て研究から申請まで全部自分たちでやり通したのがよかったですね。失敗したり迷ったりしたぶんだけノウハウの蓄積になりました。その時学んだものが、今もずいぶん役立っています」


社の財政難の中、自由な気風に支えられたクレスチン基地
ところで吉汲たちの認可申請に歩調を合わせながら、錦工場で奮闘していた男がいる。当時、できたばかりの医薬部長となった真田。彼は認可後の本格的生産を行う錦のクレスチン工場の建設と運営をまかされた。
「敷地は広かったですからね。普通なら隅の方にポツンと建てたでしょうけど、ちょうど上に高圧線が走っていた関係で、敷地のど真ん中に小さい工場を建てたんです。後になってみれば、これが正解だった。生産量が上がるたびにその周囲に無駄なく増築できましたからね。クレスチンはいろんな意味でラッキーな要素に恵まれていました」
着工にかかった昭和51年は、呉羽化学の歴史において、財政的な困難が続いていた最中である。当然、予算は少なかった。通常の建設は、先ずプランから見積りを建てて、予算の枠を決めるのであるが、この時ばかりは「いくらでやれ!」の大号令である。
「医薬品関係の設備はコストが高いんですよ。ですから、道の舗装も止めて、たとえば工務室なんかの壁は自分たちで塗りました」
このようにして生まれたクレスチンプラントが、通常の運転を開始したのは昭和51年10月。そして翌年5月には三共株式会社を通して全国各地の病院へ供給されたのである。
「ここまで来られたのもね・・・」と感慨深げに吉汲は言う。
「研究者の好奇心をどこまでも大事にする、呉羽化学の自由を尊重する気風があったからなんです」


生化学に化学工学のシステム・オペレーションがドッキングして完成を見た、呉羽化学のクレスチン基地。この牙城は“化学を駈けた”熱き研究者たちの、ドラマティックな夢のよりどころなのである。

と言うことで申請関係は完了である。


 

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