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  26 K-247


K-247は抗悪性腫瘍剤として開発中もので、本社医薬品部兼任を解かれ東京研究所に戻ったときにはある程度プロジェクトは進行していた。簡臨床臨床治験に至った経緯を「 発見及び開発の経緯(概要)」の原稿から転記する。公表文献以外は手元に残ったのは概要の原稿だけである。

1968年にクレスチンの構造研究を京都工芸繊維大学・平瀬進教授の指導のもとに開始し、多糖類の構造決定を行った。その後クレスチンの最小有効単位の検討を目的としてクレスチンと同じN-グルコシド結合を有する糖-アミノ酸結合物を合成し、物性、抗腫瘍活性等から、芳香族アミノ酸-単糖化合物が興味ある特性を示したため、これに関し本格的な研究を開始した。1975年(昭和50年)よりグルコース、キシロース等各種単糖と種々の芳香族アミノ酸との反応物を得たがその中でも0-m-p-アミノ安息香酸の誘導体を得、その中から総合的に判断して、p-アミノ安息香酸-N-D-キシロシッドナトリウム塩(K-247)に到達した。

このようにクレスチンの構造研究から生まれたものである。クレスチン周辺の糖を中心とした化合物を合成し、抗腫瘍性の高かったキシリトール類縁化合物が選択されたものであり、これもYの大学時代の同級生、M大学農学部のK助教授の研究室(呉羽から同僚のKが同室に派遣されていた)から得たものであった。

物理化学的性質、毒性試験、薬理・薬効試験、吸収・分布・代謝・排泄等の基礎試験を実施し安全性が高く、抗腫瘍活性の高い化合物であることが確認された化合物であった。

Yが開発を急いだ理由の一つに農薬で成功を収めた錦研究所のIさんの本社転勤があった。ラブサイドで評価を上げたIさんでさえ、しばらく開発品が出なければ、異動させられるという事実である。それは研究は40歳前後までが限界であるという誰が言い出したかわからないがその当時の呉羽の考え方でもあったようでY本人もPSKだけでは本社に異動になるのではという危惧をいだき、なんとか次を出したいと思ったと言っていた。 (後日談だがラブサイドの開発者であるAさんもその後本社の生化学調査部長?などの名目で研究からはずされたが、Yが特別研究室に蟄居させられた時に、Aもやはり特別研究室に異動した。)

  

私はk-247の開発でもPSK時と同じように規格・理化学・安定性等の化学部門を担当することになったが、医薬品部にいたときに多くのドクターとのお付き合いでが出来るようになっていたため、一部の臨床試験も担当することとなった。理化学は構造がはっきりしているので比較的簡単であったが、Na化されていたため乾燥度の低い場合の製品の安定性は結構不安定だった。乾燥程度を徹底的に上げたものを使い、3年間安定というデータに仕上げた。実際の治験薬では1年ぐらいで黒ずんだこともあったが水分量を減らせば何とかなるだろうと高をくくった。 
 
臨床試験には未経験者のIやFらも参加していたがデータを取れる人は相変わらず少なく、結局、「YとFと私」の3人組がメインで仕上げていった。後日呉羽の悪(わる)の3人組とN専務以下に徹底的にたたかれたのもこの3人が臨床のまとめを行い、一部の臨床試験データにあらぬ疑いがかけられたためでもある。 
 
その臨床試験は1980年にK-247研究会が、国立名古屋病院長・木村禧代二先生を代表世話人として発足し、木村先生を中心として開始された。
K-247研究会のメンバーは下記のとおりでその頃の癌研究者を大半網羅する研究会組織あったが、これは呉羽化学がクレスチンで有名になったおかげで参加して頂けたものである。 
 
K-247研究会参加施設と主務者

施設名

臨床研究会参加施設

主務者

北海道大医学部(癌研病理)

 

小林 博

札幌医大(第3内科)

鈴木 明

札幌医大(第4内科)

漆崎一朗

弘前大医学部(第2外科)

佐々木睦男

国立岩木病院(内科)

木村 要

東北大薬学部(衛生化学)

 

橋本嘉幸

東北大医学部(外科)

 

西平哲郎

東北大抗酸菌病研究所(臨床癌化学療法部門)

涌井 昭

磐城共立病院(内科)

平沢 堯

磐城共立病院(呼吸器科)

林 泉

東京大医学部(第1内科)

織田敏次

東京大薬学部(生体異物・免疫化学)

 

大沢利昭

東京大医科学研究所(外科)

藤井源七郎

癌研究会癌化学療法センター

 

桜井欽夫

癌研究会癌化学療法センター

小川一誠

癌研究会癌研究所付属病院(内科)

斉藤達雄

癌研究会癌研究所付属病院(内科)

西 一郎

癌研究会癌研究所付属病院(外科)

中島聡總

癌研究会癌研究所付属病院(放射線科)

梅垣洋一郎

国立病院医療センター(外科)

木村 正

都立駒込病院(外科)

伊藤一二

都立駒込病院(泌尿器科)

木下健二

都立駒込病院(化学療法)

坂井保信

慶応大医学部(耳鼻科)

犬山征夫

帝京大医学部(内科)

古江 尚

帝京大医学部(病理)

 

瀬戸輝一

日医大(泌尿器科)

中神義三

北里研究所付属病院(内科)

片桐鎮夫

北里研究所付属病院(外科)

河村栄二

関東逓信病院(外科)

斉藤 光

関東逓信病院(泌尿器科)

小川秀弥

河北総合病院(泌尿器科)

淡輪邦夫

北里研究所(バイオメディカルラボ)

 

鈴木達夫

女子栄養大

 

河合正計

千葉大医学部(第1外科)

奥井勝二

防衛医大(第2外科)

尾形利郎

東海大医学部(外科)

三富利夫

信州大医学部(産婦人科)

野口 浩

松本歯大(薬理)

 

前橋 浩

名古屋大医学部(第2外科)

近藤達平

名古屋大医学部(第1内科)

山田一正

愛知県がんセンター(内科)

太田和雄

愛知県がんセンター(外科)

中里博昭

国立名古屋病院(内科)

 

木村禧代二

国立名古屋病院(内科)

須賀昭二

国立名古屋病院(外科)

北村 司

国立名古屋病院(産婦人科)

鈴置洋三

愛知県厚生連安城更生病院(内科)

星野 章

中濃病院(外科)

桃井知良

京都大医学部(内科)

中村 徹

京都市立病院(呼吸器科)

立石昭三

北野病院(外科)

横尾直樹

大阪大微生物病研究所(外科)

田口鉄男

大阪府立成人病センター(内科)

正岡 徹

奈良県立医大(外科)

白鳥常雄

岡山大医学部(第1外科)

折田薫三

岡山大医学部(産婦人科)

関場 香

鳥取大医学部(第1外科)

古賀成昌

広島大原爆放射能医学研究所(外科)

服部孝雄

九州大医学部(第2外科)

井口 潔

九州大医学部(癌研化学)

 

遠藤英也

九州大医学部(癌研免疫)

 

野本亀久雄

福岡市立第1病院(外科)

隈 博政

佐賀医大(第1内科)

 

苅家利承

熊本大医学部(第2外科)

赤木正信

鹿児島大医学部(第1外科)

西 満正

 

これだけ多くの施設を東京研究所の少ない人数で担当したので私たちは全国を飛び回った。

臨床効果の判定基準はPSK時代とは異なり、「がん治療学会直接効果判定基準」に則った厳しいものであった。PSKの時とは全く基準が異なったもので、腫瘍縮小効果できちんと判定されたものであり、今でも評価に耐えられるデータであるし、全て公表論文になっている。
この頃はすでに癌の臨床効果については小山・斉藤班の固形癌化学療法直接効果判定基準が公表されており、PSKの頃とはその基準が厳しくなっていた。その概要は下記の通りである。

奏功度の表現

判定方法

著効

Complete Response

CR

測定可能病変、評価可能病変および腫瘍による二次的病変がすべて消失し、新病変の出現が綯い状態が4週間以上持続したもの

有効

Partial Response

PR

二方向測定可能病変の縮小率が50%以上、あるいは一方向測定可能病変では30%以上の縮小率を示すとともに、評価可能病変および腫瘍による二次的病変が増悪せず、かつ新病変の出現しない状態が少なくとも4週間以上持続した場合

不変

No Change

NC

二方向測定可能病変の縮小率が50%未満、一方向測定可能病変において縮小率が30%未満であるか、またはそれぞれの25%以内の増大にとどまり、腫瘍による二次的病変が増悪せず、かつ新しい病変が出現しない状態が少なくとも4週間以上持続した場合

進行

Progressive Disease

PD

測定可能病変の積、または径の和が25%以上の増大、または他病変の増悪、新病変の出現がある場合

著効、有効のみを奏功として奏功率を算出する。対象が再治療例の場合は、先行治療終了後4週間以上の期間があり、かつ前治療の影響が全く認められないもの等々の条件がついている。

 

申請に必要なデータ(PSKの申請時とほぼ同じ項目であったので割愛)が集積されたので、申請の準備を開始した。申請作業は前回のPSKを参考にし、さらにその後承認された他の抗悪性腫瘍剤の最新の申請データを参考にしながら、申請書作成責任者として纏め上げた。
 
全てのデータがそろったので、 効能効果「消化器癌(胃癌、結腸・直腸癌)、前立腺癌、腎癌」として福島県勿来保健所に医薬品製造承認申請書を提出した(57年4月15日付け第498号収受)。申請書には社長の名前と社印の下にこの薬の担当者として私の名前を入れてあった。(YはPSK開発の責任者として名前が売れたので、今度はお前が担当者になり今後売り込んでいくと言っていた。)
当初は販売名:ブルゼン錠であった。申請書は福島県薬務課経由で厚生省に持ち込んだ。まだPSKが全盛時で厚生省でもまた抗悪性腫瘍剤の申請ですかと驚きをもって見られた。

 申請の準備が終了し社長らに詳しい説明に行った。社長がPSKにあった乳がんが効能にないのはなぜかといわれた。症例数が足りないのが原因だと説明した。Yは乳癌の適応が必要なら症例を追加して効能を取りましょうといったらしい。私は乳癌は後日「適応拡大」すれば良いので申請作業は続けた方が良いと提案した。Yは乳がんデータはすぐ集めるからということで申請を続けながら、乳癌の臨床データ収集を急いだ。例数と有効数の確保に全力を挙げ乳がんもデータがそろったところで効能効果の追加をし、更に販売名が特許に抵触したので変更した。 

 臨床データ、基礎実験資料などは大半公表されており、資料としては全く問題が無かったし、ヒアリングでも 対策として80数ページにわたる想定問答集を作成して対応したので特段の問題は指摘されなかった。

 

公表された文献は下記のとおりである(学会発表は除く)。公表文献なので実名。

K-247のマウスにおける慢性毒性試験

帝京大医学部:瀬戸輝一

相模原協同病院:榎本真

呉羽・東京研:藤井(孝)他

基礎と臨床16839971982

K-247のラットにおける慢性毒性試験

帝京大医学部:瀬戸輝一

相模原協同病院:榎本真

呉羽・東京研:生沢他

基礎と臨床16840091982

K-247のサルにおける慢性毒性試験

相模原協同病院:榎本真

呉羽・東京研:広瀬他

基礎と臨床16632471982

K-247のビーグル犬に対する急性毒性および慢性毒性試験について

女子栄養大:河合正計

相模原協同病院:榎本真

呉羽・東京研:広瀬他

基礎と臨床16631761982

K-247の生殖試験(第1報)~(第4報)

島根医大:田中修

帝京大医学部:瀬戸輝一

呉羽・東京研:松木他

基礎と臨床16840291982

K-247の微生物を用いた突然変異誘起試験

呉羽・東京研:安藤他

基礎と臨床16841001982

K-247の染色体に及ぼす影響

呉羽・東京研:安藤他

基礎と臨床16841051982

K-247の抗菌活性

呉羽・東京研:安藤他

基礎と臨床16841031982

K-247のマウス腸内菌叢に及ぼす影響

呉羽・東京研:桜井他

基礎と臨床16841071982

K-247cyclophophamideの合併治療効果

北大医学部・癌研:後藤田栄貴

癌と化学療法 8 Supplement381981

K-247の生体防御機構に与える影響

呉羽・東京研:松永他

九大医学部・癌研:野本亀久雄

基礎と臨床151362591981

制癌補助療法剤の免疫学的検索

千葉大医学部:藤本茂

癌と化学療法 19712371982

ヌードマウス可移植性ヒト消化器癌による制癌化学療法剤の検討

千葉大医学部:藤本茂

癌の臨床 281011261982

K-247in vitro抗腫瘍効果とその作用機作

防衛医大:鶴純明

九州がんセンター:真柴温一

基礎と臨床1626971982

K-247の制癌作用機序に関する研究

佐賀医大:苅家利承

基礎と臨床16151982

Effect of k-247 on metabolism function of normal lymphocytes and leukemic cells

東大・薬学部:豊島聡他

Jornal of pharmacobio-dynamics 5 430 1982 

 

K-247の血小板機能並びにPGI産生に及ぼす影響

東大医学部:苅家利承他

日本血液学会雑誌 4322641980

新規制癌剤K-247の特性

九大癌研:遠藤英也

基礎と臨床16632621982

K-247の一般薬理作用

松本歯科大 前橋浩

呉羽・東京研:広瀬他

基礎と臨床16841091982

K-247の臨床経験

札幌医大第3内科 浅川三男他

基礎と臨床16633021982

K-247の臨床経験(Ⅱ)

札幌医大第3内科 浅川三男他

基礎と臨床161477851982

K-247の使用経験

東北大学抗酸菌病研究所臨床癌化学療法部門 金丸龍之介他

癌と化学療法91221221982

p-aminobenzoic acid-N-xylosideを併用した制癌療法の臨床的検討

千葉大医学部第1外科 藤本茂他

癌と化学療法991574, 1982

腎・前立腺癌に対するp-aminobenzoic acidの糖誘導体に関する基礎的臨床的検討

日医大第1病院泌尿器科 中神義三他

国立がんセンター泌尿器科 松本恵一

基礎と臨床16636111982

腎・前立腺癌に対するK-247の臨床的検討

日医大第1病院泌尿器科 中神義三他

基礎と臨床16141982掲載予定

泌尿器系悪性腫瘍に対するK-247の臨床的検討

関東逓信病院泌尿器科 小川秀弥他

基礎と臨床16141982掲載予定

腎・前立腺癌に対するK-247p-アミノ安息香酸キシロシッドナトリウム塩)の臨床効果

河北総合病院泌尿器科 淡輪邦夫

基礎と臨床16141982掲載予定

p-アミノ安息香酸-N-キシロシッドナトリウム塩(K-247)の基礎と臨床

都立駒込病院外科 森武生他

基礎と臨床161365431981

K-247の臨床使用経験

 

都立駒込病院外科 森武生

基礎と臨床161478511982

K-247の膀胱癌に対する臨床試験

都立駒込病院泌尿器科 蓑和田滋他

基礎と臨床16636061982

p-アミノ安息香酸-N-キシロシッドナトリウム塩(K-247)の臨床的研究-特に単独投与効果について-

東海大医学部外科 生越喬二他

基礎と臨床161478561982

婦人科悪性腫瘍に対するp-aminobenzoic acid-N-xyloside Sodium SaltK-247)の試用経験

信州大医学部産婦人科 野口浩他

基礎と臨床16949851982

K-247単独投与による抗腫瘍効果

名古屋大医学部第2外科 亀井秀雄他

基礎と臨床161478351982

p-アミノ安息香酸-N-キシロシッドナトリウム塩の抗腫瘍効果-単独並びに放射線との併用効果について-

愛知県がんセンター第2内科 福島雅典他

癌と化学療法92230, 1982

p-aminobenzoic acid-N-D-xyloside Na塩(K-247)の臨床使用経験-主として消化器癌に対して-

愛知県がんセンター外科 山内昌司他

基礎と臨床16315811982

乳癌に対するK-247の使用経験

奈良県立医大 第1外科 中谷勝紀他

基礎と臨床161478431982

K-247の臨床使用経験

広島大原爆放射能医学研究所外科 折出光敏他

基礎と臨床161374061982

p-アミノ安息香酸-N-キシロシッドナトリウム塩(K-247)の抗癌性に関する基礎的及び臨床的研究

九州大医学部第2外科 玉田隆一郎他

基礎と臨床161269481982

p-アミノ安息香酸-N-キシロシッドNa塩(K-247)の使用経験

熊本大医学部第2外科 池田恒紀他

基礎と臨床161478461982

K-247の臨床経験

鹿児島大医学部第1外科 末永豊那他

基礎と臨床16634611982

K-247の臨床経験(Ⅱ)

鹿児島大医学部第1外科 末永豊那他

基礎と臨床161478311982

p-アミノ安息香酸-N-キシロシッドNa塩(K-247)のPhaseⅡ臨床治験

帝京大医学部内科 古江尚

基礎と臨床161477791982

 

 

 

 

臨床試験の公表はある程度義務づけられていたので、一部を除いて3人で担当した。私が担当したのは東北大、千葉大、関東逓信、駒込病院泌尿器科、愛知がんセンタ外科、九大、鹿児島大であった。


東北大・抗酸研のデータはPSKのときと同じように1例有効例が貰えたが、担当のK講師に何度か掛け合ってようやく確定したが、それをホテルに帰ってYにその旨報告すると、その臨床調査書を入手したのかと聞かれ、確定したばかりだと言ったら「今日ドクターが死んだらどうするんだ。すぐ行って調査書を貰って来い」とのことだった。もう夜中で飲んだ後に送って行ったので無理だといったが、データは確定できなかったらお前の責任だと怒られたことを思い出す。 本人はデータが取れないときにはタイミングがあるといって、じっくり攻めることが多かったが、文句を言える状況にはなかった。他人には非常に厳しいことがあったが、これは1人息子の性質かもしれないと思ったものだ。論文は無事投稿された。

 東北大の投稿文献(癌と化学療法)

 

私の担当した施設以外では臨床データの一部を公表を見送った施設の症例を貰ってデータとしたところもあったようで、これが申請取り下げの原因となった。 
GCP(医薬品の臨床試験の実施の基準)が平成元年薬務局長通知により行政指導として定められたが、その後も改訂を続け世界のGCPとして臨床試験のやり方が厳しくなったが、この制度がもう少し早く出来ていればこのようなことは起こり得ず、k247も無事承認にこぎ着けたと思われるが、その時点ではこのような規制は無く企業の倫理任せであった。 
 
昭和57年暮れまでに国立衛生試験所で行われた規格試験の確認も無事に合格し、 順調に薬務課で審査が始まり、ヒアリングには研究所長以下各担当者が出向き、ほとんど問題なくヒアリングも終了した。 
 
ところがH大外科のH教授が既に投稿された別刷りを見て当科では乳がんは取り扱っていないのに乳がんが入っているのはなぜかと担当のドクターに聞いた。担当ドクターは出先の病院での症例と返答したとすぐに担当のFに連絡があり、どのようにしたら良いかと相談があった。追加の乳癌のデータを至急で集めるようにし、依頼しやすいところにお願いして例数を集めたが、H大のドクターは乳癌も取扱っているのでお願いして症例を頂いたと思っていたし「公表することも問題ない」とのことだったのでので、一部の乳癌のデータに他の施設のデータも加えてまとめて貰ったようで、その対処法に苦労することになった。 暮れのことで対応はY、Fと私の3人でやることになり、担当ドクターと直接連絡するのは私の役目となった。Yは自分が直接彼とやりとりすると対応を考える時間がなくなるので、その時間を持つために私の自宅の電話番号をドクターに教えてしばらく考えさせてくれとのことだった。(Fは担当だったので外れることになっていたが)その年の大晦日、元旦、2日と研究所に3人が集まり鳩首会談を持ち解決案を考えた。

その結果N医大の関連施設から得られたデータを発表してもらったということで、収めようということになり、YはN医大のドクターには事情をなんとなく匂わせて関連施設から貰ったデータを他施設での治験データを発表して貰ったことにしたが、ドクターは(Yが困っているのなら助けようと思ったと後日話していた)H大からの問合せに「それは関連病院のK総合病院のデータです」と言ったらしい。K総合病院の院長が偶然H大のH教授と東大同門で、H教授から院長にその経緯をすぐ調査してくれと電話があり、データを提供したとされT先生は何のことやらわからず、聞かれるのがいやでしばらく病院を休んだという。結局K総合病院でも何のことかわからず、そのデータがどこから来たか解明されなかった。呉羽や担当したFにも問い合わせが頻繁にあったが、ドクターに聞いて欲しいと言うことで押し切った。
 
H教授は理由はどうであれ消化器専門の教室では乳癌を入れたデータは研究室のデータとしては発表できないので、この公表文献の取り下げをするようにと担当ドクターに命令し、公表文献の取り下げ願いを出させることになった。文献が取り消されると乳がん等の例数が不足し、効能効果が謳えなくなったが、事態はもっと急を告げた。 
 
 H教授は その経緯を呉羽本社のN専務に伝えた。これを受けてN専務はすぐに調査に取りかかり臨床データに一部問題があるとし、そのようなことが世間に広がるとクレスチンの売り上げに影響するのでK-247の申請を取り下げることが大事というような話で社内を説得し、社長以下この線で行こうと言うことになった。また開発者のY一派の責任をも取らせようとたくらんだらしい。  昭和58年当時のクレスチンの販売高は500億円を上回り、医薬品単品での売上げNo1を確保しており、それがK-247で傷が付き売り上げが減少し大問題になるという理由だった。結局本社の言うとおりとなり、申請取り下げが決まった。開発にかけた数十億円と長い期間がふいになった。(一般論として1つの医薬品の開発には発端から申請完了までに20数年数十億円かかると当時の医薬品開発書に書かれていた)
家内は暮れ・正月と徹夜出勤したので何事が起こったのかと心配したし、夜中にドクターから電話が何度もかかり、家族には大変迷惑をかけた。 
 
N専務はその前後Yと激しく対立することになり、この問題をYの追い落としに利用することした。「K-247の臨床データには一部捏造があり、これを主導したYら3人は厚生省のブラックリストに載っている」というようなことを宣伝し「隠し砦の三悪人」(黒沢監督の映画の題名)にちなみ「呉羽の三悪人」と呼び徹底的に干していった。これらの根回し宣伝は相当広く行われたらしく、後年医薬品事業部に異動になり本社のいろんな人から、K-247は会社の名誉を危うくするところだったが、申請取り下げでそれを回避したとの話を内々の話として聞いた。クレスチンの販売をしていた三共に聞いたがそのような話は聞いたことが無いとのことだったのでYの追い落としにのためには平気で「嘘」をつくこともいとわなかったらしい。後日談に述べるが偽証を強要し、金までばらまいたという。これらの一連の騒動の結果、Yグループはクレスチンの成功での優遇から一転して苦難の道を行くことになった。 
 
昭和58年1月18日付けで、厚生省薬務局審査課長宛に「シュバリゾン原末並びにシュバリゾン錠申請取下げについて」という書面を提出した。内容は昭和57年4月15日に提出した製造承認申請に関し、「現時点では製造のスケールアップに関し品質にかかわる未解決の問題があることが判明し、場合によっては申請内容の変更に及ぶ危惧を含むため、更に検討が必要となり、審査途中で遺憾ではありますが現時点の判断として申請の取下げ止むなしとの結論に達し、申請取下げおよび申請書の返却をお願いしたい」というものだったが、この表現には後日工場からクレームが付いたという。何の関わりも無いのに「技術を否定された表現」だったからである。当時は「技術の呉羽」といわれるほど呉羽の技術力は業界では有名だった。Y専務が工場に土下座をしにいってことを納めたという。 
 
  審査課より後日、この内容では納得できないのでもっと詳細に説明するようにとの指示があり、規格値(定量値)の未達が大規模生産の過程で見つかり、特にナトリウム化の段階で不純物が発生し、純度が不足し、未だに解決できていない詳細に詳細に記して、再度審査課長宛に昭和58214日に提出した。審査会はうすうす臨床データの問題と気が付いていたのか、臨床治験での規格を達成できないような会社が存続してよいのかと(治験段階ではクリアしていたはずなのに)文句が出たという(当時の委員より情報入手)。

 

  K-247は制癌剤として開発されたが、抗炎症作用(カラゲニン浮腫抑制、鎮痛作用、解熱作用など)、血圧降下作用(特に自然発症高血圧ラットなど)、血糖降下作用、血中脂質降下作用などがあり、K-247の開発中止後は糖の部分をキシロースからマンノース(K-MAP)、アラビノース(K-AM)に変更したPABA誘導体を開発品目に挙げて一部は臨床試験に供されたが、いずれも効果が確認されず、すべてがお蔵入りとなった。

 

後日談
*1998年10月にN医大N教授から医薬品事業部に電話があり偶然私が電話を受けた。電話の内容は「11/13~15日台医学研究会がある。呉羽の援助で作ったもので、膀維研を母体としているが援助してもらえないかとFに頼んだがN専務がこの話をつぶした。三共Mがバックアップしてくれるが再度クレスチン担当のFに援助出来ないか聞いてくれ」とのことだったが、その時に次のような話があった。
「昔、N専務からYを追放したいので重役会に出てK-247の件で証言しろといわれ、ずしりと重い札束を両方のポケットにねじ込まれたことがある。片方で100万はあったろう(銀座で飯食って、飲まされたときだ。ネクタイは2本受け取ったが金は返したとのこと)。当時はH大助教授のNが経緯を証言してくれと言ってきて、返事が貰えないと帰れないなどといっていた。俺は金で動くような人物ではなく、義理人情を大切にしているし、PSKの開発者を追い落とすなんて呉羽の重役たちは何を考えているのかとNを怒っておいたが当時Nは社長になりたくて、クーデターをたくらんだらしいよ。俺はクーデターを阻止したことになった。」との話だった。その頃はN元専務は既に退職していたが酷い人だったんだと改めて思った。

*都立駒込病院外科のM先生(後の病院長)はK-247の効果を確認し、後日申請取下げに伴い治験薬提供が不可能になる旨担当したFが連絡に伺うと「医薬品開発会社は継続使用中の患者が亡くなるか使用を中止できるまで提供の義務があるのだ」と烈火のごとく怒り、Fが出入り禁止となった。またまたお前が説得に行けとYから言われ「在庫を全て提供すること」でようやく矛を収めてもらった。

*国立名古屋病院の院長・K先生も同様で治験終了後も処方にk-247と書かれ、病院薬局からkk-247を提供するか、ドクターを説得して処方を止めて貰うかしてくれと言われ、K先生の説得にも行った。

 

上記したとおり、その時代の規則に則り大半を公表し、癌治療学会の効果判定基準を満たし、効果判定委員会の了承のもとに提出した臨床データがH大の乳癌のデータに疑問が出て、その結果クレスチン大事ということで全てが崩壊してしまった。更に私もその巻き添えで責任をとらされることになり、その後呉羽ではどこに行ってもうさんくさい目でみられることになった。


 

 

25 再び東京研究所へ

*豊洲へ引越し

昭和55623日、医薬品部時代から兼任していた東京研究所(CT)の専属になった。

丁度その頃クレスチンで黒字になった会社は東京研究所の建て替えを検討していた。建て替えについては会長や社長がすぐにでも新宿百人町の元の場所で建て替えようとしたが、専務であるYが「相談がなかった」とむくれて、筑波の方に移転すべきと反対したためその対応に長引き、百人町地区の高層ビルの高さ制限が決まってからの建て替え決定となり、高層建築が不可能になってしまった(Yの話)という。すぐ近くのホテルはその制限の前に建築されたので高層ビルとなっていた。

建て替え前の研究所は前に述べたように古色蒼然とした雰囲気があってツタがほぼ全館を覆っていた旧館と、割と新しかった本館があったが、その本館の地下は旧陸軍の毒ガス研究所?といわれ地下4階まであった。

                    玄関

                    本館

 CTに戻った時にはYはクレスチンの成功で若くして「理事」となり、研究所の医薬関係の室長であり、医薬関係の研究員は大幅に増員されていた。私が4年前(昭和46年)にCTに異動してきた時はまだ生化学関係の1グループリーダーで配下は数人だったが、下記のように大所帯となっていた。


          旧東京研究所の玄関前で勢揃いしたYグループ

建て替えに伴う引越し作業が開始されていたので、フリーで戻った私は早速引越作業を担当することになった。

百人町での建替えは一部を残しながら研究を続け次々に建て増しする案と他地に一時移転して一気に新研究所を建てる方法とが検討され、当時の富士銀行グループである大成建設が期間と建築費を計算し、大成建設の旧研究所があった豊洲に移転して期間を短くする方法が採用されていた。

引越しには2週間ほどが予定されており、Yグループは機器や書類等々膨大な量を7月7~9日の3日間で引越した。その頃の豊洲は今と違って大変不便なところ?で新宿までの通勤と比べると、時間が倍増したが、千葉方面からの人達は半減した。

豊洲の研究所の地図

私はここで医薬関係の仕事が再開され、PSK関係では構造解明などが担当であった。しかしながら治験進行中のものに癌治療薬のk-247やK-18があり、先んじていたK-247をも担当することになった。K-247はクレスチンの構造研究の中から生まれたものでもあったためでもある。クレスチン関係の仕事は医薬品部からの要請で相変わらず出張が多く、やがてK-247も忙しくなり仕事が終わると連日のように銀座、新宿、六本木あたりで飲み食いし、タクシーで帰宅するような生活になった。医薬品部時代の情報蓄積がそちらでは役立ったが翌日は6時に起き7時に家を出て研究所に通わねばならず体力を消耗した。我々は定刻に出勤したが、Yは朝電話があり○○ドクターのところに寄って?から行くとゆっくり出勤することもあった。疲れているのは皆一緒だったのになあ・・・。

*新研究所へ



新研究所は豊洲移転の1年5ヶ月後の昭和57年2月に完成し、2月27日に開所式があり、約150人が参列した。「クレスチンの開発を契機として、医薬・医用機器・医用材料など生化学分野へ総力を傾注する体制を整え、研究開発機能をさらに拡充するために実現されたものである」との記載がある(時報より)。


3月5日から4日かけて新CTに医薬研は引越した。この時も徹夜など含め大変な作業だった。

 その後私が関係した医薬関係の研究については別項を設けるが残念ながら全てがお蔵入りとなったものである。

 

*研究体制の推移

念のため当時の研究所の体制の推移を社史から引用しよう(社史p439~)

東京研究所の再編
 
呉羽化学の経営方針は,高橋社長のもとで, 1977 (昭和52 )年前後から製品の品質特性に乏しい素材型の製品よりも,呉羽化学の独自の技術やノウハウを体現した高付加価値製品を重点指向する方針へと転換した。汎用樹脂である塩化ビニルの場合には,今日でも厳密な意味では各社の製品にそれぞれの特徴があることは事実であるが,加工技術の進歩に従ってコモディティ(標準品)化した。標準製品においては価格が競争の焦点となる。価格を決める最大の要素は,生産の規模と生産プロセスの効率性であり, 60年代後半から70年代前半にかけて,呉羽化学はナフサ分解, 原油分解をはじめとする原料生産のためのプロセス開発に重点をおいて研究開発活動を展開した。これに対して,高付加価値製品の場合には,市場においてまず品質に優秀性・独自性が問われ,次いで価格が問題となる。したがって,この種の製品を重点指向するためには,研究開発活動の重点を,生産プロセスの開発から新製品ないし新市場の開発に移さなければならない。さらに,呉羽化学においては,この付加価値路線は,従来の市場基盤である化学品とは異質の医薬品クレスチンによって先導される形となったので,医薬品の本格的な研究開発体制の整備を急がねばならない状况にあった。

このような研究開発体制の再編成は, 1976年10月の東京研究所の組織改正から始まった。すなわち,東京研究所の生化学班は各種の添加剤や防腐剤の毒性研究などを目的として設けられたものであったが,この班を発展的に解消して医薬研究室が設けられ,他の部門も化学研究室,探索研究室,管理室へと再編成されたのである。これによって,呉羽化学の医薬関連の研究開発体制は,独立した組織となった。新設された医薬研究室の当面の主要な活動は,クレスチンの製造承認申請関係であった。

次いで1978年6月に,東京研究所の研究組織はもつばら生化学分野の研究開発に従事する体制に改められた。新しい研究組織は,探索研究室,医薬研究室,医用材料研究室,生化学研究室および管理室によって構成されることとなった。各研究室では,いわは義務として研究を進めなければならないテーマのほかに,研究者の話し合いのなかから自発的に設定したテーマの2種類の研究が実施できる体制がとられた。多様な医薬関係の研究テーマのなかでは,今日のクレメジンとなる経ロ活性炭について毒性試験が開始され,初期臨床試験の段階に近づいていた。

このように東京研究所が生化学分野の研究所として生まれ変わっていく過程では必然的に,次の2つの問題が生じた。第1は,東京研究所を人の面でも施設の面でも,今後実施が予想されるGLP (Good Laboratory Practice)レベルの研究機関として整備することであり、第2には,東京研究所,錦研究所,食品研究所との3 者間の関係を全社的な観点から再構築するという問題である。東京研究所は1980年頃までに, 150人を超えるスタッフを擁し,化学工業としては有数の規模を備えるに至っていた。しかし,建屋は古く,設備についてもまだ未整備な面があったので, 79年末に研究体制の飛躍を目指して,建物の全面的な建替計画が決定された。この計画に従って, 80年5月から古い建物の解体工事が始まり,予定どおり82年2月に竣工した。なお,この間,東京研究所のスタッフは江東区豊洲の大成建設の旧研究所を借りて研究を続けていた。

研究開発組織の再構築

次に,全社的な研究開発体制の再構築については, 1981 (昭和56 )年6月に全社的な組織改正の一環として,研究所についても大幅な組織改正が実施された。全社的な組織改正は,塩化ビニルおよびソーダ事業の構造改善を想定したものであり, その焦点の1つは,従来,化学品本部と合成樹脂本部で担当してきた塩化ビニル樹脂とソーダ製品の営業活動を,基礎化学品本部に統合したことにあった。このような既存製品と新製品の営業体制の再編成に対応する形で,研究所のあり方も見直されたのである。
すなわち,従来の呉羽化学の研究開発活動は,それまでは研究開発本部のもとに医薬・生化学分野を担当する東京研究所,既存製品の改良とともに新プロセスの開発や部分的には新製品の開発も担当する錦研究所,食品包装関連の技術開発と技術サービスを担当する食品研究所を配置して実施されてきた。これに対して新体制では,開発本部のもとに東京研究所と従来の錦研究所の一部を独立させた開発研究所を設置して,新製品の開発を担当させ,技術本部のもとに錦研究所,プロセス開発研究所および食品研究所を設置して,それぞれ既存製品関連の研究とその生産工程の開発・改良研究などを担当させた。さらに加工研究所を独立させて,樹脂製品関連の研究開発および関係会社の技術開発や指導に当たらせるというものであった。開発本部にはまた,これより先, 1975年に生化学調査部が設置されて,コンピュータを用いたドラッグデザインの研究など,新しいタイプの研究・調査活動が始まった。

研究開発活動と営業部門との橋渡しの役割については,従来の開発製品本部に代わって,新分野の製品については開発本部の開発企画部が東京研究所や開発研究所を支援し,既存製品関係については各営業本部の開発部が錦研究所をサポートすることとされた。

このような多岐にわたる本部や研究所の活動を総合的に管理し連絡調整する機構として,研究審議会が設けられた。研究審議会は企画室,技術本部および開発本部の主催によって定期的に開催され,トップが出席して,各研究所長の活動状況報告に基づいて現状を正確に把握したうえで,将来の方向づけを検討するための会議である。

呉羽化学においては,若い研究者の育成が研究所の重要な役割であった。このため研究者の養成過程で形成される人的関係が,研究開発活動そのものばかりでなく, 研究開発から生産や営業部門への移行過程にまで持ち込まれる傾向が見られた。しかし,この時期になると, 一方で自然科学の分野では大学院レベルの教育が普及して以上以上の教育を終えて人社するスタッフが増加し,他方で呉羽化学の規模が拡大し,事業領域も広がってきたので,研究開発活動についてもより組織化された体制に向かわざるを得なくなった。

このような経営戦略の変化や研究開発のための組織機構の再編成が進められるに従って,研究開発活動自体の内容にも少なからぬ変化が生じた。そうした変化を示す1つの資料として,この時期の技術分野別の特許出願件数の推移をたどると,表 5-17のようになる。(表は略)

クレスチンの発売前の1976年以前において最も多く出願された分野は,原油の高温水蒸気分解から副生する.タール・ピッチを利用したオイル,炭素製品等の石油関連であり,弗化ビニリデン樹脂を利用した圧電・焦電素子などの分野と排煙脱硫等の環境システムがこれに続いている。さらに,クレハロンフィルムおよび包装機械 (KAP)を中心とした食品包装関係と,当時の呉羽化学が水銀法の隔膜転換という差し迫った間題に直面した電解関係が続いている。新規分野として,排煙脱硫技術の開発とその販売に大きな期待が寄せられていたことがうかがえる。

BTAを含む塩化ピニルや塩化ビニリデンの重合技術は,依然として重要な研究テーマとなっているが,塩化ビニルモノマー関係の研究はまったく姿を消した。原油の高温水蒸気分解の技術に直接連なる分野として,重質油分解・アスファルト分解が残ってはいるが,その位置は大きく低下した。

このような特許出願の分布は, 1978年を境に一変している。電解関係ではイオン交換膜法の自社開発が断念されたため,研究開発活動は以降は低調に推移することとなった。排煙脱硫技術についても,期待したはどの成果はあがらなかった。特許とは関係ないが,かねてからUCC社および千代田化工建設と共同で進めてきた重質油分解技術の開発研究(ACR計画)は, 79年8月にデモプラントの運転が開始された。このデモプラントによる研究も80年末に成功裡に終了したが, ACR技術の企業化の可能性はほとんどないと判断され,この計画も休眠状態に入った。

これに対して,医薬品・医療分野の出願件数が一気に増加したのは,クレスチンの周辺を固めるための措置によるところが大きいと思われるが,東京研究所がSN関連から医薬品・医療分野の研究に転換した結果といえる。また,高付加価値製品の開発をめざすという経営方針が打ち出されたのに伴って,コラーゲンなどの天然ポリマー,弗化ピニリデン樹脂,圧電・焦電素子の用途開発,石油化学関連の炭素繊維や活性炭,塩化ビニリデン樹脂を利用した多層食品包装材料などの研究が活発化したことが明らかである。こうして,呉羽化学における研究開発活動は,しだいに新しい分野に重点を移していったのてある。


研究開発活動への投資

製造業企業の投融資活動の中心は,通常は生産設備への投資や,関係会社への投資である。しかし, 1970年代後半から80年代初頭にかけての呉羽化学の投融資活動の特徴の1つは,ポストクレスチンの時代を担う高付加価値新褜品の開発という経営方針に従って,研究開発関連の設備に積枷的に投資したことである。設備投資額に占める研究設備への投資額のシェアは,出来高べースでは1978 (昭和53 )年度には12.2 % , 85年度には25.8 %に達している。研究開発重視の政策は,費用の面からも裏付けられる。表5一18に示し(表は略)たように 売上高に対する研究開発費の割合は, 80 年前後には5 %を超え, 84年度には7 %に達した。売上高規模で呉羽化学と同程度の企業で当時これだけの資金を研究開発活動に投下した企業は,わが国では数少なかったのではないかと思われる。

この時期の研究開発活動は,従来とは異なった分野に広がり,きわめて多様化したが,その重点は大きく分けると次の3つの分野に集中していた。すなわち,クレスチンの開発によって新たに開かれた医薬と,ラブサイド以来蓄積のある農薬など生化学分野,クレハロンフィルムで強固な基盤を有する食品包装を中心とする包装材料の分野,弗化ビニリデン樹脂や炭素繊維などで経験を有する高機能・複合材料の分野である。つまり, 一方ではこれまでの技術的蓄積を踏まえ,他方では将米の事業展開の方向を考えて,早期に研究開発活動の成果を期待できる可能性の高い分野へと,スタッフと資金を集中的に投人したのである。具体的な研究開発活動では, その進展に見るべきものがあった。生化学分野では,活性炭を利用した慢性腎不全用剤など各種の医薬品や新農薬の開発が進んだ。高機能枴料・複合材料の分野では, PPS樹脂や各種電子材料,また食品包装の分野では,各種複合フィルムの開発で研究成果が上がった。これらはいすれも,技術的にみても,経済的な観点からも,かなりの事業規模を持った新製品につながる可能性を秘めていた。

しばしば,「技術の呉羽」と呼ばれるように,呉羽化学の研究開発は産業界では高く評価されているし,その成果は大いに誇るべきものがあった。こうした伝統に支えられて,大量のスタッフと資金を投入することができたのであり,またスタッフの意欲も旺盛で水準も高く,経営首脳をはじめ社内からの期待も大きい。これは研究開発活動にとって,きわめて恵まれた環境である。しかし,呉羽化学の研究開発の成功例は,クレスチンのケースに典型的に見られるように,長期にわたる地道な研究活動に加えて,多くの幸運にも恵まれた結果であった。この時期の研究開発活動から,大型商品や画期的新製品を生み出すことは,次の時代への課題として残されたのである。


社史では研究体制があってクレスチンが開発されたようになっているが、個人的には相当違和感が残る。



 

 24 国際化学療法学会(米国)参加

 

1979年ボストンで国際化学療法学会があり、クレスチンの発表や東京研究所で治験中のK-MAPの発表があり、そこで呉羽がその学会期間中おにぎりパーティーと称して和食を提供することになった。誰か参加希望者はいないかと専務から提案があったので、ドクターが発表するのを助けるだけだったら台湾、韓国と同じパターンと思い、英会話は出来ないものの立候補したらOKが出た。おにぎりパーティーが開催されるには食材や人手が必要になり、同期のAも行くことになりニューヨーク事務所に駐在していたUや駐在員の奥様なども動員されることになった。(その後の国際学会や国内の学会でも同様な催しを続けた)英会話が必要かと至急習ったが役には立たなかった。その時はきちんと習いたいと思ったがその後はあまりの忙しさにその機会は来なかった。この学会は10月1日から5日までであったが、10月9日から11日まで日米科学協力事業のセミナーが開催され(セミナー名:合成多糖とその生化学的機能)呉羽のYが招待されていたが、代わりに君が出席したらどうかと打診された。発表は癌研化学療法センターのT先生だから傍聴すれば良いとのことだったので、これにも参加することになった。その結果2週間強のアメリカ出張となった。学会の中身は割愛しその珍道中ぶりを少し紹介しよう。

               ゴールデンブリッジゲイト

サンフランシスコに到着。アメリカの偉大さと異文化を改めて感じた。その頃はテレビがあるくらいでパソコンやスマホもなく現在のような情報を得られなかったので、ガイドブックか体験することが一番だった。まだデジカメもなく出始めていた自動焦点付のフイルムカメラで撮りまくった。次の日学会会場のボストンに入った。

ボストンに着いた日か翌日、小澤征爾がボストン交響団を指揮してベートーベンの第5を演奏する催しがありドクターたちが聞きたいと言うのでUに頼みチケットが入手できたので聞きに行った。前から3列目くらいの席で指揮する小澤の激しい息使いが聞き取れるほどでその迫力に圧倒されたが、しばらくすると時差ボケのためうつらうつらしてしまった。今思えば残念だった。滞在したホテルには知り合いのドクターたちも泊っていたので夕食をご一緒したがロブスターが大きく美味しいので郊外のシーフード店まで食べにも行ったのが懐かしい。ハーバード大学には多くのドクター達が留学していたそうで、一流の研究者になるには留学は必須だったのかも知れない。

           


             小澤征爾指揮するボストン交響団


                学会にもちゃんと参加


            ハーバード大学にて主な参加者たち

                ロブスターを食べるドクター達
                ロブスターを食す


学会と連日のおにぎりパーティーも無事に終了し次の学会までニューヨークやワシントンを巡る観光ツアーに参加した。

先ずニューヨークに飛んだ。定番の観光コースで自由の女神、国連本部、エンパイアステートビル、ロックフェラーセンター等などである。2001年の同時多発テロ事件で破壊された貿易センタービルが懐かしい。

 

               自由の女神も遠くに

               エンパイアステートビル

                   国連本部

     後方背景に貿易センタービルが・・・(2001年同時多発テロ事件で破壊された)

         ロックフェラーセンターにて(一時三菱が持ち主になった)


その後ワシントンD.Cに飛んだ。

世界の政治の頂点の都市であり落ち着いた町であった。ワシントン記念塔、ホワイトハウス、国会議事堂、スミソニアン博物館等などを見学。スミソニアン博物館はもっと時間があればと思ったが・・・。

                  国会議事堂

                 ワシントン記念塔

              ホワイトハウス(警戒が厳重)

           スミソニアン博物館(アポロ11号司令船コロンビア号)

次の学会に出席するためニューヨーク州シラキュースに飛んだ。10月9日から11日まで日米科学協力事業のセミナーが開催され(セミナー名:合成多糖とその生化学的機能)Yの代わりに出席した。発表は癌研化学療法センターのT先生だから傍聴すれば良いとのことだったが中身はちんぷんかんぷん!だった。多糖の研究はPSKの構造研究の投稿論文をまとめただけで実務の経験が無かったからである。同行した同期のAはこの学会とは無関係だったがシラキュースに同行した。学会が終わると二人でナイアガラ瀑布見学に出かけた。手配などはドクターTにお願いし快適なドライブと瀑布を堪能した後翌日再びサンフランシスコに戻り帰国した。空港のタックスフリー店で会社や家族へのお土産を購入し(まだお酒の関税が高かったのでお土産にウイスキーなど頼まれたが重かった)たが家族には不評であった。

 

              ナイアガラ瀑布

これがアメリカ出張の最初で最後であり、3年間にわたる医薬品部での仕事のご褒美ともなった。しばらくしてCTへ異動となったからである。




 

23 医薬品部の思い出

*メンバー

医薬品部創立時に技術系はO部長、M主査、私の3人。事務系がM主査、AとZと3対3だったが、その後事務系が大幅に増え、私の異動で医薬品部には技術系が0になった。O部長の後任のH部長は(デュッセルドルフ駐在所長から医薬品部部長に着任した)私の異動を聞き驚いたようで「君にはすぐ戻って貰いたいと思っている」と言っていた。社長も研修会の席で心配していたがしばらく様子を見ていたようだった。その後は事務系だけがどんどん増えていって、当初の「ドクターの財布たれ」の目的には合致したが・・・。                

                                            創立時の医薬品部メンバー

               3年後の医薬品部(呉羽時報より)

前にも述べたが事務系の医薬品部への異動に際してはゴルフし放題、クラブや食事も接待で美味いもの食べられるし飲み放題との誘い文句があって承諾した人が多かったと聞いた。しかしながらその期待は裏切られて、ゴルフに誘うにはまずドクターと仲良くなったり、目的があったりせねばならず、そのような壁は厚く必然的に身内同士での接待が多くなった。この傾向はいつまでも続いたようで、後年再び医薬品事業部に戻ったときもクレスチンの貢献が少なくなっていたにもかかわらず継続されており驚いたものだ。銀座には呉羽から依頼される長距離の頻度が高いと期待して待つ個人タクシー(カタツムリ)がいつもたむろしており、そこまで行けばタクシーが拾えていたと聞いた。

事務系だけでは対処出来ないとしばらくしたら技術系を東京研究所(CT)や他部署から補充していった。私に戻るようH部長はCTのYに言ったらしいが、Yは「彼を一度医薬品部に行って貰ったのにCTに戻された」ので代わりの人を出すことにし、留学のためPSKの申請にはあまりタッチしてなかったOを3ヶ月後の9月に出した。

*海外出張

初めての海外出張は台湾である。海外は初めてのことでありパスポート取得から始りO部長に色々教えてもらいながら準備した。目的は台湾の会社がクレスチンを販売するために台湾三共を通じてその内容を教えてくれとの依頼であった。台湾・韓国のクレスチン販売許可は日本の製造・販売許可証があればその資料をそれぞれの国の申請書にして提出すると許可が下りるというシステムだったので(現在はよく分からないが)しばらく経つと許可が下りた。台湾の会社では日本語の達者な人が多く説明は全て日本語で良かったので楽であった。韓国も同様な状態であり、クレスチン輸出の説明に数回訪問した。台湾では輸出先の社長から紹興酒の古酒(何かの記念を祝って作られた銘酒と聞いた)を頂き大事にとっておいたが定年後開封し楽しんだ。さすがに美味しかった。台湾料理もご馳走になったが乾杯で杯を飲み干してから返杯するしきたりには閉口した。特別な料理と称して食べさせられた肉料理が馬の一物だったよと後から聞かされびっくりしたのも良き思い出である。時間が出来れば故宮博物館やお寺など観光できたのも楽しい思い出である。韓国はやはり焼き肉の美味しい思い出が多い。

               台湾の故宮博物館

            

                  台湾の奇岩

            台湾講演会:演者と台湾民族衣装

                台湾料理のメニュー
              こんな感じの紹興酒を貰う

            

            台湾、韓国の名刺(全て有名人らしい)

不思議なことに韓国の写真は無い。

台湾では日本のような再評価システムが無く、一度許可が下りたら効能効果に変更は無く販売は続けられた。韓国では国策?としてゾロを認めたためクレスチンの販売は急速に減少した。1979年にボストンで国際化学療法学会があり参加した。これについては別項で述べる。                     

*裏帳簿

当時国立がんセンターの汚職事件以後公務員(特に医薬関係)に対する接待が厳しく見られるようになっており、会社は私立のドクターを接待したことにして公務員のドクター達を接待した。社内での領収書につける相手先は帳簿につけるときは私大のドクター名や会社を書き、裏帳簿に本当の接待者名を記載するようにした(これがいつまで続いたかは知らない)。その内部内のみであるいは一人で飲食店やクラブに行くようになり、あたかもドクターを接待したことにするための裏の裏のドクター名が必要になり私のところに私大のドクター名を聞きに来たので、知っていたドクター名を教えたが私も臨床医はあまり知らなかったのでだんだん枯渇していった。

また、N専務には内緒?の口座があり、ドクターたちへの餞別など領収書が取れない場合に支出するお金を持っていた。管理を一元的にHがしていたようでが信頼が厚かったのだろう。また、餞別など領収書の取れないお金を渡すときには必ず二人で渡せとの専務命令があった。餞別を部員がネコババしないようにとのことだったが、CTの頃は領収書が取れる指導料等の支払いの時でも1対1であったのでびっくりしたし、信用できないならその使いは自分でやるか信用できる人に任せるべきであろうと思ったものだ。 

 *接待

ドクターによってはネクタイを拒否する人もおり、なかなか予約が取れない銀座の高級イタリアンレストラン「サバティーニ」を予約して入店した時、九大のドクターNはネクタイ着用といわれたとたん「たかが飯食うのにネクタイつけろとは何事だ」と怒り心頭に発し、ここは駄目だ他店に変更しろとのこと。まだ携帯電話の無い頃で招待主のN専務がまだ来てなかったのでOを残し、ロシア料理店に案内しそこで専務と合流したこともある。サバティーニにはその後試食に訪れてみたがそれほどでもなく2度と行っていない。

接待では多くの飲食店やクラブ、バーが必要になり、その頃はまだミシュランガイドが無かった?ので(バーやクラブは元々無いか?)、有名飲食店ガイドブックなどを調べてお店を探して歩いたり、三共からの情報や異動したクラブのホステス、店員からの紹介で出かけたりして見つけることも多かった。探すときは当然身内だけの交際費であったが・・・。

N専務はドクターの接待時によく銀座のクラブ等に案内したが、しばらく話をした後トイレに行くふりをして途中で消えることが多かった。招待、接待しておきながら結局逃げ出すことになりドクターからはあきれられた。 

クラブ等では名刺やマッチ、コースター等をよく貰ったので、一時はよく集めていたが結局廃棄した。名刺の一部がドクターや企業の名刺に混じって残っていた。全国各地の有名どころが残っていた。

                 クラブ等の名刺

*翻訳

海外担当はクレスチン申請関係や公表論文の英訳版を作成していた。あるドクターところに公表論文の英訳したものを持って行き海外へ紹介するのに使いますと了承をとりに担当のMと行ったところ、外国雑誌に投稿するかも知れない論文を勝手に翻訳して公表してしまったらもう英文で出せなくなるでは無いかと怒られた。公表論文の翻訳なので新しい論文にはならないと思ったが「泣く子とドクターには勝てぬ」ので削除することにした。クレスチン輸出の目処があまり立たなくなったので、その後公表論文の英訳は進まなくなったようだったし、海外勤務経験者や留学経験者もお払い箱になった。O初代部長の後任のHはニューヨーク所長やデュッセルドルフ所長だったが・・・

*三共

三共からはクレスチンに関するあらゆる必要事項の説明が求められた。特許は?、ドクターの親派と反対派は?、販促資材用の発表済の文献の著作権は?、研究会は?、生産に関する問題点は?、治験薬は終了したか?免疫療法をうたえるか?等など多数にわたった。大きな会社なので色んな部署から質問がありそのたびに答えを用意したり考え方を説明した。

クレスチンが三共の売り上げ(利益)に貢献するようにと各地区でドクターを対象に講演会が催された。呉羽にも私にも医薬品販売のこのような経験が無かったので販促の方法を学ぶ良い機会であり、呉羽から1~2名参加させてもらった。まず各地区毎(関東地区、東北地区など)に大きな講演会を催し、次に各県単位で、次に病院毎にと講演会と称し説明と接待を行っていった。

講演会(又は説明会)後はたいてい立食パーティーを行い、その後一部の有力ドクター(演者や教授、院長など)は三共の担当者がクラブなどで接待した。その他のドクターには三共のプロパー(現在は医薬情報担当者:MRと言う)がそれぞれ接待した。私もこれらの講演会にかり出され三共と共に接待したり、あまり知らない地域では三共の担当者とクラブなどに行った。これらの経験は役に立ったかどうか分からぬが、医薬品はその後クレメジン(球状活性炭を利用した腎不全薬)も三共が販売権を取結局結局呉羽のみで医薬品を販売することは無かったので、私個人にとっては貴重な体験であった。しかし講演会等は大抵土曜日の午後に行われることが多く遠方の場合は泊まりになり結局土、日がほとんどつぶれた。家族にはPSKに関わって以後迷惑をかけ続けた。

三共は拡販用に種々の資材を投入した。電卓、温度計、ノートその他多数に上った。一部は我々にも回ってきた。電卓はその後長年にわたり使用していたが残念ながら起動しなくなり廃棄した。手帳は大いに役立ち1977年から1987年まで50冊位のノートとして使った。読み返すと色々な仕事やドクターなど思い出される財産となった。このブログもこれによるところが多い。

                今でも使える温度計

                   PSK手帳

三共との打ち合わせや講演会などで多くの人たちに出会った。驚くべ三共三共本社や研究所には「博士」がうようよいることであった。医薬品開発には高度な知識、技術などが必須であることを裏付けていた。呉羽の東京研究所のYはこれからの医薬品開発にはこのような人的な充実が必要と考え人事に要望した。幸いクレスチンで有名になりつつあったので呉羽にも東大、京大などの薬学出身や生物専攻の人たちも入社するようになった。しかしながら武田や三共であっても新製品の開発には難渋したしその後の医薬品業界は再編の波に襲われたように、開発には呉羽でも少ない研究者ではその後の医薬品開発はバラ色ではあり得なかった。クレスチンの成功で化学業界等医薬品会社ではない会社が医薬関係の研究に多数乗り出したのもこの頃である。このような会社は研究のあり方などを勉強する「PIフォーラム」という集まりを組織したが、私も後に医薬品事業部に異動となりこれに参加した。PIフォーラムについては別項で取り上げたい。


               三共名刺(薬学博士が多い)

*三共社史より


三共90年史によると

主柱であったクロロマイセチンが特許失効に伴う後発品の乱立と医薬品再評価による適応症の大幅な削減の影響で年商100億円から10億円未満の製品へと急落し(中略)販売努力を重ねたが、業績面でクロロマイセチンの低下をカバーし他社並みの成長率を確保することができなかった。しかし、この間の体制立て直しを伴う営業努力と昭和52年の抗癌剤クレスチンの導入によって、医薬営業部門の売上高は45年の503億円から53年には1078億円弱と倍増し、55年2月にはセフメタゾン、ペントシリンと待望の大型新抗生物質製剤の発売を見るに至った。p-100

「クレスチンは、従来の化学療法剤と異なり、カワラタケの菌糸体から得られたユニークな新抗癌剤で、呉羽化学工業の十数年にわたる研究の成果であった。抗癌作用と免疫機能賦活作用を併せ持ち、副作用が極めて少ない製品である。当社は、販売権を得て、昭和525月に発売した。発売に当って、市場導入計画書を作成し、その計画的育成と、当社の営業体制の改善と強化を図った。クレスチンの販売実績は、発売後1年後には全医薬品のトップグループに加わり、わが国の抗癌剤市場の勢力分野を大きく変化させ、免疫賦活作用をもつ抗癌剤の研究開発活動に刺激を与えた」p-101

「売上高は、創業90周年を迎えた昭和63年度に、念願の3000億円を突破し、3085億円を達成した。これは、昭和54年度が1599億円であったのに対して193%の伸長で、ほぼ倍増となった。このように売上高が順調に推移したのは、その83%を占める医薬品、中でも、90%近くに達する医療医薬品分野で、相次いで大型新製品を発売できたことによる。(中略)加えて、52年に発売した抗悪性腫瘍剤クレスチンが成熟期に入って、安定した売上を収めたことなどが、売上げ拡大の主な要因であった。」p-197

第2節 の 「  医家向け大型製品によるめざましい業績の伸び。1.クレスチンによる急成長の達成」の中で

「昭和525月に発売した抗悪性腫瘍剤クレスチンは、癌治療が、人類の課題として世界的に関心を集めているなか、抗癌作用とともに免疫機能賦活作用を併せ持つ、副作用の少ない新しい経口タイプの抗悪性腫瘍剤として、また、医療ニーズに応える画期的製品として、医学会の注目を集めた。クレスチンの出現が、癌治療における免疫療法を大きく進歩させたことは、特筆すべきことであった。当時、当社は、クロロマイセチンの売上げ激減を受けて業績不振が続いていたが、クレスチンの売上げによって業績は急回復し、以後、毎期、増収増益を続ける原動力となった。」p-282

 とある。薬価については別項で。





 22 財団設立

医薬品部に在籍中にDrI肝いりの財団設立のお手伝いをしたので簡単に紹介する。

DrIは臨床試験の全国的な組織を設立して臨床試験の評価を科学的に行おうと財団設立を考えたらしい。

クレスチンが売れ出して免疫化学療法の効果を検討すべきであろうと考えたDrI挨拶に来たN専務に臨床試験を科学的に行うべきであり財団を設立したいと申し込んだ。Nはこれに乗るべきだと考え設立に必要な基金も出そうということになった。

私は懇意だったDrNに相談に行ったが、何を考えているのかと言われた。その理由は「評価の定まっていないクレスチンをいきなり全国的な評価システムに乗っけて成績が悪かったらクレスチンはおしまいだ。先ず九州辺りでDrIの目の届く範囲で予備試験をしてその結果が良ければ全国的な臨床評価試験を行うようにすべきだ。」とのことだった。Yもその意見に賛成したが、N専務はDrIの意見に賛同し財団設立へ協力することになった。その間にDrNの要望も取り入れ九州に免疫賦活剤研究会を設立した。

DrIは財団の認可権限を持つ厚生省の偉いさんと話をしたいのでその準備のためN専務に某料亭を予約させ「会談」を実施させた。費用は全て呉羽持ちであったが、表面上は全てDrIが設定したような形式をとった。

財団設立に必要な情報を集めたり、基金を協賛できる会社に依頼したりして、この財団は「がん集学的治療研究財団」として認可された。(昭和55623日認可)

財団が発行した「がん集学的治療究財団のあゆみ5周年誌」に詳しいので少し引用する。この記念誌は財団設立5周年を記念して開かれた総会の記録であり、祝辞以下懇親会まで写真が出ている。



この財団は市販薬を使っての臨床試験なのでこの試験に各社の医薬品が使われると無条件に使用量が増えるというメリットもあり、抗がん剤を有するメーカーや有力製薬会社も要請に応じて基金を出し協賛した。

設立発起人は下記の通りであり、Dr以外に大鵬、三共、呉羽、協和発酵、中外の社長が名を連ねている。


 この研究会の祝辞は愛知県がんセンター名誉総長:今永一、癌研付属病院名誉院長:黒川利雄、国立がんセンター名誉総長:石川七郎、国立病院医療センター名誉総長:小山善之、(財)厚生団常務理事:田中明夫、厚生省健康政策局長:竹中浩治と蒼々たるメンバーである。田中氏は認可当時の厚生省医務局長だった人であり、国立がんセンターに出向中に癌専門医と親しくなったとある。

財団の設立趣旨は学問的な臨床評価を行うこととそれに協賛した5社(大鵬、三共、呉羽、協和発酵、中外製薬)から3億5千万円の基金が拠出されて実現したことが書かれている。




基金の推移は次の通りで先の5社以外に三井製薬、山之内製薬、旭化成が加わっている。


役員は下記の通りで胃手化3pのDrがメインであった。

財団は特定研究1として大鵬が行って評価の定まったフトラフールの投与法に免疫療法剤を追加する胃手化3pの方法とほぼ同じ方法でPSK、ピシバニールの評価をすることを決めた。
この研究が後日効果が得られなかったためその理由を考察して公表したが、呉羽三共、中外はマスコミ対策をしなければならなくなった。この時点では再び医薬品事業部に在籍したのでその対策案を作成することになった。詳細は別項に譲る。


 


 

  21 胃手化3p

免疫賦活剤研究会は胃癌手術の補助化学療法研究会第3次パイロットスタディ(以下胃手化3Pと略す)へ移行していった。

21-1  三社会

 九大2外教授DrIは全国規模の臨床評価研究会を設立すべきと考えていたようで、先んじて全国展開していたフトラフール研究会を基盤にして、免疫療法の臨床効果を検証する研究会の設立をN専務に提案した。しかし九大DrNの反対もあり先ずは九州地区で検討することで話は進み、三共の協力もあって免疫賦活剤研究会が進行していた。

データの重なりを避けるためあるいはデータの大規模化をするため全国規模の研究会にすべきとDrIはフトラフール販売会社である大鵬薬品とも話を付け、呉羽、三共、大鵬の3社が協力して研究会を運営して欲しいと要望した。

三共と呉羽はこの研究会への参加はやむを得ないと考え、対応策を決めなければならなくなり、概ね、窓口は呉羽がメインで三共はサブ。全国を8ブロックに分け、ブロック毎に呉羽三共と大鵬に分け呉羽三共は九州、中国、関東を担当する。データはブロック毎に担当会社が集積し胃癌は大鵬、大腸癌は呉羽三共がコンピューターに入力し解析を行う。データは相互に交換する。などを対応策として大鵬に提案することにした。この研究会は製品を使うため各社が大幅な増収になることをも見込んだ結果でもある。

これらを踏まえ、三社の専務、部長、課長らが集まり(昭和54年3月30日)三社会が開催されいよいよ三社会がスタートした。この会議では呉羽のN専務がDrIの要望を踏まえ、独自の研究会であった九州の免疫賦活剤研究会と中国の研究会が大鵬の研究会と統合することをやむを得ない判断である旨説明し、統合に大鵬もそれを理解して賛成した。Nは呉羽三共で合意した案を大鵬に示し大鵬も概ね賛成した。そこで詳細は実務者で進めることになり、O部長は呉羽の担当をHとAとした。研究費や公表などの話がでたが、呉羽三共の提案した大綱に合意が得られたため、これをもとにしてDrIを訪問し合意案を報告することになった。

同4月2日に三社の専務らが博多に赴き、DrIに三社で合意した研究会について説明した。DrIは免疫賦活剤が中外のピシバニールのところがあるのでよく話し合って欲しいといわれたが、中外から話があればその時点で対応することとして概要は了承され胃癌手術の補助化学療法研究会第3次パイロットスタディが動き出した。

三社会の実務者会議は各社持ち回りでプロトコール、ブロックごとの研究会組織、開催日時、研究費等々を着々と決めていった。私はZとともに九州地区、中国地区、関東地区と呉羽三共地区の実務を担当することになった。しかし私は九州地区が忙しく他地区まで手が回らず、中国はT、関東はZ他全員であたることになったが、私以外はいずれも研究会未経験だったので呉羽メインとはいえ大半三共頼りであった。

三社会を経ていよいよ胃手化3pのプロジェクトが動き始めた。

昭和5459日に胃手化の全国世話人会が開催され、それぞれの地区でそれぞれのプロトコールでそれぞれ担当会社がこの会を進めることになった。


 

 


上記は呉羽三共が担当する地区のプロトコールである。


21-2 胃手化3p九州

免疫賦活剤研究会は名称を胃手化3p九州ブロック研究会と名前を変更することは昭和54年8月の世話人会で了承された。その後は胃手化3pとして研究は進行し昭和55年3月に報告会が開催された。


その中で全国の胃手化3pは着々と進行していることも報告され、その時点での進行状況は下記の通りであった。


私はこの後しばらく三共のKと共にこれらの研究会をフォローしていたが、前にも記したように医薬品部から研究所への転勤辞令が昭和55年に出て6月に東京研究所への転勤しこれらの研究会も表向きは無関係になった。この研究会の呉羽の私の後任はOである。Oは大阪支店から転勤したばかりであり、最初頃頃は東京研究所へ教えを請いに頻繁に出入りしていたがやがて来なくなった。Oとの引継ぎ中の失敗としてDrNから頼まれた銀座の鮨屋の予約をOに依頼してOから予約が取れたとのことでDrNに予約が完了した旨連絡をした。当日DrNがその鮨屋に行ったところ、鮨屋はOの予約はあったがNの名前が無かったので「一見さんお断り」と拒否してしまった。DrNは大事なお客さんを連れていたので烈火のごとく怒った。鮨屋の店長が顛末を聞きその日のうちにお酒1本持ってホテルに謝りに行ったが許されず、翌々日Oと私は九州に飛んで平謝りに謝って怒りを解いた。Oは医者の世界の恐ろしさを初めて経験した。


この研究会はその後学会などで発表を続けたが、私は研究所でのその他の研究で忙しくなったがこの研究会のデータが東京研究所に蓄積されたので、九州と中国は裏で動くことになった。詳細は差し障りがあるので割愛しよう。

胃手化3p九州で活躍した三共のKは平成8年4月に60歳になり定年退職し、グラクソ三共に転籍した。その時に挨拶状と共に、「三共と歩んだ37年-思い出の数々-」と題した小文を頂いた。
その中に

4 PSKの免疫賦活剤研究会

昭和53年から九州大学第2外科教室井口潔教授(九州大学名誉教授、がん集学的治療研究財団理事長)を中心に九州・中国地区で胃癌手術の補助化学療法研究会の第3次Pilot Studyとして免疫賦活剤研究会が組織され、呉羽化学工業株式会社のFさんとその発足の推進にあたらせて頂きました。

この会では胃癌治癒切除症例に対するMMC、5FU、PSKを用いた術後免疫化学療法のrandomized controlled studyが行われ、昭和58年に5年生存率が発表されました。治癒手術症例において3群(1群:化学療法+PSK、2群:化学療法+FT207、3群:化学療法+FT207+PSK)比較ではPSK併用群(第3群)が有意に生存率の向上を認め進行胃癌の治癒切除症例の術後免疫化学療法としては3者の併用は有用であるとされた。(ONCOLOGIA 14:171-180,1985)

免疫療法が見直されつつある現在、顧みてよく頑張ったと思っています。

と記し、苦労の多かった研究会を懐かしんでいた。



  33 医薬学術部 クレスチンが順調に売上げを伸ばしている頃、N専務は今後も新薬が出続けることを期待し、且つK-247の申請が問題になった事もあり、医薬関係の組織として本社に臨床試験を担当する部門が必要だとして精密化学品本部に医薬学術部を昭和58年7月に立ち上げた。 その部員と...