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 15 医薬品部へ

15-1  残業100時間越え 
 

・PSK承認の目処もつき申請作業がほぼ終了しつつあった頃、今後の自分の仕事はどうなるのか考えた。一つ目は錦研究所に戻って応用微生物研究に戻れるのか、二つ目は東京研究所でその後も研究を続けられるかである。東京での生活は文化や賑わいが「いわき」とは全くレベルが違うことは明らかであり、薬学出身なので出来ればこのまま東京研究所に残り医薬品関係の研究を続けたいと思った。錦研究所所長の有り難い申し出であった「しばらく不要な家具は工場で預かって貰えうように手配するよ」が実現できず家具を移動先へと全て持ち歩いていたこともあったので、錦工場より東京研究所を選ぼうと思った。そこで先ず家を都内に買うことを考えた(都内に自宅があれば転勤はないか転勤があったとしても、しばらくたったら東京勤務になるだろうとの姑息手段であるーーその頃、噂では東京に自宅を構えたら錦工場に転勤させられるという現象もあったやに聞いていたが)。

・申請作業の時は組合員だったので残業代がつき、それも毎月100時間を超える残業で(会社は当時利益が出ず残業は厳しく規制されていたが、石油関係研究の連中は残業無制限になっていたので、Yは自分たちも残業制限は無視してかまわないだろういとのことで全ての残業を申請するように指導していた)、毎月給料が倍近くあるようなもので、且つ残業が100時間超ということはほとんど会社にいるような状態で外出する費用もかからなかった(CT裏の社宅でもあり、休みはひたすら睡眠不足を補った)ので家の頭金の一部ぐらいがあっと言う間にたまった。医薬品部に異動してまもなく非組合員になった時、残業代がつかなくなり、この収入レベルに戻るまで数年かかった?記憶がある。もうしばらく組合員でいたら(その後の医薬品部の頃の激務からみて)会社から借りた金の返済は楽だったかも知れないが、現在では考えられない残業だった。インサイダー取引と思われる株売買の利益も当然建築費に役立った。

 

・家を建てることを報告して東京研究所残留をYに希望した。彼は工場の研究所か東京研究所の2択だが、PSKの承認がおりたしそれへの貢献も高かったので、東京研究所勤務を継続できるように努力するとのことだった。しかしながら実際には本社に新たに出来る医薬品部に異動辞令が出た(1976年10月1日付け)。噂によればY本人かそれに準じるものを異動させろと言われ自分は研究したいので私を出すことで手を打ったとのことであった。このあたりはやはり外様は外様ということなのかと当時は思ったものだ。私の東京研究所での仕事は研究ではなく申請作業が主だったし「ガン」について深く勉強する時間もとれず、ドクターとの接触も少なかったし、臨床データを集めた経験も浅かったので、Yの代わりになるほどの役に立つはずはないと思ったが、そんなことには関係なく辞令は出た。ただ、私の要望で東京研究所との兼務にしてくれとの頼みが認められたことは、不幸中の幸いだった。この兼務辞令が3年半後に医薬品部を解職されたときの異動先として役に立った。錦研究所への異動を強くお願いしてそれがかなっていたら私のその後の人生はどう変ったかと思うこともあったが。

 

15-2   医薬品部へ 
 
PSK承認2ヶ月後の1976年10月1日に職制の一部改正があり、本社に「医薬品部」、錦工場に「医薬部」が新設された。また、東京研究所壬生分室は錦工場長直轄の壬生分工場になった。

             呉羽時報(1976/11)より

 

医薬品部は本社ビル(日本橋堀留町)に出来たので、私は新宿の研究所からいつもは本社ビルにいることになった。 
           

                当時の本社ビル 

医薬品部は化学品本部長根津の管轄下に、化学品本部副本部長兼医薬品部長大平、主査前田(前輸出部長)主査宗像(化学品技術部1課長兼務)。部員綾木、頭師(2人共前化学製品課)、CT兼務の私と他課兼務の女性2人で発足した。しかし大平は根津(東大農学部卒)より年配であり同じ東大でも工学部卒だったので根津は大平を煙たがったようだ。

本部長席の後方に小さな会議室があり殆ど毎週のように根津主催の会議が行われ、細かい質問や指示が出され、部長の出る幕は少なかった。部長は陰で「あんな細かいことを聞くのではなくて、常務らしく大所高所からの意見、指示をすべきだ」と言っていた。

発足日の根津主催の会議では医薬品部の仕事として

・三共との連絡

・役所対策

・海外対策

・ドクターとの連絡

・他部との連絡

・商標、特許関係

・宝酒造との連絡

等が示され、発売に向かって支障の無いように全力を上げるようにと指示された。

この席で本部長の方針の根幹は「医薬品部はドクターの財布たれ」であり、接待やゴルフは日常茶飯事であるので、交際費の大幅な増額を要求したとのことであり、この方針は異動して来る人への土産話のようで、ゴルフし放題につられて異動してきたが期待外れに終わったと嘆いた人が多かったようだ。                 

 この打ち合わせ後は本社裏の「寿司英」で会食後、銀座へと出向いた。これは接待出来る店を紹介するとともに、接待になれさせ「財布たれ」の練習も兼ねたようだった。このような表に出せない接待などもあり、それは裏帳簿で管理させた。このような接待を覚えさせたことはその後の私の人生に大きく影響した。 

こぼれ話としては根津が行く銀座の店では「カティーサーク」をマイボトルとして入れていたのに、大平は「オールドパー」を入れやがってと非難したとの話を聞いた。大平は三共の常務に招待されて行ったお店に置いてあったのが「オールドパー」だったので、別な機会に行ったときにやむを得ず「オールドパー」を入れたらしいのだが。 このような接待に関するこぼれ話は山のようにあるので、その時々の項で書くことにしよう。

                   夜の銀座

 個人タクシーの券は一冊貰い連日のごとく深夜タクシーで帰宅したが、自宅までの1時間は睡眠のみであった。

 

発足当時の医薬品部の仕事として新任のメンバーから推察されたのはPSKの海外進出がメインの仕事のように見えた。大平は元ニューヨーク駐在所長だったし、前田もそうだった。宗像も留学経験者だった。

その後国内の仕事(三共販促の手伝いなど)が大幅に増え、且つ海外展開が難しくなり、国内用の仕事のため次々と人事異動が行われた。1976年11月に農薬課から林、1977年3月に新入女子社員の岡本、1978年6月に農薬課長だった平木が主査で、化学製品課の鴫原(1年後に海外留学)が異動してきた。

驚いたことに2年半後の1979年5月に大平部長に替わりデュッセルドルフ駐在所所長の羽生田が医薬品部長として異動してきた。この人事はまだ海外展開を計るのかと思わせたが、根津が大平を煙たがっており交代させたと思われた。同6月に私以外に唯一の技術系の宗像が錦商事に転籍となると同時に、岡田が大阪支店から、富樫が農薬課から異動してきた。1979年9月には前田も海外開発部に異動となり海外展開は結局頓挫した。1980年1月電算室の小迫が研究会のデータ解析を主務として異動してきた。

私は1980年6月に医薬品部を解職され兼務していた東京研究所のみの仕事に戻った。医薬品部在職は3年半に及んだが、3年半で部長以下男性6人で発足した医薬品部は男性8人と二人増えたのみで、新設部門のため試行錯誤はあったとしても異動の激しい部であった。解職されたとき「君は三共からの評判があまり良くない」と言われたが、私が三共の担当者に聞いていたところでは他の部員の悪い噂が多かったので、少し驚いた。確かに我々は医薬品の業界については知らないことが多かったし、PSKについて三共やドクター からの質問に殆ど答えられなかった。私も心配したとおり、実験手法の詳しいことは殆ど説明できなかったので、Yに頼んでCTから専門家を連れてドクターを訪問した。きちんとPSKやガンや業界の勉強をしてから活動すべきだったと反省した。羽生田部長からは「何も分からないで部長になったので、君の異動を止められなかったが、しばらく経ったらまた戻ってくるよう依頼するつもりなのでそのつもりでいてくれ」と言われた。確かにしばらくして研究所に誰か医薬品部に出してくれとの依頼があり、Yは今度は同期のOを推薦した。彼も申請作業は出来なかったが、留学するまではPSKの研究をしていたし、私を不要としたからには他を出さざるを 得ないと言っていた。このあたりから少し医薬品部と東京研究所の関係に不協和音が生じることとなったようだ。

東京研究所に戻ってPSK関係で医薬品部や三共を手助けしていたが、三共の営業部長(呉羽との窓口)から「ある支店でPSKの大事なドクターとの関係をしくじったので助けてくれ」と頼まれ、偶然以前から担当したドクターだったので訪問して努力した結果無事に解決した。その時その支店の支店長が「以前会ったときにあなたの態度が気に入らなかったので、三共本社にあなたのドクターや三共への対応が悪いと告げ口した。その後医薬品部を異動させられたと聞いた。あなたのやり方であの難しいドクターとの関係が元に戻り、あの告げ口が間違いだったとわかり、告げ口が原因で異動させられたとしたら大変申し訳ないことをしたと反省している」と異動の一因を教えてくれた。

その結果技術系が誰一人のいない全員営業の医薬品部になったため(社長研修会で技術系がいなくなっても大丈夫なのかと聞かれたが、皆さん勉強家なので大丈夫でしょうと答えた。これは異動内示後の研修会だったし研究所に戻れたのでゴマをすったのだが、羽生田部長からは心配だと聞いていたし、本当は大丈夫とは思わなかった。)研究会などのフォローが殆ど出来なくて三共と東京研究所に「おんぶにだっこ」となった。この頃はPSKの売り上げはうなぎ登りであり(まだ、明確なNY戦争も起こっておらず)、同床異夢の世界を楽しんだが、私の人生にはその後も色々なことが起こった。

医薬品部にいたとき担当した仕事については項を改めることにする。


 


 

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