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16 薬価申請など

医薬品部での仕事はいろいろあったが、記憶に残る仕事を顧みる。

*薬価申請

承認された医療用医薬品(PSK該当)が実際に医療で使われるためには、医療保険の適用が必要でありこれが「薬価基準」である。これに収載されないとその医薬品を使っても保険請求が出来ないので、薬の価格を申請して「薬価」が決定される。

製造費から販促費等を上乗せして売価を決める一般の商品とは異なり、お上の承認が必要で、年に1回か2回?に「薬価基準」に登載されて発売許可となるシステムであった。薬価が幾らにつくかは当然利益に大きく影響するので重要な作業である。

当時の薬価の申請は厚生省薬務局の経済課に申請する。すでに三共への販売委託が決まっており、三共の医薬情報部の助言を受けられたので、承認申請の時に経験したような苦労は少なかった。  

PSKの薬価申請当時の薬価算定方式は製造承認された新薬(PSK)と既収載品と 
①効能・効果が似ている 
②薬理作用が類似している 
③化学構造式が類似している 
医薬品を、薬価算定の比較対象品に選定する。次いで、1日用量、1クールあたりの薬価にて新薬の薬価を決めるいわゆる類似薬効比較方式であった。(日薬連50年史:平成11年3月、日本製薬団体連合会、p-37。その後薬価算定が種々変遷するがここでは割愛する。) 
PSKの薬価を申請するに当り当然高い薬価を付けられるように当時の抗悪性腫瘍剤から薬価の高い医薬品を類似薬効比較薬剤として選抜するのは企業としては当然である。
薬価の高い制がん剤を探し、その中から1974年薬価収載のフトラフールと1975年薬価収載のピシバニールに着目しその比較検討を行った。

経口剤であること、効能効果が似通っていることを理由にフトラフールの薬価を参考にして一日薬価を基準として4600円/日(1200円/1g)前後を申請した。フトラフールはソ連からの導入品であり、外交問題もあって(1956年日ソ共同宣言、1973年田中総理訪ソなど)相当高い薬価が付いていたこともPSKにとってはラッキーであった。

薬価の申請を行うと薬務局経済課の学術ヒアリングが行われるが、実際の薬価を決めるのは保険局医療課である。そこで経済課が医療課にいかに説明しやすい資料を作成してくれるかで薬価が決まるので企業にとってはこのヒアリングが薬価を左右すると言って良い。医療課は日本医師会の薬価委員会に諮って了承を得られれば薬価が決まる。

昭和51年10月20日に厚生省薬務局の経済課に薬価メモを提出し、翌年1月28日にヒアリングが行われた。三共の薬価担当者と呉羽の医薬品部と東京研究所から出席し、担当のT氏とN氏からの質問に答えた。クレスチンの基礎から臨床に至る多数の質疑応答があったが、フトラフールを選んだ根拠がもっと明確になれば問題は無いのだが、何しろ制がん剤の売り上げが伸びているからなーということだったが無事終了した。 問題が無ければ5月1日頃収載になるだろうが遅れる場合は連絡するとのことだった。この質疑応答をもとに医療課への資料を作成し説明して貰ったと思われる。医療課から医師会の薬価委員会へ説明が行われた。日本医師会雑誌第77巻第10号(昭和52年5月15日号)p-1290~にクレスチンの薬価申請に対する審議の様子が載っている。


見にくいのでこの内容の概略を述べよう。
中村技官(医療課の担当者か?)がクレスチンについての基礎及び臨床の概要を説明した後、「経口投与という利点もありまして、このものはは進行癌の化学療法に対しても有効な薬であろうと言うことで承認されたものです」と審議を求めると、井上委員が「今までの問題の繰り返しだが」とことわって「適応のところで、頭頸癌の臨床データが全くない。それは専門家が入っておらんからですね。これは業者がこれだけでやるとまた金がかかるからやらなかったのか、あるいは、今からおいおい追加していくのか。(中略)フトラフールの場合もそうだったですね。この前、私注文つけたんですが、あとから症例を追加して、頭頸部の患者ついても効能効果を追加させましょうということをおっしゃていただいたんですがいまだにこれが出てきておりません。したがいまして、そういうときは正しく行政指導をなされるようにお願いしたいんです。」(中略)
永井委員もペニシリンを例にあげて、保険では使えないのがいっぱいあると応援し、井上委員は症例の少ない症例を保険で使えるようになるよう行政指導するようにお願いしている。浅野委員長が「このクレスチンは全科にわたり、また先般世界的にも問題になってたおったわけですが、他の方々どなたか御発言ございますか」
と質問すると五島委員が「確かに副作用は無いし、飲みやすいという点でいいですから、ぜひ早く使いたい。」
と発言した。再び症例の少ない癌腫を何とかしなきゃという議論に戻った後、永井委員が「早く売りたいものだから、薬屋はまずとりあえずというやつだよ。あと追加しやしない。少ないやつは。」とまとめ、浅野委員長「ほかによろしゅうございますか。ぜひこれは早く出して頂きたいという結論でございますが、効能効果これでよろしゅうございますね」と締めくくり、井上委員の「不足ですが、しょうがありません」で終わっている。この結果を受けて薬価収載が承認されている。

医薬品部での主な担当は私とZであった。交渉の結果1166.20円/1gという高い薬価が付いた。この薬価は当時の金の1グラムあたりの価格とほぼ同一で、あるドクターなどはPSK飲むより「金」飲んだ方が効くのではないかと冗談を言われたことがある。

この薬価は結果的にはクレスチンバブルと言われた呉羽のバブルの始まりとなった。


当時、新薬の薬価の収載時期についてはルールがなく不定期であり、昭和50年代には自民党社会部会にて年2回、収載することは定められたが必ずしも実施はされなかった。(日薬連50年史:平成11年3月、日本製薬団体連合会、p-39)

 既収載品の薬価算定方式と薬価改定については日薬連50年史によれば、「昭和42年以降は取引件数の多い医薬品については90%バルクライン方式にて、また取引件数の少ない医薬品については同種同効薬の薬価改定率にて薬価算定され、薬価改訂が実施されてきた。その結果種々の薬価算定方式を受けながら薬価は次々に低下して行った」とある。

(昭和53年2月1日△5.8%、昭和56年6月1日△18.6%、昭和58年1月1日△4.9%、昭和59年3月1日△16.6%、昭和60年3月1日△6.0%、昭和61年4月1日△5.1%、昭和63年4月1日△10.2%、平成元年4月1日+2.4%(消費税導入、全面改定)、平成2年4月1日△9.2%、平成4年4月1日△8.1%、平成6年4月1日△6.6%、平成8年4月1日△6.8%、平成9年4月1日△3.0%(消費税引上げ)、平成10年4月1日△9.7%)と続落している。

調整品目といわれて薬価が下がったこともある。
これは「薬価算定方式等に関する中医協答申」(昭和57年9月18日)により、薬価改定での薬価引き下げに該当しない医薬品であっても、再審査期間が終了し、競争がない寡占市場を形成しているとして、免疫療法抗がん剤等(昭和59年3月~昭和63年4月)が適用されて薬価が見直された(日薬連50年史p-48)とありPSKもこれにより見直された。

 三共は90%バルクライン方式で薬価が下がると利益が減少するので、病院からの薬価交渉でも強気で押し通し薬価が下がらないよう懸命に努力していたので、下記のように薬価の減少は少なくて済んだようだ。これは又呉羽にとっても利益確保に大いに役立った。途中で薬価がこれ以上下がると呉羽が潰れるからと薬価交渉で泣きついたこともあったが、あまりに売れすぎていたため健保財政が悪くなり当時の大蔵省から睨まれて「呉羽の一つや二つ潰れるなら潰してしまえ」と言われたらしい。このあたりから早く「ゾロ」を出させてクレスチンを使わせないようにとの雰囲気が出てきた。ゾロについては別項で述べる。ゾロの認可にもかかわらずそれほど薬価は下がらなかったが再評価により売り上げは激減した。


  *クレスチン発売準備

昭和52年5月2日に薬価が収載されたがその前の4月23日に三共はクレスチンを紹介するため全国の医薬品卸売業者を集めて東京プリンスホテルで大講演会を開催した。呉羽から社長と専務、部長と私が招待された。三共の大勢の参加者や卸の社長へ今後のことも考え名刺をばらまいたのを覚えている。また、立食パーティーの豪華さには驚くばかりであった。いよいよ発売が間近に迫った。 

                   案内状


当日のプログラム(そうそうたるドクター達)

呉羽の参加者(社長、専務、部長と私)

 

三共へのクレスチンの納入は壬生分工場で作られた製品が初納入である。その時の写真をWさんから頂いた。製品とそれを祝って送り出す従業員の人たちの写真である。
          
          





          

出荷当時のクレスチンの包装状況と製品は下記の通りであり、これが細粒に変るのは私が呉羽を退職した後のことである。飲みにくくもあり、この薬を飲んでいる人は「癌患者」とすぐ分かると評判は芳しくなかった(近藤啓太郎:微笑参照)。






 *クレスチン販売 
薬価収載と共に一斉に全国発売となった。当時のパンフレットを紹介しておこう。

               昭和52年3月とある





*クレスチンの売上

年度

売上(億円)

薬価(g)

備考

昭和52年

113

1166.20

5/2PSK発売

昭和53年

321

1141.90

 

昭和54年

431

 

昭和55年

519

 

昭和56年

450

1084.80

丸山ワクチン承認問題

昭和57年

485

 

昭和58年

510

 

昭和59年

515

1030.60

 

昭和60年

515

991.40

草川議員質問趣意書

昭和61年

530

 

昭和62年

515

再評価指定

昭和63年

490

960.70

ゾロ品上市

平成元年

350

983.80

再評価12月

平成2年

135

886.40

 

平成3年

125

 

平成4年

110

 

平成5年

95

 

平成6年

91

869.30

 

平成7年

82

 

平成8年

69

824.70

 

平成9年

60

791.00

 

平成10年

52

 

  国際医薬品情報1994.3.14等より 

  別冊ファインケミカル臨時増刊「制がん剤の最新事情」1981.11.16より

  平成18年3月期46億円、平成19年3月期37億円(製薬企業資料より三共の販売高)


 全制癌剤の売上は昭和51年度約600億円であったものが、昭和52年にクレスチンの登場に刺激され、フトラフール、ピシバニールの伸びも大きく、昭和55年度には約1800億円と5年間に約3倍の伸びを示した(別冊ファインケミカル臨時増刊「制がん剤の最新事情」1981.11.16より)とある。

クレスチンは平成元年の再評価後売り上げは急下降したが、上記のように平成10年までの総売上は6500億円を越えている。これ以降の平成29年3月31日に販売終了に至るまでの販売高は把握していないがそれほど増加してはいないと思われる。それでもPSK承認時に次の研究所の開発目標が最低売り上げ30億円以上を目指すとされた目標よりしばらくは上であった。退職した頃(平成12年)も30億円以上だったと記憶している。





  

 15 医薬品部へ

15-1  残業100時間越え 
 

・PSK承認の目処もつき申請作業がほぼ終了しつつあった頃、今後の自分の仕事はどうなるのか考えた。一つ目は錦研究所に戻って応用微生物研究に戻れるのか、二つ目は東京研究所でその後も研究を続けられるかである。東京での生活は文化や賑わいが「いわき」とは全くレベルが違うことは明らかであり、薬学出身なので出来ればこのまま東京研究所に残り医薬品関係の研究を続けたいと思った。錦研究所所長の有り難い申し出であった「しばらく不要な家具は工場で預かって貰えうように手配するよ」が実現できず家具を移動先へと全て持ち歩いていたこともあったので、錦工場より東京研究所を選ぼうと思った。そこで先ず家を都内に買うことを考えた(都内に自宅があれば転勤はないか転勤があったとしても、しばらくたったら東京勤務になるだろうとの姑息手段であるーーその頃、噂では東京に自宅を構えたら錦工場に転勤させられるという現象もあったやに聞いていたが)。

・申請作業の時は組合員だったので残業代がつき、それも毎月100時間を超える残業で(会社は当時利益が出ず残業は厳しく規制されていたが、石油関係研究の連中は残業無制限になっていたので、Yは自分たちも残業制限は無視してかまわないだろういとのことで全ての残業を申請するように指導していた)、毎月給料が倍近くあるようなもので、且つ残業が100時間超ということはほとんど会社にいるような状態で外出する費用もかからなかった(CT裏の社宅でもあり、休みはひたすら睡眠不足を補った)ので家の頭金の一部ぐらいがあっと言う間にたまった。医薬品部に異動してまもなく非組合員になった時、残業代がつかなくなり、この収入レベルに戻るまで数年かかった?記憶がある。もうしばらく組合員でいたら(その後の医薬品部の頃の激務からみて)会社から借りた金の返済は楽だったかも知れないが、現在では考えられない残業だった。インサイダー取引と思われる株売買の利益も当然建築費に役立った。

 

・家を建てることを報告して東京研究所残留をYに希望した。彼は工場の研究所か東京研究所の2択だが、PSKの承認がおりたしそれへの貢献も高かったので、東京研究所勤務を継続できるように努力するとのことだった。しかしながら実際には本社に新たに出来る医薬品部に異動辞令が出た(1976年10月1日付け)。噂によればY本人かそれに準じるものを異動させろと言われ自分は研究したいので私を出すことで手を打ったとのことであった。このあたりはやはり外様は外様ということなのかと当時は思ったものだ。私の東京研究所での仕事は研究ではなく申請作業が主だったし「ガン」について深く勉強する時間もとれず、ドクターとの接触も少なかったし、臨床データを集めた経験も浅かったので、Yの代わりになるほどの役に立つはずはないと思ったが、そんなことには関係なく辞令は出た。ただ、私の要望で東京研究所との兼務にしてくれとの頼みが認められたことは、不幸中の幸いだった。この兼務辞令が3年半後に医薬品部を解職されたときの異動先として役に立った。錦研究所への異動を強くお願いしてそれがかなっていたら私のその後の人生はどう変ったかと思うこともあったが。

 

15-2   医薬品部へ 
 
PSK承認2ヶ月後の1976年10月1日に職制の一部改正があり、本社に「医薬品部」、錦工場に「医薬部」が新設された。また、東京研究所壬生分室は錦工場長直轄の壬生分工場になった。

             呉羽時報(1976/11)より

 

医薬品部は本社ビル(日本橋堀留町)に出来たので、私は新宿の研究所からいつもは本社ビルにいることになった。 
           

                当時の本社ビル 

医薬品部は化学品本部長根津の管轄下に、化学品本部副本部長兼医薬品部長大平、主査前田(前輸出部長)主査宗像(化学品技術部1課長兼務)。部員綾木、頭師(2人共前化学製品課)、CT兼務の私と他課兼務の女性2人で発足した。しかし大平は根津(東大農学部卒)より年配であり同じ東大でも工学部卒だったので根津は大平を煙たがったようだ。

本部長席の後方に小さな会議室があり殆ど毎週のように根津主催の会議が行われ、細かい質問や指示が出され、部長の出る幕は少なかった。部長は陰で「あんな細かいことを聞くのではなくて、常務らしく大所高所からの意見、指示をすべきだ」と言っていた。

発足日の根津主催の会議では医薬品部の仕事として

・三共との連絡

・役所対策

・海外対策

・ドクターとの連絡

・他部との連絡

・商標、特許関係

・宝酒造との連絡

等が示され、発売に向かって支障の無いように全力を上げるようにと指示された。

この席で本部長の方針の根幹は「医薬品部はドクターの財布たれ」であり、接待やゴルフは日常茶飯事であるので、交際費の大幅な増額を要求したとのことであり、この方針は異動して来る人への土産話のようで、ゴルフし放題につられて異動してきたが期待外れに終わったと嘆いた人が多かったようだ。                 

 この打ち合わせ後は本社裏の「寿司英」で会食後、銀座へと出向いた。これは接待出来る店を紹介するとともに、接待になれさせ「財布たれ」の練習も兼ねたようだった。このような表に出せない接待などもあり、それは裏帳簿で管理させた。このような接待を覚えさせたことはその後の私の人生に大きく影響した。 

こぼれ話としては根津が行く銀座の店では「カティーサーク」をマイボトルとして入れていたのに、大平は「オールドパー」を入れやがってと非難したとの話を聞いた。大平は三共の常務に招待されて行ったお店に置いてあったのが「オールドパー」だったので、別な機会に行ったときにやむを得ず「オールドパー」を入れたらしいのだが。 このような接待に関するこぼれ話は山のようにあるので、その時々の項で書くことにしよう。

                   夜の銀座

 個人タクシーの券は一冊貰い連日のごとく深夜タクシーで帰宅したが、自宅までの1時間は睡眠のみであった。

 

発足当時の医薬品部の仕事として新任のメンバーから推察されたのはPSKの海外進出がメインの仕事のように見えた。大平は元ニューヨーク駐在所長だったし、前田もそうだった。宗像も留学経験者だった。

その後国内の仕事(三共販促の手伝いなど)が大幅に増え、且つ海外展開が難しくなり、国内用の仕事のため次々と人事異動が行われた。1976年11月に農薬課から林、1977年3月に新入女子社員の岡本、1978年6月に農薬課長だった平木が主査で、化学製品課の鴫原(1年後に海外留学)が異動してきた。

驚いたことに2年半後の1979年5月に大平部長に替わりデュッセルドルフ駐在所所長の羽生田が医薬品部長として異動してきた。この人事はまだ海外展開を計るのかと思わせたが、根津が大平を煙たがっており交代させたと思われた。同6月に私以外に唯一の技術系の宗像が錦商事に転籍となると同時に、岡田が大阪支店から、富樫が農薬課から異動してきた。1979年9月には前田も海外開発部に異動となり海外展開は結局頓挫した。1980年1月電算室の小迫が研究会のデータ解析を主務として異動してきた。

私は1980年6月に医薬品部を解職され兼務していた東京研究所のみの仕事に戻った。医薬品部在職は3年半に及んだが、3年半で部長以下男性6人で発足した医薬品部は男性8人と二人増えたのみで、新設部門のため試行錯誤はあったとしても異動の激しい部であった。解職されたとき「君は三共からの評判があまり良くない」と言われたが、私が三共の担当者に聞いていたところでは他の部員の悪い噂が多かったので、少し驚いた。確かに我々は医薬品の業界については知らないことが多かったし、PSKについて三共やドクター からの質問に殆ど答えられなかった。私も心配したとおり、実験手法の詳しいことは殆ど説明できなかったので、Yに頼んでCTから専門家を連れてドクターを訪問した。きちんとPSKやガンや業界の勉強をしてから活動すべきだったと反省した。羽生田部長からは「何も分からないで部長になったので、君の異動を止められなかったが、しばらく経ったらまた戻ってくるよう依頼するつもりなのでそのつもりでいてくれ」と言われた。確かにしばらくして研究所に誰か医薬品部に出してくれとの依頼があり、Yは今度は同期のOを推薦した。彼も申請作業は出来なかったが、留学するまではPSKの研究をしていたし、私を不要としたからには他を出さざるを 得ないと言っていた。このあたりから少し医薬品部と東京研究所の関係に不協和音が生じることとなったようだ。

東京研究所に戻ってPSK関係で医薬品部や三共を手助けしていたが、三共の営業部長(呉羽との窓口)から「ある支店でPSKの大事なドクターとの関係をしくじったので助けてくれ」と頼まれ、偶然以前から担当したドクターだったので訪問して努力した結果無事に解決した。その時その支店の支店長が「以前会ったときにあなたの態度が気に入らなかったので、三共本社にあなたのドクターや三共への対応が悪いと告げ口した。その後医薬品部を異動させられたと聞いた。あなたのやり方であの難しいドクターとの関係が元に戻り、あの告げ口が間違いだったとわかり、告げ口が原因で異動させられたとしたら大変申し訳ないことをしたと反省している」と異動の一因を教えてくれた。

その結果技術系が誰一人のいない全員営業の医薬品部になったため(社長研修会で技術系がいなくなっても大丈夫なのかと聞かれたが、皆さん勉強家なので大丈夫でしょうと答えた。これは異動内示後の研修会だったし研究所に戻れたのでゴマをすったのだが、羽生田部長からは心配だと聞いていたし、本当は大丈夫とは思わなかった。)研究会などのフォローが殆ど出来なくて三共と東京研究所に「おんぶにだっこ」となった。この頃はPSKの売り上げはうなぎ登りであり(まだ、明確なNY戦争も起こっておらず)、同床異夢の世界を楽しんだが、私の人生にはその後も色々なことが起こった。

医薬品部にいたとき担当した仕事については項を改めることにする。


 


 

 

14 呉羽時報より

私がPSKに関わったのは1973年9月(昭和48年)であるがその頃の呉羽は激動の時代であった。時報からそのあたりを振り返っておこう。 
 
1972年4月1日号の臨時号で
「従業員の皆様へ 当社の現状と今後の方針について」と題した荒木社長の決意が述べられている。その中で「現在当社は創業以来の苦境に陥っています」から始り化学工業界の不況の現状とその原因を記し、会社は「幸い今後に大きな期待が持たれる多くの新技術の芽がある」とし、「石油化学関係を上げ更に医薬品などのファインケミカル部門も期待される」と記した。「これらが開花するまで会社の体力を持たせなければならないので、拡販、合理化、資源処分も辞さない方針であり、全社的努力が必要である。配当を6%に減配したが実態はこの配当の維持すら容易ではないが、無配会社は脱落会社と評価され多大の支障が予想されるので外に対しては6%配当を維持したい方針である。非常事態にあたり会社の方針と決意を披瀝し、皆さんのご理解とご協力をお願いする次第である」と悲壮な決意を表明し、10項目の方針(略)を掲げている。 
 
この段階ではPSKの開発はまだ「新しい芽」であり、それほど期待されてはいない。
              呉羽時報1972年4月増刊号


ここまで財政が悪化したのには化学工業界の構造的な不況やドルショックだけではなく、当社が社運をかけて推進していた石油関係事業の行き詰まりがある。社史によれば分社化していた呉羽石油化学は石油プラントの操業が安定せず多額の追加投資やつなぎ資金を必要とし、呉羽化学は多額の融資をし、その結果呉羽化学の借入金残高が急増し、事態は容易ならざるところまで来ていた。そこで1973年初頭に呉羽石油化学を財務的に根本的に再編成することになり、4件の具体的方策をたて4月からこの方策を実施していった。その結果ある程度の資金が調達され「SN財務対策」は一応目的を達し、「呉羽石油化学」は1973年7月に解散となり、同年5月に設立した「呉羽油化」と7月に設立された「太洋化研」がその事業を引き継いだ。この「SN財務対策」がほぼ予定どおりに完了した1973年11月荒木社長は会長になり、高橋社長が誕生した。PSKの後ろ盾だった大塚副社長は取締役相談役に退き呉羽プラスチックの社長に就任した。


その頃東京研究所長はGからY(通産省から1970年6月に入社し、本社の調査開発部長になった。通産省の研究費を呉羽に与えることを決めたと言われた)に替わり、本社営業本部長室長の事務系のFが副所長になってCT副所長はUとHを含めて3人に増えている。FはCTの労働運動対策ではないかと言われたが真偽不明である。1972/6/21


PSK関係の記事が呉羽時報に掲載されたのは多分壬生分室発足(1972/8/21)の記事が初めてではないかと思われる。

                呉羽時報1972年9月号


申請の頃の社内のPSKへの期待感?を示す呉羽時報からの様子も述べておこう。

              
               呉羽時報1975年4月号
「時報引用」
1975年1月28日、日経・サンケイ・赤旗の各新聞で当社の”PSK”について報じられてから俄然”PSK”は世間の注目去れ始めました。内容は第5回高松宮妃癌研究基金国際シンポジウムにおいて、癌研化学療法センター塚越基礎部長が、ガンの治療にサルノコシカケから抽出培養したPSKを使って、人間が本来持っている免疫から強化してがんの増殖を防ぐ可能性が出てきたこと、更に、PSKは呉羽化学が開発し全国指定病院で臨床実験を2年以上しており、年内に製造販売の許可申請をするとの発表を行ったことです。[中略]
S48年の制がん剤の全国の売り上げは71億円で医薬品総額13,637億円の10.5%にすぎません(抗生物質など一品目でも全制がん剤の販売金額より上まわるものは数多くあります)。PSKが医薬品として発売されたとしても、企業ベースでどの程度寄与されるものであるかは現在未確定ではありますが出来るだけ早く認可をとり早く呉羽化学の柱と成り得るよう、又多くの需要者の期待に添いうるよう努力して行きたいと思います。今後の問題としてPSKの販売方法など問題含みではありますが皆様の御意見御協力を期待しております。


          高松宮妃癌研究基金国際シンポジウムでの発表

 

この頃はまだ申請準備中であったが、ようやく社内で関心が出てきたと思われるが新聞のニュースが先で、発売されたとしてもどの程度会社に寄与するのか?と疑問を呈している。 
 
同じ号に連載中であった「われらの職場」にCT壬生分室も取り上げられているのは関心が広がっていると感じさせる。

その頃の呉羽の決算を見てみよう。昭和50年度の決算報告が時報の1976年6月号に載った。

解説の中で、「50年度の決算の特徴は限界利益率の低下により収益低下を経理処理委の変更と補修費等の固定費の思い切った節減圧縮により生み出したものである」とし、売上高546億円、経常利益が9億7千5百万円に対し試験研究費の繰り延べが12億2千5百万円もあると述べている。また、借入金がどんどん膨らみ前年度100億円も増えており自己資本率が低下し、企業体質の弱体化が進んでいるとし、1972年の荒木社長の決意にも関わらず業績は好転していない。


その後PSKに関する時報の記事はしばらく無く、PSKが承認された次の月(1976年9月号)に突然三共との販売提携の記事が出る。

                              


更に翌10月号には「クレスチン 制がん剤分野の概要:製造承認に当たって 化学製品課」の表題で数ページに渡って紹介された。承認後2ヶ月過ぎてもまだ本社に「医薬品部」は存在していない。




内容の項目は「医薬品産業とは」「医薬品の需要構造」「課題の多い今後の医薬品産業」「制がん剤の市場と開発動向」「制がん剤の分類」「壮年期の死因のトップはガン」最後が「クレスチンとは」となっており、ようやく社内で認知された。ただ、この紹介でも制がん剤の市場に不安感を示している。
 
当時の化学製品課の課員が治験を行った大学や病院を訪れ「クレスチンは売れるでしょうか」と尋ね歩いたそうで、大半のドクターから「馬鹿なことを聞きに来たよ」笑われたそうだ。医薬品大手がPSK販売権の争奪戦をしていたのに・・・。


この10月号に連載記事の「われらの職場」にCT(東京研究所)Bグループが紹介されているが、この記事の締め切り時点では私も一員として紹介されてように、突然の転勤がまた起こるとは夢にも思わなかった。









 

13 PSK研究会

 

食品研究所で行われていた毒性試験に関して東大のK教授から指導を受けていたという。食品研究所の一部が東京研究所に移り生化学班となり、毒性試験を社内受託するようになったとのことである。その頃Yは癌の研究を密かに開始していたらしい。
     
昭和46年に毒性試験の指導を得ていた東大のK教授の紹介で世界的な病理学者で東大病理のO教授の知遇を得、さらにO教授の紹介により当時癌の基礎研究の第一人者である癌研究会癌化学療法センターS所長の知遇も得ることができたという。昭和46年暮れから47年にかけてPSKに関する諸データをO教授、S所長に検討してもらい、O専務の裁可によりPSK研究会が組織されることになったという。臨床のトップはやはりK教授の紹介による国立がんセンターのK先生にお願いすることになったらしいが、がんセンターのK先生にはYの母親がお世話になっていたので、その縁で座長を依頼したとも言われていた。K及びS両先生が臨床及び基礎の研究会の座長となって研究会が組織された。    
 
抗腫瘍性の試験の手技は当初は実中研のE博士の指導を受けていたが、研究会が組織されてからは癌研の他、国立がんセンター、九大、阪大(微研)、名大、東大、東北大、北大(癌研)等の医学部や愛知がんセンター等々との共同研究が増大した。
 
Yが卓越していたのは一つの種(一人の人)から次々に繋がりを大事にしてそれを拡張していく能力に長けていたことである。O専務の小学校の同級生の京大医学部解剖学教授のN先生、助教授のT先生、助手のT先生、I常務の親戚のがんセンター外科のI先生、その仲間のN先生など次から次へと癌研究の第一線の先生方を網羅していった。 
PSKは初期にはKSFRと仮称されていたが、1971年に至って(国立がんセンターの)K先生によってPSKと正式に命名されたという。学会発表もPSKではなくKSFRとして発表されていた。

 研究会は昭和47年4月15日に第1回が、同11月18日に第2回そして昭和48年6月15日に第3回目が開催されている。その報告書が2冊出来ており、基礎研究と臨床研究の報告がされている。これ報告書はPSK研究会編となっており研究会に報告されており公文書と見て良いだろう。




臨床試験の研究会の組織は上図のようであったが、報告会での参加者も不明であるし詳細は割愛するが、この報告書と申請時の資料とでは相当異なることが記載されている。

 










これらの報告書ではPSKの抗腫瘍効果について癌研究所の桜井欽夫、副作用につ東大太田邦夫、臨床経験について国立がんセンターの伊藤一二が講演されている。
また第2報では、上記の他に抗腫瘍効果について名大内科の大野龍三、外科領域で九大2外の服部孝雄、名大2外市橋秀仁、婦人科領域で国立がんセンターの笠松達弘、野沢志郎、内科領域で大阪成人病センターの正岡徹、愛知がんセンター小川一誠、国立がんセンター坂井保信、癌研古江尚、東北大抗酸研斉藤達雄、高橋弘、国立東京第一病院武正勇造、国立名古屋病院広田豊らの講演と追加発言で阪大微研外科芝茂、東北大抗酸研内科斉藤達雄、国立東京第一病院小山善之が発言している(敬称略)。 
 
研究会はその後種々のプロトコールを立案し、実施していったが結果が確定する前に承認申請が行われ、販売を担当することになった三共がこれらの研究会を引き継ぐことになり、呉羽は手を引くことになった。呉羽時代のプロトコールなどは割愛する。

当時の開発責任者であったUのレポート(PSK研究の現状並びに今後の見通し:1973/6/21)によれば、第3回までの臨床例は約520例、未報告の例約50とあり、第3回の臨床まとめとして司会者が1.免疫療法の手がかりが出来たので、効果判定法の決定を急ぐべし。2.併用薬はどのようなものが良いか。3.適正投与量は?4.使用時期はいつが良いか。5.外科手術との併用療法は?を今後詰めなければならないと指摘したと記している。 
 
臨床研究は内科部会と外科部会があったが詳細はよく分からない。このような時期に私はPSKに関わることとなったが、内科部会の分科会があるホテルで開催された時からこのような会を手伝うこととなった。ただ、この会は夏の暑い時期に午前中開催され、終了後通常はパーティーがあり食事やアルコールが準備されるが、この時はホテルのビアガーデンの飲み放題が準備され、研究所の所員がホスト?となり接待したが、ドクターからは暑さと食事内容に不平不満が続出した。しかしその頃の呉羽の状況から見たらやむを得ぬ待遇であり、また当時の呉羽の苦しい台所を示す貧しい思い出である。


  33 医薬学術部 クレスチンが順調に売上げを伸ばしている頃、N専務は今後も新薬が出続けることを期待し、且つK-247の申請が問題になった事もあり、医薬関係の組織として本社に臨床試験を担当する部門が必要だとして精密化学品本部に医薬学術部を昭和58年7月に立ち上げた。 その部員と...