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25 再び東京研究所へ

*豊洲へ引越し

昭和55623日、医薬品部時代から兼任していた東京研究所(CT)の専属になった。

丁度その頃クレスチンで黒字になった会社は東京研究所の建て替えを検討していた。建て替えについては会長や社長がすぐにでも新宿百人町の元の場所で建て替えようとしたが、専務であるYが「相談がなかった」とむくれて、筑波の方に移転すべきと反対したためその対応に長引き、百人町地区の高層ビルの高さ制限が決まってからの建て替え決定となり、高層建築が不可能になってしまった(Yの話)という。すぐ近くのホテルはその制限の前に建築されたので高層ビルとなっていた。

建て替え前の研究所は前に述べたように古色蒼然とした雰囲気があってツタがほぼ全館を覆っていた旧館と、割と新しかった本館があったが、その本館の地下は旧陸軍の毒ガス研究所?といわれ地下4階まであった。

                    玄関

                    本館

 CTに戻った時にはYはクレスチンの成功で若くして「理事」となり、研究所の医薬関係の室長であり、医薬関係の研究員は大幅に増員されていた。私が4年前(昭和46年)にCTに異動してきた時はまだ生化学関係の1グループリーダーで配下は数人だったが、下記のように大所帯となっていた。


          旧東京研究所の玄関前で勢揃いしたYグループ

建て替えに伴う引越し作業が開始されていたので、フリーで戻った私は早速引越作業を担当することになった。

百人町での建替えは一部を残しながら研究を続け次々に建て増しする案と他地に一時移転して一気に新研究所を建てる方法とが検討され、当時の富士銀行グループである大成建設が期間と建築費を計算し、大成建設の旧研究所があった豊洲に移転して期間を短くする方法が採用されていた。

引越しには2週間ほどが予定されており、Yグループは機器や書類等々膨大な量を7月7~9日の3日間で引越した。その頃の豊洲は今と違って大変不便なところ?で新宿までの通勤と比べると、時間が倍増したが、千葉方面からの人達は半減した。

豊洲の研究所の地図

私はここで医薬関係の仕事が再開され、PSK関係では構造解明などが担当であった。しかしながら治験進行中のものに癌治療薬のk-247やK-18があり、先んじていたK-247をも担当することになった。K-247はクレスチンの構造研究の中から生まれたものでもあったためでもある。クレスチン関係の仕事は医薬品部からの要請で相変わらず出張が多く、やがてK-247も忙しくなり仕事が終わると連日のように銀座、新宿、六本木あたりで飲み食いし、タクシーで帰宅するような生活になった。医薬品部時代の情報蓄積がそちらでは役立ったが翌日は6時に起き7時に家を出て研究所に通わねばならず体力を消耗した。我々は定刻に出勤したが、Yは朝電話があり○○ドクターのところに寄って?から行くとゆっくり出勤することもあった。疲れているのは皆一緒だったのになあ・・・。

*新研究所へ



新研究所は豊洲移転の1年5ヶ月後の昭和57年2月に完成し、2月27日に開所式があり、約150人が参列した。「クレスチンの開発を契機として、医薬・医用機器・医用材料など生化学分野へ総力を傾注する体制を整え、研究開発機能をさらに拡充するために実現されたものである」との記載がある(時報より)。


3月5日から4日かけて新CTに医薬研は引越した。この時も徹夜など含め大変な作業だった。

 その後私が関係した医薬関係の研究については別項を設けるが残念ながら全てがお蔵入りとなったものである。

 

*研究体制の推移

念のため当時の研究所の体制の推移を社史から引用しよう(社史p439~)

東京研究所の再編
 
呉羽化学の経営方針は,高橋社長のもとで, 1977 (昭和52 )年前後から製品の品質特性に乏しい素材型の製品よりも,呉羽化学の独自の技術やノウハウを体現した高付加価値製品を重点指向する方針へと転換した。汎用樹脂である塩化ビニルの場合には,今日でも厳密な意味では各社の製品にそれぞれの特徴があることは事実であるが,加工技術の進歩に従ってコモディティ(標準品)化した。標準製品においては価格が競争の焦点となる。価格を決める最大の要素は,生産の規模と生産プロセスの効率性であり, 60年代後半から70年代前半にかけて,呉羽化学はナフサ分解, 原油分解をはじめとする原料生産のためのプロセス開発に重点をおいて研究開発活動を展開した。これに対して,高付加価値製品の場合には,市場においてまず品質に優秀性・独自性が問われ,次いで価格が問題となる。したがって,この種の製品を重点指向するためには,研究開発活動の重点を,生産プロセスの開発から新製品ないし新市場の開発に移さなければならない。さらに,呉羽化学においては,この付加価値路線は,従来の市場基盤である化学品とは異質の医薬品クレスチンによって先導される形となったので,医薬品の本格的な研究開発体制の整備を急がねばならない状况にあった。

このような研究開発体制の再編成は, 1976年10月の東京研究所の組織改正から始まった。すなわち,東京研究所の生化学班は各種の添加剤や防腐剤の毒性研究などを目的として設けられたものであったが,この班を発展的に解消して医薬研究室が設けられ,他の部門も化学研究室,探索研究室,管理室へと再編成されたのである。これによって,呉羽化学の医薬関連の研究開発体制は,独立した組織となった。新設された医薬研究室の当面の主要な活動は,クレスチンの製造承認申請関係であった。

次いで1978年6月に,東京研究所の研究組織はもつばら生化学分野の研究開発に従事する体制に改められた。新しい研究組織は,探索研究室,医薬研究室,医用材料研究室,生化学研究室および管理室によって構成されることとなった。各研究室では,いわは義務として研究を進めなければならないテーマのほかに,研究者の話し合いのなかから自発的に設定したテーマの2種類の研究が実施できる体制がとられた。多様な医薬関係の研究テーマのなかでは,今日のクレメジンとなる経ロ活性炭について毒性試験が開始され,初期臨床試験の段階に近づいていた。

このように東京研究所が生化学分野の研究所として生まれ変わっていく過程では必然的に,次の2つの問題が生じた。第1は,東京研究所を人の面でも施設の面でも,今後実施が予想されるGLP (Good Laboratory Practice)レベルの研究機関として整備することであり、第2には,東京研究所,錦研究所,食品研究所との3 者間の関係を全社的な観点から再構築するという問題である。東京研究所は1980年頃までに, 150人を超えるスタッフを擁し,化学工業としては有数の規模を備えるに至っていた。しかし,建屋は古く,設備についてもまだ未整備な面があったので, 79年末に研究体制の飛躍を目指して,建物の全面的な建替計画が決定された。この計画に従って, 80年5月から古い建物の解体工事が始まり,予定どおり82年2月に竣工した。なお,この間,東京研究所のスタッフは江東区豊洲の大成建設の旧研究所を借りて研究を続けていた。

研究開発組織の再構築

次に,全社的な研究開発体制の再構築については, 1981 (昭和56 )年6月に全社的な組織改正の一環として,研究所についても大幅な組織改正が実施された。全社的な組織改正は,塩化ビニルおよびソーダ事業の構造改善を想定したものであり, その焦点の1つは,従来,化学品本部と合成樹脂本部で担当してきた塩化ビニル樹脂とソーダ製品の営業活動を,基礎化学品本部に統合したことにあった。このような既存製品と新製品の営業体制の再編成に対応する形で,研究所のあり方も見直されたのである。
すなわち,従来の呉羽化学の研究開発活動は,それまでは研究開発本部のもとに医薬・生化学分野を担当する東京研究所,既存製品の改良とともに新プロセスの開発や部分的には新製品の開発も担当する錦研究所,食品包装関連の技術開発と技術サービスを担当する食品研究所を配置して実施されてきた。これに対して新体制では,開発本部のもとに東京研究所と従来の錦研究所の一部を独立させた開発研究所を設置して,新製品の開発を担当させ,技術本部のもとに錦研究所,プロセス開発研究所および食品研究所を設置して,それぞれ既存製品関連の研究とその生産工程の開発・改良研究などを担当させた。さらに加工研究所を独立させて,樹脂製品関連の研究開発および関係会社の技術開発や指導に当たらせるというものであった。開発本部にはまた,これより先, 1975年に生化学調査部が設置されて,コンピュータを用いたドラッグデザインの研究など,新しいタイプの研究・調査活動が始まった。

研究開発活動と営業部門との橋渡しの役割については,従来の開発製品本部に代わって,新分野の製品については開発本部の開発企画部が東京研究所や開発研究所を支援し,既存製品関係については各営業本部の開発部が錦研究所をサポートすることとされた。

このような多岐にわたる本部や研究所の活動を総合的に管理し連絡調整する機構として,研究審議会が設けられた。研究審議会は企画室,技術本部および開発本部の主催によって定期的に開催され,トップが出席して,各研究所長の活動状況報告に基づいて現状を正確に把握したうえで,将来の方向づけを検討するための会議である。

呉羽化学においては,若い研究者の育成が研究所の重要な役割であった。このため研究者の養成過程で形成される人的関係が,研究開発活動そのものばかりでなく, 研究開発から生産や営業部門への移行過程にまで持ち込まれる傾向が見られた。しかし,この時期になると, 一方で自然科学の分野では大学院レベルの教育が普及して以上以上の教育を終えて人社するスタッフが増加し,他方で呉羽化学の規模が拡大し,事業領域も広がってきたので,研究開発活動についてもより組織化された体制に向かわざるを得なくなった。

このような経営戦略の変化や研究開発のための組織機構の再編成が進められるに従って,研究開発活動自体の内容にも少なからぬ変化が生じた。そうした変化を示す1つの資料として,この時期の技術分野別の特許出願件数の推移をたどると,表 5-17のようになる。(表は略)

クレスチンの発売前の1976年以前において最も多く出願された分野は,原油の高温水蒸気分解から副生する.タール・ピッチを利用したオイル,炭素製品等の石油関連であり,弗化ビニリデン樹脂を利用した圧電・焦電素子などの分野と排煙脱硫等の環境システムがこれに続いている。さらに,クレハロンフィルムおよび包装機械 (KAP)を中心とした食品包装関係と,当時の呉羽化学が水銀法の隔膜転換という差し迫った間題に直面した電解関係が続いている。新規分野として,排煙脱硫技術の開発とその販売に大きな期待が寄せられていたことがうかがえる。

BTAを含む塩化ピニルや塩化ビニリデンの重合技術は,依然として重要な研究テーマとなっているが,塩化ビニルモノマー関係の研究はまったく姿を消した。原油の高温水蒸気分解の技術に直接連なる分野として,重質油分解・アスファルト分解が残ってはいるが,その位置は大きく低下した。

このような特許出願の分布は, 1978年を境に一変している。電解関係ではイオン交換膜法の自社開発が断念されたため,研究開発活動は以降は低調に推移することとなった。排煙脱硫技術についても,期待したはどの成果はあがらなかった。特許とは関係ないが,かねてからUCC社および千代田化工建設と共同で進めてきた重質油分解技術の開発研究(ACR計画)は, 79年8月にデモプラントの運転が開始された。このデモプラントによる研究も80年末に成功裡に終了したが, ACR技術の企業化の可能性はほとんどないと判断され,この計画も休眠状態に入った。

これに対して,医薬品・医療分野の出願件数が一気に増加したのは,クレスチンの周辺を固めるための措置によるところが大きいと思われるが,東京研究所がSN関連から医薬品・医療分野の研究に転換した結果といえる。また,高付加価値製品の開発をめざすという経営方針が打ち出されたのに伴って,コラーゲンなどの天然ポリマー,弗化ピニリデン樹脂,圧電・焦電素子の用途開発,石油化学関連の炭素繊維や活性炭,塩化ビニリデン樹脂を利用した多層食品包装材料などの研究が活発化したことが明らかである。こうして,呉羽化学における研究開発活動は,しだいに新しい分野に重点を移していったのてある。


研究開発活動への投資

製造業企業の投融資活動の中心は,通常は生産設備への投資や,関係会社への投資である。しかし, 1970年代後半から80年代初頭にかけての呉羽化学の投融資活動の特徴の1つは,ポストクレスチンの時代を担う高付加価値新褜品の開発という経営方針に従って,研究開発関連の設備に積枷的に投資したことである。設備投資額に占める研究設備への投資額のシェアは,出来高べースでは1978 (昭和53 )年度には12.2 % , 85年度には25.8 %に達している。研究開発重視の政策は,費用の面からも裏付けられる。表5一18に示し(表は略)たように 売上高に対する研究開発費の割合は, 80 年前後には5 %を超え, 84年度には7 %に達した。売上高規模で呉羽化学と同程度の企業で当時これだけの資金を研究開発活動に投下した企業は,わが国では数少なかったのではないかと思われる。

この時期の研究開発活動は,従来とは異なった分野に広がり,きわめて多様化したが,その重点は大きく分けると次の3つの分野に集中していた。すなわち,クレスチンの開発によって新たに開かれた医薬と,ラブサイド以来蓄積のある農薬など生化学分野,クレハロンフィルムで強固な基盤を有する食品包装を中心とする包装材料の分野,弗化ビニリデン樹脂や炭素繊維などで経験を有する高機能・複合材料の分野である。つまり, 一方ではこれまでの技術的蓄積を踏まえ,他方では将米の事業展開の方向を考えて,早期に研究開発活動の成果を期待できる可能性の高い分野へと,スタッフと資金を集中的に投人したのである。具体的な研究開発活動では, その進展に見るべきものがあった。生化学分野では,活性炭を利用した慢性腎不全用剤など各種の医薬品や新農薬の開発が進んだ。高機能枴料・複合材料の分野では, PPS樹脂や各種電子材料,また食品包装の分野では,各種複合フィルムの開発で研究成果が上がった。これらはいすれも,技術的にみても,経済的な観点からも,かなりの事業規模を持った新製品につながる可能性を秘めていた。

しばしば,「技術の呉羽」と呼ばれるように,呉羽化学の研究開発は産業界では高く評価されているし,その成果は大いに誇るべきものがあった。こうした伝統に支えられて,大量のスタッフと資金を投入することができたのであり,またスタッフの意欲も旺盛で水準も高く,経営首脳をはじめ社内からの期待も大きい。これは研究開発活動にとって,きわめて恵まれた環境である。しかし,呉羽化学の研究開発の成功例は,クレスチンのケースに典型的に見られるように,長期にわたる地道な研究活動に加えて,多くの幸運にも恵まれた結果であった。この時期の研究開発活動から,大型商品や画期的新製品を生み出すことは,次の時代への課題として残されたのである。


社史では研究体制があってクレスチンが開発されたようになっているが、個人的には相当違和感が残る。



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