20 免疫賦活剤研究会
DS対策とPSK研究会の外科部会などで九大2外I教授を中核とする研究会を発足することになったが、東京研究所で基礎を指導して貰った九大のDrNは激怒し「PSKの効果についてはまだ不明なこと」もあるので、もっと小さな研究会で予備的に行い、その結果が良ければそれに基づいてその後に大規模な研究会にするべきであるとN専務に進言したが、N専務はI教授の意見を取り上げてI教授の方針を実施することになった。
九州・中国地区に「免疫賦活剤研究会」を発足させることとなったが、DrIは発足に当たり呉羽及び三共から専任を出すように要請し、呉羽から私、三共からKが担当するようになった。
プロトコールについてはその頃大鵬薬品工業株式会社(以下大鵬とも言う)がソ連から導入したフトラフール(FT207とも言う)の効果を確認する全国規模の研究会が行われており、そのプロトコールにPSKを上乗せする案が考えられていた。九大2外科のK先生が事務局となり、研究会の組織やプロトコール案、症例報告書等などをまとめた。九州の主な大学などを三共の地域担当者がアポイントを取り、Kと私がDr井口の挨拶状とプロトコール案を説明し参加を要請した。場合によってはその説明にあたって担当者も含めた関係者を料亭などに招いて宴会を実施しながら説明した。
研究会の組織は下記の通りであり、ほぼ九州の主だった癌研究施設と関連病院を網羅した。三共の組織力はすごいと感じた。
会長兼代表世話人:九大2外科教授 井口 潔
代表世話人:九大腫瘍研教授 野本 亀久雄
実行世話人:熊大2外教授 赤木 正信 他7名
世話人:鹿大2外教授 秋田 八年 他7名
事務局:九大2外科 担当 神代 竜之介
コントローラー:愛媛大 薬理学教授 小川 暢也
研究施設:九大2外科他60施設
この研究会ではデータ入力、解析など人手や解析用コンピューターなどの問題から、これらの作業をクレハが担当することになり、電算室からK君が医薬品部に異動してきた。彼が本社のコンピューターを使って解析を担当することになり、集められたデータをCTにて入力、解析して生存率等を計算することになった。昨今ではメーカーが研究会の解析などを行うなどはデータの偏りを誘発するなどが明らかになり問題提起されている((血圧降下剤「ディオパン」(ノバルティス)や「プログレス」(武田))が、当時はそれほど問題視されていなかった。割り付けもいわゆるダブルブラインドではない封筒法であった。
データを解析できることは何かと情報を得ることが出来た。データを見ながら後日色々な策謀をすることになったが、今ではそれを知る人も少なくなった。
この研究会はまず九州地区で昭和53年6月に世話人会を西鉄グランドホテルで開催し了承され、発足会が昭和53年8月に同じく西鉄グランドホテルで行われ研究がスタートした。昭和54年3月から4月にかけ九州地区の各地ブロック会を開催し、三共の地域担当者はこの研究会を推進することで有償のクレスチンがどんどん消費されるので全力を挙げて研究会をフォローした。この研究会にかかった運営費や各施設への研究費は5000万円を越え2社で割り振ったと記憶するがクレスチンの売り上げは格段に増えすぐに回収出来たであろう。
昭和53年10月症例確保も順調に進んだことから、九大2外で助教授をしていた広島大原爆医学研究所外科の服部教授と井口教授が話し合いを持ち、九州地区と同様の研究会を立ち上げることになり、中国地区に全く同様のプロトコール案を提示し研究会の組織を発足することになり昭和53年12月に発足会が行われ症例集めが開始された。こちらの呉羽の担当はTだったが、経験も少なく結局CTにおんぶに抱っこだった。
順調に症例が集まってきた頃、井口教授は全国規模ですでに臨床研究されていた大鵬のフトラフールに関する研究会のプロトコールが免疫賦活剤研究会とダブることから、これを合体させてはどうかと提案され、各社(呉羽、三共及び大鵬)持帰って検討し了承された。昭和54年8月に世話人会を開催しその方針変更をはかり了承を取り付けた。この時点で症例は既に胃癌で70%、大腸癌で40%を超えていた。
今後の研究会の運営について
『当研究会は胃・大腸癌の摘除手術に対する免疫化学療法の併用効果とその副作用を評価することを目的としてスタートしたものであり、一方胃癌手術の分野では数年前より全国組織による「胃癌手術の補助化学療法研究会」があり、すでに第1次研究、第2次研究を終了し、さらに第3次研究のパイロットスタディが、免疫賦活剤(PSK)+化学療法剤(FT207)を主題として全国各地区において実施される運びになっている。その研究主題と現在九州地区の研究会で実施中のプロトコールは本質的に変らないものであり、我々研究者としては症例の分散をさけ、又全国レベルで有機的につながりをもってデータの比較やより大きな規模での考察をすべきであるとの観点から「胃癌手術の補助化学療法研究会第3次研究パイロットスタディの九州ブロック研究会」とすることに世話人会で意見の一致を見るに至った。』
これを「今後の研究会の運営方針とする」ことが決定され、昭和54年9月に各施設に通知され、この研究会は「胃手化3p」へと途中から衣替えし、呉羽・三共主催から呉羽・三共・大鵬主催へと変身した。
「胃手化3p」については別項に譲る。
この間私は他地区の販促講演会、台湾、韓国向けクレスチンの承認申請や販促講演会、中央研究会、CTでの兼務の仕事等々をこなしながらの免疫賦活剤研究会担当だったため、九州各県を行き来しながら大抵東京ととんぼ返りを繰り返し体力を消耗した。その中で三共のある支店長に失礼があったらしく(自分の方が年長者なのに私のものの言い方が悪いとのことらしかった?)、それがN専務に伝言され医薬品部を追い出されることになった。その頃Oが大阪支店・化学品課から医薬品部に異動してきて私の後を担当することになったが、何しろ初めての医薬関係の仕事であり、彼も又CTにおんぶに抱っこだった。AやOはN専務が大阪支店にいた頃仲人をしたとかでNの腹心らしかった。
Yの話によればNは錦工場への転勤させろと言っていたらしいが、Yは東京研究所と兼務しているので東京研究所へ戻すよう働きかけ、昭和56年6月に無事東京研究所への転勤が実現した。この研究会でお世話になり懇意になった各先生についてはその後CTでの治験などで再びお世話になることが多かった。
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