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13 PSK研究会

 

食品研究所で行われていた毒性試験に関して東大のK教授から指導を受けていたという。食品研究所の一部が東京研究所に移り生化学班となり、毒性試験を社内受託するようになったとのことである。その頃Yは癌の研究を密かに開始していたらしい。
     
昭和46年に毒性試験の指導を得ていた東大のK教授の紹介で世界的な病理学者で東大病理のO教授の知遇を得、さらにO教授の紹介により当時癌の基礎研究の第一人者である癌研究会癌化学療法センターS所長の知遇も得ることができたという。昭和46年暮れから47年にかけてPSKに関する諸データをO教授、S所長に検討してもらい、O専務の裁可によりPSK研究会が組織されることになったという。臨床のトップはやはりK教授の紹介による国立がんセンターのK先生にお願いすることになったらしいが、がんセンターのK先生にはYの母親がお世話になっていたので、その縁で座長を依頼したとも言われていた。K及びS両先生が臨床及び基礎の研究会の座長となって研究会が組織された。    
 
抗腫瘍性の試験の手技は当初は実中研のE博士の指導を受けていたが、研究会が組織されてからは癌研の他、国立がんセンター、九大、阪大(微研)、名大、東大、東北大、北大(癌研)等の医学部や愛知がんセンター等々との共同研究が増大した。
 
Yが卓越していたのは一つの種(一人の人)から次々に繋がりを大事にしてそれを拡張していく能力に長けていたことである。O専務の小学校の同級生の京大医学部解剖学教授のN先生、助教授のT先生、助手のT先生、I常務の親戚のがんセンター外科のI先生、その仲間のN先生など次から次へと癌研究の第一線の先生方を網羅していった。 
PSKは初期にはKSFRと仮称されていたが、1971年に至って(国立がんセンターの)K先生によってPSKと正式に命名されたという。学会発表もPSKではなくKSFRとして発表されていた。

 研究会は昭和47年4月15日に第1回が、同11月18日に第2回そして昭和48年6月15日に第3回目が開催されている。その報告書が2冊出来ており、基礎研究と臨床研究の報告がされている。これ報告書はPSK研究会編となっており研究会に報告されており公文書と見て良いだろう。




臨床試験の研究会の組織は上図のようであったが、報告会での参加者も不明であるし詳細は割愛するが、この報告書と申請時の資料とでは相当異なることが記載されている。

 










これらの報告書ではPSKの抗腫瘍効果について癌研究所の桜井欽夫、副作用につ東大太田邦夫、臨床経験について国立がんセンターの伊藤一二が講演されている。
また第2報では、上記の他に抗腫瘍効果について名大内科の大野龍三、外科領域で九大2外の服部孝雄、名大2外市橋秀仁、婦人科領域で国立がんセンターの笠松達弘、野沢志郎、内科領域で大阪成人病センターの正岡徹、愛知がんセンター小川一誠、国立がんセンター坂井保信、癌研古江尚、東北大抗酸研斉藤達雄、高橋弘、国立東京第一病院武正勇造、国立名古屋病院広田豊らの講演と追加発言で阪大微研外科芝茂、東北大抗酸研内科斉藤達雄、国立東京第一病院小山善之が発言している(敬称略)。 
 
研究会はその後種々のプロトコールを立案し、実施していったが結果が確定する前に承認申請が行われ、販売を担当することになった三共がこれらの研究会を引き継ぐことになり、呉羽は手を引くことになった。呉羽時代のプロトコールなどは割愛する。

当時の開発責任者であったUのレポート(PSK研究の現状並びに今後の見通し:1973/6/21)によれば、第3回までの臨床例は約520例、未報告の例約50とあり、第3回の臨床まとめとして司会者が1.免疫療法の手がかりが出来たので、効果判定法の決定を急ぐべし。2.併用薬はどのようなものが良いか。3.適正投与量は?4.使用時期はいつが良いか。5.外科手術との併用療法は?を今後詰めなければならないと指摘したと記している。 
 
臨床研究は内科部会と外科部会があったが詳細はよく分からない。このような時期に私はPSKに関わることとなったが、内科部会の分科会があるホテルで開催された時からこのような会を手伝うこととなった。ただ、この会は夏の暑い時期に午前中開催され、終了後通常はパーティーがあり食事やアルコールが準備されるが、この時はホテルのビアガーデンの飲み放題が準備され、研究所の所員がホスト?となり接待したが、ドクターからは暑さと食事内容に不平不満が続出した。しかしその頃の呉羽の状況から見たらやむを得ぬ待遇であり、また当時の呉羽の苦しい台所を示す貧しい思い出である。


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