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 24 国際化学療法学会(米国)参加

 

1979年ボストンで国際化学療法学会があり、クレスチンの発表や東京研究所で治験中のK-MAPの発表があり、そこで呉羽がその学会期間中おにぎりパーティーと称して和食を提供することになった。誰か参加希望者はいないかと専務から提案があったので、ドクターが発表するのを助けるだけだったら台湾、韓国と同じパターンと思い、英会話は出来ないものの立候補したらOKが出た。おにぎりパーティーが開催されるには食材や人手が必要になり、同期のAも行くことになりニューヨーク事務所に駐在していたUや駐在員の奥様なども動員されることになった。(その後の国際学会や国内の学会でも同様な催しを続けた)英会話が必要かと至急習ったが役には立たなかった。その時はきちんと習いたいと思ったがその後はあまりの忙しさにその機会は来なかった。この学会は10月1日から5日までであったが、10月9日から11日まで日米科学協力事業のセミナーが開催され(セミナー名:合成多糖とその生化学的機能)呉羽のYが招待されていたが、代わりに君が出席したらどうかと打診された。発表は癌研化学療法センターのT先生だから傍聴すれば良いとのことだったので、これにも参加することになった。その結果2週間強のアメリカ出張となった。学会の中身は割愛しその珍道中ぶりを少し紹介しよう。

               ゴールデンブリッジゲイト

サンフランシスコに到着。アメリカの偉大さと異文化を改めて感じた。その頃はテレビがあるくらいでパソコンやスマホもなく現在のような情報を得られなかったので、ガイドブックか体験することが一番だった。まだデジカメもなく出始めていた自動焦点付のフイルムカメラで撮りまくった。次の日学会会場のボストンに入った。

ボストンに着いた日か翌日、小澤征爾がボストン交響団を指揮してベートーベンの第5を演奏する催しがありドクターたちが聞きたいと言うのでUに頼みチケットが入手できたので聞きに行った。前から3列目くらいの席で指揮する小澤の激しい息使いが聞き取れるほどでその迫力に圧倒されたが、しばらくすると時差ボケのためうつらうつらしてしまった。今思えば残念だった。滞在したホテルには知り合いのドクターたちも泊っていたので夕食をご一緒したがロブスターが大きく美味しいので郊外のシーフード店まで食べにも行ったのが懐かしい。ハーバード大学には多くのドクター達が留学していたそうで、一流の研究者になるには留学は必須だったのかも知れない。

           


             小澤征爾指揮するボストン交響団


                学会にもちゃんと参加


            ハーバード大学にて主な参加者たち

                ロブスターを食べるドクター達
                ロブスターを食す


学会と連日のおにぎりパーティーも無事に終了し次の学会までニューヨークやワシントンを巡る観光ツアーに参加した。

先ずニューヨークに飛んだ。定番の観光コースで自由の女神、国連本部、エンパイアステートビル、ロックフェラーセンター等などである。2001年の同時多発テロ事件で破壊された貿易センタービルが懐かしい。

 

               自由の女神も遠くに

               エンパイアステートビル

                   国連本部

     後方背景に貿易センタービルが・・・(2001年同時多発テロ事件で破壊された)

         ロックフェラーセンターにて(一時三菱が持ち主になった)


その後ワシントンD.Cに飛んだ。

世界の政治の頂点の都市であり落ち着いた町であった。ワシントン記念塔、ホワイトハウス、国会議事堂、スミソニアン博物館等などを見学。スミソニアン博物館はもっと時間があればと思ったが・・・。

                  国会議事堂

                 ワシントン記念塔

              ホワイトハウス(警戒が厳重)

           スミソニアン博物館(アポロ11号司令船コロンビア号)

次の学会に出席するためニューヨーク州シラキュースに飛んだ。10月9日から11日まで日米科学協力事業のセミナーが開催され(セミナー名:合成多糖とその生化学的機能)Yの代わりに出席した。発表は癌研化学療法センターのT先生だから傍聴すれば良いとのことだったが中身はちんぷんかんぷん!だった。多糖の研究はPSKの構造研究の投稿論文をまとめただけで実務の経験が無かったからである。同行した同期のAはこの学会とは無関係だったがシラキュースに同行した。学会が終わると二人でナイアガラ瀑布見学に出かけた。手配などはドクターTにお願いし快適なドライブと瀑布を堪能した後翌日再びサンフランシスコに戻り帰国した。空港のタックスフリー店で会社や家族へのお土産を購入し(まだお酒の関税が高かったのでお土産にウイスキーなど頼まれたが重かった)たが家族には不評であった。

 

              ナイアガラ瀑布

これがアメリカ出張の最初で最後であり、3年間にわたる医薬品部での仕事のご褒美ともなった。しばらくしてCTへ異動となったからである。




 

23 医薬品部の思い出

*メンバー

医薬品部創立時に技術系はO部長、M主査、私の3人。事務系がM主査、AとZと3対3だったが、その後事務系が大幅に増え、私の異動で医薬品部には技術系が0になった。O部長の後任のH部長は(デュッセルドルフ駐在所長から医薬品部部長に着任した)私の異動を聞き驚いたようで「君にはすぐ戻って貰いたいと思っている」と言っていた。社長も研修会の席で心配していたがしばらく様子を見ていたようだった。その後は事務系だけがどんどん増えていって、当初の「ドクターの財布たれ」の目的には合致したが・・・。                

                                            創立時の医薬品部メンバー

               3年後の医薬品部(呉羽時報より)

前にも述べたが事務系の医薬品部への異動に際してはゴルフし放題、クラブや食事も接待で美味いもの食べられるし飲み放題との誘い文句があって承諾した人が多かったと聞いた。しかしながらその期待は裏切られて、ゴルフに誘うにはまずドクターと仲良くなったり、目的があったりせねばならず、そのような壁は厚く必然的に身内同士での接待が多くなった。この傾向はいつまでも続いたようで、後年再び医薬品事業部に戻ったときもクレスチンの貢献が少なくなっていたにもかかわらず継続されており驚いたものだ。銀座には呉羽から依頼される長距離の頻度が高いと期待して待つ個人タクシー(カタツムリ)がいつもたむろしており、そこまで行けばタクシーが拾えていたと聞いた。

事務系だけでは対処出来ないとしばらくしたら技術系を東京研究所(CT)や他部署から補充していった。私に戻るようH部長はCTのYに言ったらしいが、Yは「彼を一度医薬品部に行って貰ったのにCTに戻された」ので代わりの人を出すことにし、留学のためPSKの申請にはあまりタッチしてなかったOを3ヶ月後の9月に出した。

*海外出張

初めての海外出張は台湾である。海外は初めてのことでありパスポート取得から始りO部長に色々教えてもらいながら準備した。目的は台湾の会社がクレスチンを販売するために台湾三共を通じてその内容を教えてくれとの依頼であった。台湾・韓国のクレスチン販売許可は日本の製造・販売許可証があればその資料をそれぞれの国の申請書にして提出すると許可が下りるというシステムだったので(現在はよく分からないが)しばらく経つと許可が下りた。台湾の会社では日本語の達者な人が多く説明は全て日本語で良かったので楽であった。韓国も同様な状態であり、クレスチン輸出の説明に数回訪問した。台湾では輸出先の社長から紹興酒の古酒(何かの記念を祝って作られた銘酒と聞いた)を頂き大事にとっておいたが定年後開封し楽しんだ。さすがに美味しかった。台湾料理もご馳走になったが乾杯で杯を飲み干してから返杯するしきたりには閉口した。特別な料理と称して食べさせられた肉料理が馬の一物だったよと後から聞かされびっくりしたのも良き思い出である。時間が出来れば故宮博物館やお寺など観光できたのも楽しい思い出である。韓国はやはり焼き肉の美味しい思い出が多い。

               台湾の故宮博物館

            

                  台湾の奇岩

            台湾講演会:演者と台湾民族衣装

                台湾料理のメニュー
              こんな感じの紹興酒を貰う

            

            台湾、韓国の名刺(全て有名人らしい)

不思議なことに韓国の写真は無い。

台湾では日本のような再評価システムが無く、一度許可が下りたら効能効果に変更は無く販売は続けられた。韓国では国策?としてゾロを認めたためクレスチンの販売は急速に減少した。1979年にボストンで国際化学療法学会があり参加した。これについては別項で述べる。                     

*裏帳簿

当時国立がんセンターの汚職事件以後公務員(特に医薬関係)に対する接待が厳しく見られるようになっており、会社は私立のドクターを接待したことにして公務員のドクター達を接待した。社内での領収書につける相手先は帳簿につけるときは私大のドクター名や会社を書き、裏帳簿に本当の接待者名を記載するようにした(これがいつまで続いたかは知らない)。その内部内のみであるいは一人で飲食店やクラブに行くようになり、あたかもドクターを接待したことにするための裏の裏のドクター名が必要になり私のところに私大のドクター名を聞きに来たので、知っていたドクター名を教えたが私も臨床医はあまり知らなかったのでだんだん枯渇していった。

また、N専務には内緒?の口座があり、ドクターたちへの餞別など領収書が取れない場合に支出するお金を持っていた。管理を一元的にHがしていたようでが信頼が厚かったのだろう。また、餞別など領収書の取れないお金を渡すときには必ず二人で渡せとの専務命令があった。餞別を部員がネコババしないようにとのことだったが、CTの頃は領収書が取れる指導料等の支払いの時でも1対1であったのでびっくりしたし、信用できないならその使いは自分でやるか信用できる人に任せるべきであろうと思ったものだ。 

 *接待

ドクターによってはネクタイを拒否する人もおり、なかなか予約が取れない銀座の高級イタリアンレストラン「サバティーニ」を予約して入店した時、九大のドクターNはネクタイ着用といわれたとたん「たかが飯食うのにネクタイつけろとは何事だ」と怒り心頭に発し、ここは駄目だ他店に変更しろとのこと。まだ携帯電話の無い頃で招待主のN専務がまだ来てなかったのでOを残し、ロシア料理店に案内しそこで専務と合流したこともある。サバティーニにはその後試食に訪れてみたがそれほどでもなく2度と行っていない。

接待では多くの飲食店やクラブ、バーが必要になり、その頃はまだミシュランガイドが無かった?ので(バーやクラブは元々無いか?)、有名飲食店ガイドブックなどを調べてお店を探して歩いたり、三共からの情報や異動したクラブのホステス、店員からの紹介で出かけたりして見つけることも多かった。探すときは当然身内だけの交際費であったが・・・。

N専務はドクターの接待時によく銀座のクラブ等に案内したが、しばらく話をした後トイレに行くふりをして途中で消えることが多かった。招待、接待しておきながら結局逃げ出すことになりドクターからはあきれられた。 

クラブ等では名刺やマッチ、コースター等をよく貰ったので、一時はよく集めていたが結局廃棄した。名刺の一部がドクターや企業の名刺に混じって残っていた。全国各地の有名どころが残っていた。

                 クラブ等の名刺

*翻訳

海外担当はクレスチン申請関係や公表論文の英訳版を作成していた。あるドクターところに公表論文の英訳したものを持って行き海外へ紹介するのに使いますと了承をとりに担当のMと行ったところ、外国雑誌に投稿するかも知れない論文を勝手に翻訳して公表してしまったらもう英文で出せなくなるでは無いかと怒られた。公表論文の翻訳なので新しい論文にはならないと思ったが「泣く子とドクターには勝てぬ」ので削除することにした。クレスチン輸出の目処があまり立たなくなったので、その後公表論文の英訳は進まなくなったようだったし、海外勤務経験者や留学経験者もお払い箱になった。O初代部長の後任のHはニューヨーク所長やデュッセルドルフ所長だったが・・・

*三共

三共からはクレスチンに関するあらゆる必要事項の説明が求められた。特許は?、ドクターの親派と反対派は?、販促資材用の発表済の文献の著作権は?、研究会は?、生産に関する問題点は?、治験薬は終了したか?免疫療法をうたえるか?等など多数にわたった。大きな会社なので色んな部署から質問がありそのたびに答えを用意したり考え方を説明した。

クレスチンが三共の売り上げ(利益)に貢献するようにと各地区でドクターを対象に講演会が催された。呉羽にも私にも医薬品販売のこのような経験が無かったので販促の方法を学ぶ良い機会であり、呉羽から1~2名参加させてもらった。まず各地区毎(関東地区、東北地区など)に大きな講演会を催し、次に各県単位で、次に病院毎にと講演会と称し説明と接待を行っていった。

講演会(又は説明会)後はたいてい立食パーティーを行い、その後一部の有力ドクター(演者や教授、院長など)は三共の担当者がクラブなどで接待した。その他のドクターには三共のプロパー(現在は医薬情報担当者:MRと言う)がそれぞれ接待した。私もこれらの講演会にかり出され三共と共に接待したり、あまり知らない地域では三共の担当者とクラブなどに行った。これらの経験は役に立ったかどうか分からぬが、医薬品はその後クレメジン(球状活性炭を利用した腎不全薬)も三共が販売権を取結局結局呉羽のみで医薬品を販売することは無かったので、私個人にとっては貴重な体験であった。しかし講演会等は大抵土曜日の午後に行われることが多く遠方の場合は泊まりになり結局土、日がほとんどつぶれた。家族にはPSKに関わって以後迷惑をかけ続けた。

三共は拡販用に種々の資材を投入した。電卓、温度計、ノートその他多数に上った。一部は我々にも回ってきた。電卓はその後長年にわたり使用していたが残念ながら起動しなくなり廃棄した。手帳は大いに役立ち1977年から1987年まで50冊位のノートとして使った。読み返すと色々な仕事やドクターなど思い出される財産となった。このブログもこれによるところが多い。

                今でも使える温度計

                   PSK手帳

三共との打ち合わせや講演会などで多くの人たちに出会った。驚くべ三共三共本社や研究所には「博士」がうようよいることであった。医薬品開発には高度な知識、技術などが必須であることを裏付けていた。呉羽の東京研究所のYはこれからの医薬品開発にはこのような人的な充実が必要と考え人事に要望した。幸いクレスチンで有名になりつつあったので呉羽にも東大、京大などの薬学出身や生物専攻の人たちも入社するようになった。しかしながら武田や三共であっても新製品の開発には難渋したしその後の医薬品業界は再編の波に襲われたように、開発には呉羽でも少ない研究者ではその後の医薬品開発はバラ色ではあり得なかった。クレスチンの成功で化学業界等医薬品会社ではない会社が医薬関係の研究に多数乗り出したのもこの頃である。このような会社は研究のあり方などを勉強する「PIフォーラム」という集まりを組織したが、私も後に医薬品事業部に異動となりこれに参加した。PIフォーラムについては別項で取り上げたい。


               三共名刺(薬学博士が多い)

*三共社史より


三共90年史によると

主柱であったクロロマイセチンが特許失効に伴う後発品の乱立と医薬品再評価による適応症の大幅な削減の影響で年商100億円から10億円未満の製品へと急落し(中略)販売努力を重ねたが、業績面でクロロマイセチンの低下をカバーし他社並みの成長率を確保することができなかった。しかし、この間の体制立て直しを伴う営業努力と昭和52年の抗癌剤クレスチンの導入によって、医薬営業部門の売上高は45年の503億円から53年には1078億円弱と倍増し、55年2月にはセフメタゾン、ペントシリンと待望の大型新抗生物質製剤の発売を見るに至った。p-100

「クレスチンは、従来の化学療法剤と異なり、カワラタケの菌糸体から得られたユニークな新抗癌剤で、呉羽化学工業の十数年にわたる研究の成果であった。抗癌作用と免疫機能賦活作用を併せ持ち、副作用が極めて少ない製品である。当社は、販売権を得て、昭和525月に発売した。発売に当って、市場導入計画書を作成し、その計画的育成と、当社の営業体制の改善と強化を図った。クレスチンの販売実績は、発売後1年後には全医薬品のトップグループに加わり、わが国の抗癌剤市場の勢力分野を大きく変化させ、免疫賦活作用をもつ抗癌剤の研究開発活動に刺激を与えた」p-101

「売上高は、創業90周年を迎えた昭和63年度に、念願の3000億円を突破し、3085億円を達成した。これは、昭和54年度が1599億円であったのに対して193%の伸長で、ほぼ倍増となった。このように売上高が順調に推移したのは、その83%を占める医薬品、中でも、90%近くに達する医療医薬品分野で、相次いで大型新製品を発売できたことによる。(中略)加えて、52年に発売した抗悪性腫瘍剤クレスチンが成熟期に入って、安定した売上を収めたことなどが、売上げ拡大の主な要因であった。」p-197

第2節 の 「  医家向け大型製品によるめざましい業績の伸び。1.クレスチンによる急成長の達成」の中で

「昭和525月に発売した抗悪性腫瘍剤クレスチンは、癌治療が、人類の課題として世界的に関心を集めているなか、抗癌作用とともに免疫機能賦活作用を併せ持つ、副作用の少ない新しい経口タイプの抗悪性腫瘍剤として、また、医療ニーズに応える画期的製品として、医学会の注目を集めた。クレスチンの出現が、癌治療における免疫療法を大きく進歩させたことは、特筆すべきことであった。当時、当社は、クロロマイセチンの売上げ激減を受けて業績不振が続いていたが、クレスチンの売上げによって業績は急回復し、以後、毎期、増収増益を続ける原動力となった。」p-282

 とある。薬価については別項で。





 22 財団設立

医薬品部に在籍中にDrI肝いりの財団設立のお手伝いをしたので簡単に紹介する。

DrIは臨床試験の全国的な組織を設立して臨床試験の評価を科学的に行おうと財団設立を考えたらしい。

クレスチンが売れ出して免疫化学療法の効果を検討すべきであろうと考えたDrI挨拶に来たN専務に臨床試験を科学的に行うべきであり財団を設立したいと申し込んだ。Nはこれに乗るべきだと考え設立に必要な基金も出そうということになった。

私は懇意だったDrNに相談に行ったが、何を考えているのかと言われた。その理由は「評価の定まっていないクレスチンをいきなり全国的な評価システムに乗っけて成績が悪かったらクレスチンはおしまいだ。先ず九州辺りでDrIの目の届く範囲で予備試験をしてその結果が良ければ全国的な臨床評価試験を行うようにすべきだ。」とのことだった。Yもその意見に賛成したが、N専務はDrIの意見に賛同し財団設立へ協力することになった。その間にDrNの要望も取り入れ九州に免疫賦活剤研究会を設立した。

DrIは財団の認可権限を持つ厚生省の偉いさんと話をしたいのでその準備のためN専務に某料亭を予約させ「会談」を実施させた。費用は全て呉羽持ちであったが、表面上は全てDrIが設定したような形式をとった。

財団設立に必要な情報を集めたり、基金を協賛できる会社に依頼したりして、この財団は「がん集学的治療研究財団」として認可された。(昭和55623日認可)

財団が発行した「がん集学的治療究財団のあゆみ5周年誌」に詳しいので少し引用する。この記念誌は財団設立5周年を記念して開かれた総会の記録であり、祝辞以下懇親会まで写真が出ている。



この財団は市販薬を使っての臨床試験なのでこの試験に各社の医薬品が使われると無条件に使用量が増えるというメリットもあり、抗がん剤を有するメーカーや有力製薬会社も要請に応じて基金を出し協賛した。

設立発起人は下記の通りであり、Dr以外に大鵬、三共、呉羽、協和発酵、中外の社長が名を連ねている。


 この研究会の祝辞は愛知県がんセンター名誉総長:今永一、癌研付属病院名誉院長:黒川利雄、国立がんセンター名誉総長:石川七郎、国立病院医療センター名誉総長:小山善之、(財)厚生団常務理事:田中明夫、厚生省健康政策局長:竹中浩治と蒼々たるメンバーである。田中氏は認可当時の厚生省医務局長だった人であり、国立がんセンターに出向中に癌専門医と親しくなったとある。

財団の設立趣旨は学問的な臨床評価を行うこととそれに協賛した5社(大鵬、三共、呉羽、協和発酵、中外製薬)から3億5千万円の基金が拠出されて実現したことが書かれている。




基金の推移は次の通りで先の5社以外に三井製薬、山之内製薬、旭化成が加わっている。


役員は下記の通りで胃手化3pのDrがメインであった。

財団は特定研究1として大鵬が行って評価の定まったフトラフールの投与法に免疫療法剤を追加する胃手化3pの方法とほぼ同じ方法でPSK、ピシバニールの評価をすることを決めた。
この研究が後日効果が得られなかったためその理由を考察して公表したが、呉羽三共、中外はマスコミ対策をしなければならなくなった。この時点では再び医薬品事業部に在籍したのでその対策案を作成することになった。詳細は別項に譲る。


 


 

  21 胃手化3p

免疫賦活剤研究会は胃癌手術の補助化学療法研究会第3次パイロットスタディ(以下胃手化3Pと略す)へ移行していった。

21-1  三社会

 九大2外教授DrIは全国規模の臨床評価研究会を設立すべきと考えていたようで、先んじて全国展開していたフトラフール研究会を基盤にして、免疫療法の臨床効果を検証する研究会の設立をN専務に提案した。しかし九大DrNの反対もあり先ずは九州地区で検討することで話は進み、三共の協力もあって免疫賦活剤研究会が進行していた。

データの重なりを避けるためあるいはデータの大規模化をするため全国規模の研究会にすべきとDrIはフトラフール販売会社である大鵬薬品とも話を付け、呉羽、三共、大鵬の3社が協力して研究会を運営して欲しいと要望した。

三共と呉羽はこの研究会への参加はやむを得ないと考え、対応策を決めなければならなくなり、概ね、窓口は呉羽がメインで三共はサブ。全国を8ブロックに分け、ブロック毎に呉羽三共と大鵬に分け呉羽三共は九州、中国、関東を担当する。データはブロック毎に担当会社が集積し胃癌は大鵬、大腸癌は呉羽三共がコンピューターに入力し解析を行う。データは相互に交換する。などを対応策として大鵬に提案することにした。この研究会は製品を使うため各社が大幅な増収になることをも見込んだ結果でもある。

これらを踏まえ、三社の専務、部長、課長らが集まり(昭和54年3月30日)三社会が開催されいよいよ三社会がスタートした。この会議では呉羽のN専務がDrIの要望を踏まえ、独自の研究会であった九州の免疫賦活剤研究会と中国の研究会が大鵬の研究会と統合することをやむを得ない判断である旨説明し、統合に大鵬もそれを理解して賛成した。Nは呉羽三共で合意した案を大鵬に示し大鵬も概ね賛成した。そこで詳細は実務者で進めることになり、O部長は呉羽の担当をHとAとした。研究費や公表などの話がでたが、呉羽三共の提案した大綱に合意が得られたため、これをもとにしてDrIを訪問し合意案を報告することになった。

同4月2日に三社の専務らが博多に赴き、DrIに三社で合意した研究会について説明した。DrIは免疫賦活剤が中外のピシバニールのところがあるのでよく話し合って欲しいといわれたが、中外から話があればその時点で対応することとして概要は了承され胃癌手術の補助化学療法研究会第3次パイロットスタディが動き出した。

三社会の実務者会議は各社持ち回りでプロトコール、ブロックごとの研究会組織、開催日時、研究費等々を着々と決めていった。私はZとともに九州地区、中国地区、関東地区と呉羽三共地区の実務を担当することになった。しかし私は九州地区が忙しく他地区まで手が回らず、中国はT、関東はZ他全員であたることになったが、私以外はいずれも研究会未経験だったので呉羽メインとはいえ大半三共頼りであった。

三社会を経ていよいよ胃手化3pのプロジェクトが動き始めた。

昭和5459日に胃手化の全国世話人会が開催され、それぞれの地区でそれぞれのプロトコールでそれぞれ担当会社がこの会を進めることになった。


 

 


上記は呉羽三共が担当する地区のプロトコールである。


21-2 胃手化3p九州

免疫賦活剤研究会は名称を胃手化3p九州ブロック研究会と名前を変更することは昭和54年8月の世話人会で了承された。その後は胃手化3pとして研究は進行し昭和55年3月に報告会が開催された。


その中で全国の胃手化3pは着々と進行していることも報告され、その時点での進行状況は下記の通りであった。


私はこの後しばらく三共のKと共にこれらの研究会をフォローしていたが、前にも記したように医薬品部から研究所への転勤辞令が昭和55年に出て6月に東京研究所への転勤しこれらの研究会も表向きは無関係になった。この研究会の呉羽の私の後任はOである。Oは大阪支店から転勤したばかりであり、最初頃頃は東京研究所へ教えを請いに頻繁に出入りしていたがやがて来なくなった。Oとの引継ぎ中の失敗としてDrNから頼まれた銀座の鮨屋の予約をOに依頼してOから予約が取れたとのことでDrNに予約が完了した旨連絡をした。当日DrNがその鮨屋に行ったところ、鮨屋はOの予約はあったがNの名前が無かったので「一見さんお断り」と拒否してしまった。DrNは大事なお客さんを連れていたので烈火のごとく怒った。鮨屋の店長が顛末を聞きその日のうちにお酒1本持ってホテルに謝りに行ったが許されず、翌々日Oと私は九州に飛んで平謝りに謝って怒りを解いた。Oは医者の世界の恐ろしさを初めて経験した。


この研究会はその後学会などで発表を続けたが、私は研究所でのその他の研究で忙しくなったがこの研究会のデータが東京研究所に蓄積されたので、九州と中国は裏で動くことになった。詳細は差し障りがあるので割愛しよう。

胃手化3p九州で活躍した三共のKは平成8年4月に60歳になり定年退職し、グラクソ三共に転籍した。その時に挨拶状と共に、「三共と歩んだ37年-思い出の数々-」と題した小文を頂いた。
その中に

4 PSKの免疫賦活剤研究会

昭和53年から九州大学第2外科教室井口潔教授(九州大学名誉教授、がん集学的治療研究財団理事長)を中心に九州・中国地区で胃癌手術の補助化学療法研究会の第3次Pilot Studyとして免疫賦活剤研究会が組織され、呉羽化学工業株式会社のFさんとその発足の推進にあたらせて頂きました。

この会では胃癌治癒切除症例に対するMMC、5FU、PSKを用いた術後免疫化学療法のrandomized controlled studyが行われ、昭和58年に5年生存率が発表されました。治癒手術症例において3群(1群:化学療法+PSK、2群:化学療法+FT207、3群:化学療法+FT207+PSK)比較ではPSK併用群(第3群)が有意に生存率の向上を認め進行胃癌の治癒切除症例の術後免疫化学療法としては3者の併用は有用であるとされた。(ONCOLOGIA 14:171-180,1985)

免疫療法が見直されつつある現在、顧みてよく頑張ったと思っています。

と記し、苦労の多かった研究会を懐かしんでいた。



 


20  免疫賦活剤研究会

 

DS対策とPSK研究会の外科部会などで九大2外I教授を中核とする研究会を発足することになったが、東京研究所で基礎を指導して貰った九大のDrNは激怒し「PSKの効果についてはまだ不明なこと」もあるので、もっと小さな研究会で予備的に行い、その結果が良ければそれに基づいてその後に大規模な研究会にするべきであるとN専務に進言したが、N専務はI教授の意見を取り上げてI教授の方針を実施することになった。

九州・中国地区に「免疫賦活剤研究会」を発足させることとなったが、DrIは発足に当たり呉羽及び三共から専任を出すように要請し、呉羽から私、三共からKが担当するようになった。

 プロトコールについてはその頃大鵬薬品工業株式会社(以下大鵬とも言う)がソ連から導入したフトラフール(FT207とも言う)の効果を確認する全国規模の研究会が行われており、そのプロトコールにPSKを上乗せする案が考えられていた。九大2外科のK先生が事務局となり、研究会の組織やプロトコール案、症例報告書等などをまとめた。九州の主な大学などを三共の地域担当者がアポイントを取り、Kと私がDr井口の挨拶状とプロトコール案を説明し参加を要請した。場合によってはその説明にあたって担当者も含めた関係者を料亭などに招いて宴会を実施しながら説明した。


             





 

研究会の組織は下記の通りであり、ほぼ九州の主だった癌研究施設と関連病院を網羅した。三共の組織力はすごいと感じた。 

会長兼代表世話人:九大2外科教授 井口 潔 

代表世話人:九大腫瘍研教授 野本 亀久雄

実行世話人:熊大2外教授 赤木 正信 他7名

世話人:鹿大2外教授 秋田 八年 他7名

   事務局:九大2外科 担当 神代 竜之介

コントローラー:愛媛大 薬理学教授 小川 暢也

研究施設:九大2外科他60施設

             

この研究会ではデータ入力、解析など人手や解析用コンピューターなどの問題から、これらの作業をクレハが担当することになり、電算室からK君が医薬品部に異動してきた。彼が本社のコンピューターを使って解析を担当することになり、集められたデータをCTにて入力、解析して生存率等を計算することになった。昨今ではメーカーが研究会の解析などを行うなどはデータの偏りを誘発するなどが明らかになり問題提起されている((血圧降下剤「ディオパン」(ノバルティス)や「プログレス」(武田))が、当時はそれほど問題視されていなかった。割り付けもいわゆるダブルブラインドではない封筒法であった。

データを解析できることは何かと情報を得ることが出来た。データを見ながら後日色々な策謀をすることになったが、今ではそれを知る人も少なくなった。

この研究会はまず九州地区で昭和53年6月に世話人会を西鉄グランドホテルで開催し了承され、発足会が昭和53年8月に同じく西鉄グランドホテルで行われ研究がスタートした。昭和54年3月から4月にかけ九州地区の各地ブロック会を開催し、三共の地域担当者はこの研究会を推進することで有償のクレスチンがどんどん消費されるので全力を挙げて研究会をフォローした。この研究会にかかった運営費や各施設への研究費は5000万円を越え2社で割り振ったと記憶するがクレスチンの売り上げは格段に増えすぐに回収出来たであろう。

昭和53年10月症例確保も順調に進んだことから、九大2外で助教授をしていた広島大原爆医学研究所外科の服部教授と井口教授が話し合いを持ち、九州地区と同様の研究会を立ち上げることになり、中国地区に全く同様のプロトコール案を提示し研究会の組織を発足することになり昭和53年12月に発足会が行われ症例集めが開始された。こちらの呉羽の担当はTだったが、経験も少なく結局CTにおんぶに抱っこだった。

順調に症例が集まってきた頃、井口教授は全国規模ですでに臨床研究されていた大鵬のフトラフールに関する研究会のプロトコールが免疫賦活剤研究会とダブることから、これを合体させてはどうかと提案され、各社(呉羽、三共及び大鵬)持帰って検討し了承された。昭和54年8月に世話人会を開催しその方針変更をはかり了承を取り付けた。この時点で症例は既に胃癌で70%、大腸癌で40%を超えていた。

この時の説明文

今後の研究会の運営について

『当研究会は胃・大腸癌の摘除手術に対する免疫化学療法の併用効果とその副作用を評価することを目的としてスタートしたものであり、一方胃癌手術の分野では数年前より全国組織による「胃癌手術の補助化学療法研究会」があり、すでに第1次研究、第2次研究を終了し、さらに第3次研究のパイロットスタディが、免疫賦活剤(PSK)+化学療法剤(FT207)を主題として全国各地区において実施される運びになっている。その研究主題と現在九州地区の研究会で実施中のプロトコールは本質的に変らないものであり、我々研究者としては症例の分散をさけ、又全国レベルで有機的につながりをもってデータの比較やより大きな規模での考察をすべきであるとの観点から「胃癌手術の補助化学療法研究会第3次研究パイロットスタディの九州ブロック研究会」とすることに世話人会で意見の一致を見るに至った。』

これを「今後の研究会の運営方針とする」ことが決定され、昭和54年9月に各施設に通知され、この研究会は「胃手化3p」へと途中から衣替えし、呉羽・三共主催から呉羽・三共・大鵬主催へと変身した。

胃手化3p」については別項に譲る。

この間私は他地区の販促講演会、台湾、韓国向けクレスチンの承認申請や販促講演会、中央研究会、CTでの兼務の仕事等々をこなしながらの免疫賦活剤研究会担当だったため、九州各県を行き来しながら大抵東京ととんぼ返りを繰り返し体力を消耗した。その中で三共のある支店長に失礼があったらしく(自分の方が年長者なのに私のものの言い方が悪いとのことらしかった?)、それがN専務に伝言され医薬品部を追い出されることになった。その頃Oが大阪支店・化学品課から医薬品部に異動してきて私の後を担当することになったが、何しろ初めての医薬関係の仕事であり、彼も又CTにおんぶに抱っこだった。AやOはN専務が大阪支店にいた頃仲人をしたとかでNの腹心らしかった。 

Yの話によればNは錦工場への転勤させろと言っていたらしいが、Yは東京研究所と兼務しているので東京研究所へ戻すよう働きかけ、昭和56年6月に無事東京研究所への転勤が実現した。この研究会でお世話になり懇意になった各先生についてはその後CTでの治験などで再びお世話になることが多かった。

 


 






 

19 DS対策


医薬品部発足後多くの先生にN専務、O部長らは挨拶に行った。研究所時代にPSK研究会等でお会いしたり顔を知っていたりしたので、よくお供をした。

その中でPSK研究会の基礎部門の座長であった癌研化学療法センターのS先生は厚生省「抗悪性腫瘍剤調査会」の座長でもあったので、お礼を兼ねてたびたび訪れた。

その頃「がん免疫療法」という範疇が勃興しており、その臨床評価方法についても議論されていた。S先生はその評価法として抗がん剤単独と比較して免疫賦活剤を加えたコントロールスタディが今後は必要になるだろうとのことだった。

 

後日S先生がまとめ役となって「悪性腫瘍に対する免疫療法剤の評価法に関する研究」という評価法が公表された。この研究班は昭和54年から55年にかけて計5回開催されてまとめられたものであり、医薬品研究vol11No4(1980)764~に記載されている。
その中で「免疫療法剤としての評価の学問的基礎を明確にし、免疫療法剤の承認審査に役立てることを目的としたものである」と述べており、クレスチンを含む免疫療法剤としての評価をきちんとしたいという厚生省の思惑があったものと思われた。これがその後の丸山ワクチンがらみの問題になるとは予想しなかったであろう。




そこでNはS先生対策としてそのような臨床研究を実施するよう指示した。最初はDrS対策と銘打ったが後ではDS対策と名を変えて三共の協力を得て種々の研究会を立ち上げた。
胃癌、乳癌、結腸・直腸瘤、食道癌、肺癌等の承認された癌以外に子宮癌なども対象として懇意の大学やがんセンター等の病院のドクターをまとめ役として発足した。
胃癌では九州と中国の免疫賦活剤研究会。乳癌では千葉がんセンター外科のDrO、駒込病院外科のDrM。食道癌では東海大外科のM教授。結腸・直腸瘤では駒込病院外科のDrM、東海大外科のM教授、名古屋大外科のK教授、九州免疫研究会。肺癌では駒込病院外科のDrI、がんセンター外科のDrS、京都市立のDrT。子宮癌では信州大婦人科のDrT、新潟大婦人科のDrT等が発足したがいわゆるヒストリカルコントロールスタディや免疫機能の測定などが多く効果を判定するには問題があった。その上これらの研究会はいわゆる「治験」ではなく有償のクレスチンを使用するため、一部を除いて販促用の研究会の様相を呈しクレスチンは必然的に売り上げを伸ばした。このうちいくつかの研究会はデータが公表された?が、後日の再評価に繋がるような成績はなかなか得られなかった。

私は九大2外科I教授が世話人となった免疫賦活剤研究会の担当になった。これは癌患者を対象とした「2重盲検コントロールスタディ」であり、呉羽から私、三共からKが専属として働くことになり、三共の九州の各支店を網羅して運営することになった。詳細は別項に。

抗癌剤の評価法についてはその後も継続的に検討されており、黒川ら(薬史学雑誌49(2)196~204、2014)による2014年のまとめによれば、「抗悪性腫瘍薬の臨床評価方法に関するガイドライン」が1991年2月に厚生省から公表され、2005年1月改訂が行われたと記載されている。




 




  33 医薬学術部 クレスチンが順調に売上げを伸ばしている頃、N専務は今後も新薬が出続けることを期待し、且つK-247の申請が問題になった事もあり、医薬関係の組織として本社に臨床試験を担当する部門が必要だとして精密化学品本部に医薬学術部を昭和58年7月に立ち上げた。 その部員と...