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5 申請から認可へ

5-1:申請作業

5-1-1 背景

培養方法、後処理工程、臨床試験など抗癌剤として申請が可能かどうか検討している最中に突然PSK開発の最大のピンチが訪れた。

昭和49年10月、Yが海外の学会出張中に社内でPSKの唯一の保護者だった大塚元副社長が心筋梗塞で倒れ、あっと言う間もなく亡くなられた。Yを出張先から至急戻るように手配した。

              呉羽時報より

 Yは大塚元副社長が居ないと研究費の削減に始まってついにはPSK開発がストップする可能性を心配し、これまでのデータで申請可能か検討し、少しでも可能性があれば野垂れ死にする前に申請することを決心した。私はPSK研究にかり出されたはずであったが、研究どころではなくなったので、やむを得ず承認がおりるまで付き合うことにした。

 申請にあたり何が必要であるか、まだ1年も研究に携わっていなかった私には申請の全体像が把握出来ていなかった。まず、申請とはどういうことなのかを調べた。

当時の文献では「地人書店」の医薬品開発講座Ⅰの第1巻「医薬品開発概論」(昭和45年12月Ⅰ日初版発行。編集代表津田恭介・野上寿)が唯一の資料であり、そこには昭和42年9月13日薬発第645号「医薬品の製造承認等に関する取扱について」の概要が述べられていた(p-33~38)。


 それによれば申請資料として、承認申請書、使用上の注意、概要、各資料などを取りまとめて厚生大臣宛に提出するが記載事項は

(1)目次

(2)申請書(一般名、販売名、成分及び分量または本質、製造方法、用法及び用量、効能または効果、貯蔵方法及び有効期間、規格および試験法、備考を記載する)

(3)使用上の注意(副作用などに関係ある事項を詳しく記載しなければならない。重篤な副作用がおこるおそれのある場合は、内容・予防および発見した場合の具体的措置を、また比較的軽症の副作用のときは内容と必要により具体的措置を記載する。また、動物実験で見られた重篤な障害も述べることになっている)

(4)概要(起源または発見の経緯、薬理作用の特徴、類似品との関連および臨床試験成績などにつき、その概要を4050ページにまとめて記載する)

(5)各資料(新医薬品で化学構造または本質・組成が全く新しいものについては「起源または発見の経緯(資料番号1)、「物理的化学的試験(資料番号2,3)」、「毒性試験(資料番号4,5,6)、「薬理試験(資料番号7,8,9)」、「臨床試験(資料番号10)5ヶ所以上、150例以上。1主要効能当り2ヶ所以上。一ヶ所、20例以上。

とあり、このなかに基礎試験成績・臨床試験成績は、学術雑誌に掲載されているものが含まれねばならないとされていた。

また資料番号についての概要が示されている。

資料番号1:医薬品についての起源、または発見の経緯および外国での使用状況などの関する資料。

資料番号2:医薬品についての構造決定、物理的・化学的恒数、およびその基礎実験資料並びに規格および試験方法の設定に必要な資料。

資料番号3:経時的変化等、製品の安定性に関する資料

資料番号4:急性毒性に関する資料

資料番号5:亜急性毒性および慢性毒性に関する資料

資料番号6:胎児試験その他特殊毒性に関する資料

資料番号7:効力を裏付ける試験資料

資料番号8:一般薬理に関する資料

資料番号9:吸収・分布・代謝および排泄に関する試験試料

資料番号10:臨床試験成績資料(精密かつ客観的な考察がなされていること)

が必要とあるだけで、それ自体(項目など)は簡単に記載されているが、その裏づけ資料をどのようにどの程度準備すべきか分からなかった。

 また、審査については

申請書は都道府県薬務課(またはこれを担当する担当課)経由で厚生省薬務局製薬課に届けられ審査を受ける。通常、資料について説明を求められるが、一応の審査を受けると薬事審議会に諮問される。

薬事審議会:薬事法第3条の規定に基づき中央薬事審議会が設置されておりここで審議される。この組織は、調査会(新医薬品調査会、抗悪性腫瘍調査会など6部会)、医薬品特別部会および常任部会よりなり、委員は厚生大臣の任命する医学・薬学の専門家で構成される。調査会は一部を除き34ヶ月に1回開催される。(この時点では抗悪性腫瘍調査会のメンバーは10名、特別部会は23名、常任部会は20名とある)

・製造承認は中央薬事審議会にて慎重に審議され、承認後発売しても良いということになると、その答申に基づいて厚生大臣が製造承認を与える。通常、書類提出後6ヶ月~1年を要する
 
とある。

後日談だが、PSKも坑悪性腫瘍剤調査会2回を経て特別部会、常任部会と進み約1年で承認され、期間的にはほぼこの本に記載通りであったが、後日丸山ワクチンがらみでこの審査期間が問題になるとは思わなかった。

医薬品の申請については、私の参加以前に厚生省に相談に行った時、初歩的な質問が多かったので、先ず民間の薬事コンサルタントを紹介されていた(M薬事コンサルタント:元厚生省薬務課担当役人とのこと)。Mとはコンサルタント契約を交わしてあったので、よく電話をかけて教示して貰った。

 

5-1-2 資料の作成

さて申請についての公式な情報はこの程度であったので、どの程度の質、量が必要か全く検討がつかなかったが、当時CTには、なぜか製薬会社数社の抗悪性腫瘍剤調査会用に申請された書類のコピーがあり(フトラフール、ピシバニール、サイクロ-Cなど数種に渡りそろえられており)、それを参考に準備することになった。なぜこのような資料があるかYに聞いたが、神田の闇市場には何でもあるよと笑っていた。(後日業界での集まりで各社とも他社の申請書は入手していたことが判明したが)

とりあえず他社の申請書をモデルに名称や数値を消し、そこにPSKのデータを入れてみるという原稿を各担当者に書くよう割り振って、申請書の準備作業は始まった。

 私は 申請関係資料作成のうち、規格、理化学、安定性試験を主として担当したが、全体のまとめの「概要」も担当した。それまで一緒にやっていた同期のOはその時に海外留学することになり、まとめは私の仕事となったからである。

5-1-2-1 規格の設定

当時は昭和44年3月の薬務局長通知で規格及び試験方法の審査の基準が示されており、それによればPSKのように構造組成が決まっていない医薬品については、名称、基原、性状、確認試験、純度試験、定量法が必須で、含量規格、製造方法、乾燥減量または水分、強熱減量、強熱残分、灰分または酸不溶性灰分、特殊性能試験は必要に応じて、試験が可能な限り記載し云々と記されていた。

 


上記はファルマシアvol11p347(1975)で紹介されたPSKの記述であるが、その当時のPSKは「糖質70%蛋白質15%からなり、無味無臭の粉末であるが、臨床用のPSKは10%溶液であって、更に6%の砂糖を加えた上で、凍結保存を行っており」との記載がある。このように乾物換算3g入りの凍結品であり、いわゆる申請できるような規格は厳密には決まっていなかった。また、その頃、厚生省の通知の中に「実測値」の提出というのがあった。これは規格、理化学、安定性の試験結果はロットや試験日を記載した実測値を添付することという通知であった。

まずロットの構成を確定しないことには規格や理化学のデータの出しようが無いので、培養から抽出、製品化までの流れを確定する必要性に迫られた。その頃のロットは透析して得られた液体をある量にまとめてそれをロットとした?ようだった。各試験に用いていたロット番号を再設定した。

PSKは多糖蛋白であるので、蛋白対多糖の比率、糖成分を定量値化する方法、多糖の中のグルコース量の定量、蛋白質由来の旋光度、アミノ酸組成比を分光光度計で定量値化する方法などが候補に上がっていたが、更に幅広く合格させる規格試験法を探した。何しろそれまでは静置培養で得られた菌体を熱水抽出することで得られていたPSKを、アルカリ熱水抽出や加圧抽出することで乾燥菌体当たりの収量を高める実験が行われており、また、将来工業化された時には、タンク培養が予想されたことから、PSKは出来るだけ幅広い規格を目指すことになった。(培養方法や抽出法については別項で述べる予定である)

 そこで日本薬局方や薬局方外規格試験法などの参考書を徹底的に調べた。これは厚生省を含むお役所が「前任主義」なので、厚生省が係っている本を参考にして規格を作れば多分通るだろうと考えたからである。

  

「薬局方外規格試験法」の中に「パラフラボン」というガチョウの羽からとった成分を主体とする医薬品の規格が目に付いた。N(窒素)が6~9%という定量値が規格に採用されていた。Nの幅が3%(アミノ酸に換算すれば18%)もあり、この幅はPSKにとってありがたい幅であった。

 


PSKの公表されたN値は熱水抽出物で2%~3%前後であったが、タンク培養やアルカリ抽出の実験値を勘案するとN値としては上限6~7が出てきた。幅を最大3%とすると1~4、2~5、3~6、4~7が考えられたが、将来培養法は必然的にタンク培養になるだろうという予測と、生産抽出効率の改善は利益の大半を占めるであろうとのことから、アルカリ抽出をも当然取り入れるという前提で、それに合うN値としては3~6%が良いだろうと推定した。何しろそのような実験データは数少なく、また、申請途中で製造方法覧に熱水抽出をアルカリ性熱水と訂正したことから、その値が妥当かどうかは危ない橋を渡る覚悟が必要だった。化学組成についても幅を広く取り矛盾の無いようにした。

その当時はバリデーションの規制はなく、規格値を満足するものは同一と見なすという定義があったので、工業生産になった後も規格値の範囲内で培養条件や精製・抽出条件を研究し、菌体からの抽出率は熱水抽出時と比較して数倍に上昇したらしい。この幅は生産効率や利益に多大な貢献をしたが、ゾロ品が出たときには規格値が幅広いため物まねがしやすく、且つPSKの基本特許が窒素(N)が3%以下であったため?、ゾロ品は元々呉羽の基本特許に抵触しないのではないかといわれたこともあった。

 

Yは国立衛生試験所(当時。現国立医薬品食品衛生研究所)の副所長と知り合っており、抗悪性腫瘍調査会の規格試験などを担当していたKを紹介して貰い、規格等について相談した。
Kは定量試験のN値の幅が蛋白質換算で18~36%であり、少し幅がありすぎるので、抽出工程等生産が安定したら狭めて欲しいと言われた。また、現在構造不明でもあるので「抗腫瘍効果を担保する活性試験を入れること」と指示された。
活性試験はin vitro(シャーレ内)試験を想定していたらしいが、PSKには安定して活性を担保するin vitro試験は見つからず、やむを得ずin vivo(生体内)試験で安定した活性を有する試験を検討したが、なかなか選定が難しかった。その中から何とか探し出したのがサルコーマ180を用いた試験であったが、投与量等の設定がまた難しかった。サルコーマ180の接種量、PSKの投与方法、投与量、投与日数等を変えた試験データから、PSKの腹腔内投与による試験が選ばれた。

 

規格は何とか設定できた。(しかし、このように苦労して設定した規格値なども、後日製造現場や、特許関係者からはいいかげんな規格値を相談もなく決定しやがってと結構文句を言われた)特に活性試験については後日とんでもない事実を知らされたがそれについては後ほど触れることにしよう。

 

5-1-2-2 安定性試験、理化学

安定性試験では承認されると言う前提であるので散剤での安定性が必要とのことで種々の試験が行われた。特に分包剤の組成がなかなか決まらず、申請後も試験を一部続行しながら、申請することにした。実測値の中には一部欠落したデータもあり、再実験やデータの修復作業を行いながら作成した。なお、要求されていた実験データは全て揃えて提出した。

理化学はそれまでのデータをまとめて報告書にしたが、審査の過程で本体の研究を続け報告することの指示がついたが、 それ以外では指摘は無く理化学担当としては一応役目を全うした。

   5-1-3 その他の資料


その他の添付資料は資料番号3の急性毒性試験から資料番号9の吸収分布代謝及び排泄に関する試験まで担当者毎に作成された。原稿作成にあたっては他社申請書の参考資料をコピーしそのデータを削除した後にPSKのデータを入れる方法を取ったため、時には他社のデータの単位がそのままになったりしており、申請資料の最終に近い段階で見出されたこともあった(例えばピシバニールの単位であるKEが残っていたり)。
資料は担当者が原案を作成した後、連名のDrや指導の先生にチェックして貰ったが、作業の中心は安全性と効果を主張する基本方針であったため、多数の先生に相当無理をお願いして作業を進めた。

連名の先生
毒性試験:東京都立老人総合研究所 O先生
効力試験:癌研究会癌化学療法センター S先生他多数の施設と各先生
一般薬理試験:松本歯科大学 M先生
吸排試験:東京医科歯科大学 M先生

印象深いのは都立老人総合研究所のO先生からコメントを頂いたときに、プレパラートの番号を読み上げながらそのコメントを頂きそれを文章にしたとのことであった。このコメントの書き方が先生独特の表現であり、調査会の毒性試験担当先生がO先生の教え子でもあったので、このコメントの表現からO先生が鑑定したことを知り、提出したプレパラートの写真が見にくかったにもかかわらず、O先生が問題なしとされたのにはコメントは出来ないとすんなり通ったことであった。O先生はプレパラートの写真を見ただけで「環境の悪いところで試験したなぁ」と言われたそうだ。

後日、松本歯科大のM教授から、「一般薬理の原稿についてFから安全性を損なうように見える記述を変更することは出来ないかといわれ、何を生意気なことを言っているのかと思ったが、その時は君の意見を取り入れて、安全性の高い論文に書き直したが、無礼なやつと思っていた」と言われた。その後偶然Mと私が同郷であることが判明し、同郷仲間として親しくしていただいた。



臨床試験のデータは全て各ドクターの手書きの原稿が手に入っていた。私が経験したのはその内の数件だったが、大半はYとFの二人が集めたものであった。ただ、当時研究所の健康診断を委託していた国立病院医療センターは事務長のKがここは俺に任せろとのことでKが集めたらしいが、有効例は無く後日同センターのT先生から「他施設の状況がわかっていたら有効例を持っていたので書いたけど、自分だけが有効例を示すことがちょっと恥ずかしかったんだよ」と言われた。こういう事例は後日臨床試験も担当することになった私には大いに役立った情報であった。

PSK申請当時の癌の効果判定基準は明確では無く、ドクターの判断に基づくものであった。後日再評価で単独での効果が制限されたが、申請時に問題無かったことは承認されたことから明らかである。臨床試験や承認基準の変遷は別項に譲る。



理化学関係の申請資料を作成し、毒性試験資料、薬理関係資料、吸排関係資料、臨床関係資料がそろった段階で、概要の作成に取りかかった。  概要は申請資料の要約であり、各担当ごとに数ページの要約を他社の申請書を参考に作成してもらい、それを一人の作者が作成したような文章に書き換え、読む人(厚生省の担当者や調査会のメンバー)が読みやすい様にした。現在は概要の作成方法というガイドラインがあり、こういうのがない時代は概要作成も苦労が多かった。最終的に130ページほどにまとめた。

 

5-1-4 事務的なこと


その頃はワープロもパソコンも出始めの頃で高価であり、当社にはまだ無かったい時代で、原稿は出来あがり次第「謄栄社」に持ち込み和文タイプにて清書しため、その準備作業は大変だった。和文タイプでは一字、一行挿入は全体の調整が必要となり、謄栄社の社長・Sさんには大変な作業を強いてしまった。

申請後、謄栄社への支払が約1500万円程になり、本社のある人からは「これで家一軒買えるのに」と皮肉を言われ、ずいぶん値切られたそうだが、現実は毎日謄栄社に入り浸って原稿とタイプのチェックと訂正をお願いし、やっとの思いで完成した申請資料であった。  
 
他社の申請書は厚紙を表紙とし紐で綴じたものが多かったが、その頃申請のあった他社の申請書にバインダー綴じのものがあり、それを見習うことにした。謄栄社のSさんに頼んで写真のようなPSK入りのバインダーを数種作ってもらった。内容が少ない分何とか重みのある体裁にしようと学会発表などまで文献としていれたが、それでも2分冊にしかならなかった。Yがもっと多くならないかというので謄栄社のSさんに相談したら、袋折にしたらページ数は同じでもは厚みは倍になると教えられたので、すぐ採用し4分冊になった。中身は変わらないが見た目に資料が多くあれば多くの研究が行われたようには見えた。 

           申請時のバインダー

申請には製造承認申請書と製造業許可申請書が必要で、当時は壬生分室のみが製造していたため栃木県の担当部署に問い合わせしたところ、あまり経験もないので一緒に検討することに也、検討会が終わるとご苦労様会が催されたが、当時は何の問題も無かった。後日、癒着を防止するため厳しく制限されることになった。

医薬品製造業では「薬剤師」が必要であるので、君は持っているだろうと言われたが、試験には合格していたが薬剤師登録をしていなかったため、他を当たることになり、Sに白羽が当たった。SはPSKには関係ない仕事をしていたが、なり手がいなかったので、業務命令が出た。後日管理薬剤師は壬生に在籍する必要が指摘され、彼は住所を壬生に移した。これには彼も怒ったがしばらくは担当することになった。この時は私に会うたびに「本当に登録してないのか」としつっこく言われたものだった。壬生への再転勤を嫌ったためではなく、登録を取っていなかったことが幸いしただけであった。許可に必要な設備を整え、壬生分室を生産工場とした製造業許可申請書も何とか出来上がった。

両方の申請資料が整ったのは昭和50年7月であり、社内手続きを経て8月1日付けで栃木県経由で厚生大臣宛て提出した。


申請時の思い出に正B5版とB5版の違いがあるのかどうかの議論があった。Yは正B5版と指定があるなら寸分違うべきではないとし、私はB5版であれば厚生省も1、2mmの違いに文句を言うことはなかろうとの意見だったが、その数ミリで差し戻しになったらおまえの全責任と言われ、申請前日か当日すべての申請書を正B5版に差し替えた。結局その問題は全く生じなかったが、要はA4版ではだめだと言うことであった。

申請書は原薬と製剤での申請が必要とのことで両方申請したが、原薬イコール製剤と言うことで一本化した。また、販売名に英文名を入れておいたが、これも不要と言うことになった。

この頃のクレハは毎年赤字決算が続き?、厳しい残業規制が敷かれていたが、Yは石油化学の研究者には規制が無かったことから、残業代は全て請求するようにと頑張った。組合員であった私たちは毎月100時間を遙かに超す残業が続き、体も壊れたが、収入は増えたので家を購入する資金が一気に増えた記憶がある。

なお、後日申請時の研究所長であったHが子会社の社長を退き挨拶に来た時、「PSK開発者であるお前らが申請時に何をやったか俺は大体知っているよ。ばらせば、会社は大変だったろうによく我慢したよな 」と言われたことがある。これについては機会があれば別に述べようと思うが、当時はがむしゃらに申請すること以外は考えなかった。

 



4 東京研究所(CT)での仕事 

4-1 概要

 CTでは主に理化学関係を担当することになり、O、K、A、Iと仕事をした。Yグループのその他の人は化学工学出身のKは培養、後処理関係の設備設計を、Fは京都での人口肉研究の長期出張から錦工場に帰る途中にO専務に引抜かれてCTに途中参加し、後処理の実務を担当していた。この7名が同室で、大きなテーブルに椅子だけの実験室であった 。(パートを除く)

 Yはワンマンで気に入らないとすぐに怒り、各人はよく別室に呼ばれ説教された。
転勤後早い時期だったが、朝のお茶を飲みながらの打ち合わせ時間を廃止する旨突如通告したので、その理由と独善を注意したところ別室に呼ばれた。理由は忘れたが、
おれに文句を言う気の強いやつといわれた。辞めるつもりがあると何でも言えるものだったが、こういうことが彼の信頼を得たのかその後の色々な仕事をすることに繋がった。また、その頃は研究費が少なくまた当然接待費もなく、Yは各ドクターの 接待費を自腹で行っており(いつも分厚い札束を持って歩くと言っていた)、錦研究所時代に自腹で飲みに行っていた私を「自腹で遊んだ奴は接待させても大丈夫」といって、接待の席にもよく連れて行くようになった。

その他生化学関係は動物飼育関係、毒性試験関係、代謝関係、作用機作関係、培養関係があり、これらが一体となり、PSK研究を担当していた。

 この頃のPSKは静置培養したカワラタケを熱水抽出し、上澄みに硫安を入れて塩析してくる沈殿物を透析膜で硫安を除去し10%に濃縮した液を壬生からCTに送り、そこで30mlのポリ瓶に分注し凍結させていた。PSKは無菌処理をしていないため凍結状態での保存が必要であったためである。この作業は冬には大変過酷な作業でパートの人たちが大変苦労し、人手が足りない時は皆で手伝った。 

 臨床施設へのPSKの納入は国立がんセンターへは週2回タクシー(所長用自家用車:当時はまだ所長には自家用車が付いていた。当時のCT所長は常務、専務クラスだったので)または電車で運搬納入し、地方へは運送業者を使って凍結品を配送した。主にAが担当したが全員で応援する態勢が必要であった。

九大、東北大、広大、阪大、名大等の遠隔施設には航空便を利用して凍結品をドライアイス詰めにして配送した。 各施設にはPSK専用の冷凍庫を配置してあった。PSK認可後は散剤での提供となったので冷凍庫は不必要になったが、一切回収せず全て寄付された。

 生産担当の壬生分室
へはよく出張した。たまにはO専務の車に同乗させて貰った。よく「この本を読んだか」とか「読め」とかいわれ、がん関係の本を紹介して貰ったり、譲ってもらった。O専務は学閥を排除し幅広く人材を集め、会社がうまく行くような采配をされたと聞いていた。Oは副社長を経て、呉羽プラスチック(株)の社長となって転出し、CTはY専務が所長となり、その後H所長となった。 


4-2 PSKの構造研究

 PSKの理化学を担当することになりPSKの構造研究をすることになったが、研究の大半は京都工芸繊維大学の平瀬教授の指導をえており、癌学会などで多数発表されていた。Oは研修生として平瀬研究室に派遣されて研究の手助けをしていたこともあったという。

癌学会S45の表紙と発表内容









 癌学会での発表では質疑応答が大変だったらしく、その後は農芸化学会や薬学会等で発表されることになったらしい。癌学会も当時は講演要旨は手書きであったことが時代を感じさせる。

 構造研究にはカワラタケの静地培養のわらじを熱水抽出し、水酸化バリウム沈殿法で分別した画分を構造解析したものであった。現実の製造法とは異なるが学問的にはある程度精製したものについて構造研究を進めているとの事だった。その他のキノコについても同様の構造研究が同時進行していた。ただ論文化されたものはなく、「申請にあたって主要なものは公表すべし」ということを勘案し、至急論文化することになった。

 全く経験の無い私に学術誌投稿用の原稿を書く作業が回ってきた。それまで実施されていた実験や記録を見せて貰い、薬学雑誌に投稿すべく原稿作成に注力した。いわゆる学術雑誌への投稿は経験がなく、投稿規定や雑誌の論文を参考に、京都工芸繊維大学の平瀬教授と頻繁に打合せを行い、担子菌かわらたけの抗腫瘍性多糖の化学構造に関する研究第1報および第2報として投稿出来た。公表化の第1弾であった。

・手書きの投稿原稿。

・第2校

・薬学雑誌


・レフリーからの思い出として「アミノ酸組成にアンモニアをいれた」ところ「アンモニアがアミノ酸とは思わなかった」とコメントされたことが印象的だった。


3 突然の転勤

 3-1 東京研究所壬生分室

 S48年4月頃上司の錦研究所のI副所長に呼ばれ、東京研究所壬生分室に転勤するように指示された。私一人ではなくNと2人の転勤命令とのことだったが、理由は言われず自分の力の及ぶところではないとのことだった。研究所のW所長からでさえ上からの命令だということだったが、後では0専務からの依頼で東京研究所で開発進行中のPSKを壬生で考えさせるようにとのことだったと聞いた。所長からは「PSKの開発については秘密が多く、状況がよくわからないので、入手した情報は送るように」との指示があった。が結局守れなかった。

 研究に関する何の情報もなく、S48年8月末にNと共に栃木県下総群下都賀郡壬生町にある呉羽の関連会社・栃木プラスティック(株)の隣に位置していた東京研究所壬生分室に転勤した。

           当時の壬生分室の写真(錦研究所と比べると?)


 
転勤に際し錦研究所長から1~2年でまたここに戻す予定なので、家財道具などで生活に不要なものは工場の倉庫にしばらく預けておいたらどうかとの話もあったが、実際には誰にきいてもどこにおいて良いのやら分からず全てを持って壬生に転勤した。後日談となるが結局錦研究所へは戻ることが無かったので賢明な判断となった。

 Nは壬生に転勤するに当たり、自分で住む家を探してきた。新築の3軒長家で家主は校長先生だったが、社宅をかってに壬生に契約したNに東京研究所の事務長のKは激怒したという(東京研究所の所属なのに勝手に家を決めるなんてと)が、結局そこも社宅となり住むことになった。 

壬生分室は元は北日本食用菌研究所という会社であり、その会社はシイタケ菌の生産販売を行っていたが、経営不振で閉鎖する予定のところを東京研究所のYがO専務に頼んでPSKの原料となる「かわらたけ由来のCM101菌の培養と研究」をするために呉羽が買い取ったという。(1968年?の頃)

壬生分室ではWを中心にCM101株の静置培養G、その後処理工程G、タンク培養研究Gのグループがあり、多くの人たちが研究していた。

 PSKの原料であるカワラタケCM101の培養は当時は静地ビン培養で行われており、1350mlのガラスビンに培地200~220mlを入れ、殺菌後、CM101の母菌を接種し、25℃前後で静置培養する(21日~27日)。培養すると菌糸体からきのこ(子実体)が生えるきて、その「わらじ」(わらじの格好をしており、我々はそれを「わらじ」と呼んだ)を取り出し、洗浄し棚段式の乾燥機にて乾燥し菌糸体を得ていた。1日当り5000本程のビン培養が行われていた。培養はPSKの需要により増減したが、赴任した9月頃は連日大量の仕込みが行われていた。

 乾燥菌糸体は熱水にて撹拌抽出し菌体を分離後、硫安塩析し透析膜にて脱塩した。濃縮したものは褐色の液体であり、それを東京研究所にて乾燥物換算3g入りのポリ容器詰めにし凍結保存した(味があまり良くないため飲みやすくするため砂糖を少々添加することもあった?)。製剤の形としては濃縮液をスプレードライし、乾燥粉末にすることが望まれたが、当時は凍結品で出荷されていた。熱水抽出物は以前はイオン交換樹脂を通して精製らしき手段をとったらしい(以前錦研究所時代に東京研究所見学があり、その時にはカラムを通した白い結晶をPSKといっていたような記憶があった?)が、S48年には上記の方法が確立していた。

         当時の壬生分室での培養風景(Wから提供された)




 壬生分室では研究という仕事は特になく、PSKの増産体制の作業としてカワラタケCM101の静置培養(ビン培養)の手伝いをしていた。それまでの仕事から考えるといきなり単なる肉体労働の仕事になり、このままでは大変だと思い今後のことを考えていた。その頃錦研究所の農薬関係者が社内旅行の途中に立ち寄り、私が長靴をはいて瓶洗いをしている姿を見て「何してるの」と笑われたのは屈辱的だった。  

 壬生への転勤後は必要最小限の荷物のみ開梱し、すぐ次へ引越し出来る体制(退社も含めて)を維持しておいた。大学の恩師には一応状況を報告し、退社の可能性があるのでその時はよろしくお願いしますと連絡したら、製薬会社であれば何とかなるよと言われ、それを背景に状況次第では退社も止むを得ないかと考えた。長女はまだ1歳で今後のことも考え、妻子を実家に帰し、東京研究所でPSKの実務担当者であるYに相談に行った。単なる肉体労働がこれ以上続けば、退職も考えなければとの覚悟をほのめかした。Yはビン洗いでは可哀想だし、しばらく東京研究所に来て勉強するよう取りはからってくれた。(会社の四谷寮に逗留し、半月ほどそこから東京研究所に通った。)

3-2 東京研究所へ

  S48年10月からはPSK出荷量が増大しその生産に対応するため再び壬生分室に戻りビン洗い等に従事したので、体力の限界と仕事への意欲喪失を覚えYに内部転勤を依頼した。かなわなければ退社する旨を伝えた。それが効いたのか11月に壬生分室から東京研究所へ内部転勤し豊島園の社宅に引越した。壬生分室は東京研究所の管轄であるので内部異動ということで正式な異動は発表されなかった。

             当時の東京研究所入り口

旧陸軍軍毒ガス研究所(?)と言われた研究所本館

 
 東京研究所(以下CTとも記す)ではU主任研究員がPSK関連研究のチーフでおり、Yは当時まだ組合員であったがPSKの開発責任者であり、その気力、体力はすごかった。Yの後ろ盾はO専務であり、専務専用の車に同乗し壬生とCTをよく行き来し、がん関係の本も数冊頂いた。

Yのグループ(B2)は旧CTの本館2階にあり、各人に個人の机はなく大きい机のまわりに椅子をおいた状態であり、錦研究所の各々に机のある状態から見ると研究環境は良く無かった。
 
翌年3月に新宿の大久保社宅に引越した(CT事務長Kから引越さないと永久に豊島園の社宅だよと脅されやむを得ず引越した)。結婚した時に勿来から引っ越しすることはないと話をしていたので4回目の引越しにはさすがに妻は約束違反と訴えたが、結果的には東京住まいが継続することになった。(豊島園の社宅ではAの奥さんになっていた旧農薬試験室の知り合いが飛び降り自殺し、これが原因かはわからないがしばらくして全面建替えになった。)

3-3 社史より

ここで社史によるPSKに関する記述より、研究の発端を引用しておく。

p419 第6節 高付加価値事業の拡充

1.クレスチンの開発と医薬事業への進出
クレスチン研究の発端
 クレハロンフィルムの登場は、魚肉ソーセージの常温流通の普及を加速し、我が国の食品産業に流通革命を起こした。その過程で呉羽化学は、1960(昭和35年)年に東京研究所月島分室(現食品研究所)を設立してクレハロンフィルムをはじめ各種包装材料や添加物の毒性について研究を開始した。クレスチン(PSK)は、この東京研究所月島分室における研究グループから生まれた抗悪性腫瘍剤である。
この研究グループは、1964年に月島から新宿区百人町の東京研究所へと移動して、生化学班と呼ばれるようになった。研究の重点が、食品防腐剤に移り、その活動はしだいに幅を広げていく過程にあった。呉羽化学においては、農薬のように食品以外の分野でも毒性試験を必要とする分野がある。また、この頃から欧米を中心に専門家の間では、食品添加物の発ガン性に関する関心が高まり、生化学班でもこの問題に関する勉強会がひらかれるようになっていた。
生化学班の吉汲親雄は、1965年に郷里の滋賀県甲賀郡水口町に帰省したとき、同町の甲賀病院で胃癌末期と診断された老人がかわらたけ等を含む「さるのこしかけ」の熱水抽出物を服用して奇跡的に回復したという話を聞いた。この話に興味を覚えた吉汲は、当時の研究所長の大塚重遠に研究の許可を申請した。大塚は正規のテーマとしては難しいが、いわゆる裏研究であればよいという意向であったので、吉汲たちは動物実験のメンバーとともに、残業時間を使って研究を始めた。すなわち、吉汲は休日などを利用して担子菌類の採取に出かけ、週末には正規の研究課題が終わると、採取してきた担子菌の抽出、分析を行った。動物実験のメンバーは抗悪性腫瘍効果を確認するため、マウスの実験腫瘍として知られているサルコーマ180(結節型)を用いたスクリーニングを行った。吉汲たちが採取した担子菌類の総数は200を超えた。これが「クレスチン」研究の発端であった。
 吉汲たちの裏研究は、その後数年間続けられたが、その間に有効画分の構造に関する研究にも着手した。その結果、有効画分は蛋白多糖体と判明したので、1968年に研究者の1人を京都工芸繊維大学化学教室に派遣して構造研究を進めることとなった。また、栃木県壬生町で食用菌(しいたけ、なめこ)を生産販売していた北日本食用菌研究所が業績不振で閉鎖されることになったのを知り、その内部施設の利用について交渉し、研究用に担子菌を培養する設備と体制を整えた。これらの計画の実施にはしかるべき予算措置が必要である。した、がってクレスチンの研究が正規の研究テーマとして公認されたのは、この時点であったといえよう。しかし、この前後から呉羽化学は、全社をあげて原油分解プロジェクトを推進する体制を取りはじめ、70年には東京研究所の研究陣も、ほとんどが原油分解プロジェクトに参加していった。クレスチンの研究は着実な進展を見せていたが、生化学班の存続が危ぶまれる状況となったのである。しかし、副社長に就任していた大塚が、研究の進展を評価して、その継続を主張し、クレスチンの開発研究は続けられることとなった。この間の研究成果は有望な担子菌の継代培養が進められ、68年には担子菌類さるのこしかけ科かわらたけの1系統(CM-101株)を選定する段階に到達していたことである。CM-101株を培養して得られた菌糸体からの抽出物が、抗悪性腫瘍効果の点だけでなく、安定性の点でも優れていて量産しやすい最適の株であることが確認されたのである。このように、初期の研究対象であった子実体だけでなく、菌糸体も同等な抗悪性腫瘍効果を持つことが判明したので、以降の研究はCM101株の菌糸体由来物を用いて行われることとなった。これまでの成果に基づいた特許の申請手続きも行われた。

研究参加の経緯

2:クレスチン開発研究に携わるまでの経緯


2-1 クレハ入社

 K大学の4年になるとすぐ就職活動が始まり、U教授から「呉羽化学工業」の入社試験が近くあるが、今まで教室から数回試験を受けたが一度も採用されたこともないし、就職試験の模擬テストとして一度受けてみるかという話があり、日当、旅費も出るとのことであったので、呉羽の入社試験を受けた。30人ぐらいの受験者がいて、確かBHCの製造に関する問題などの化学と英語、論文作成の試験があった。試験の結果はあまり良くなく、その日に行われたA社長以下の役員面接でも、社長から「君の成績はあまり良くないなー」との発言があり、それに対してある役員が薬学ではこれらの問題は無理ではないかとのかばう発言もあった。これを聞いてやはり薬学は化学会社には不向きなのかと(不合格かと)思い帰路についた。下宿に帰ると呉羽から採用の通知が既についており、教授に報告すると共に、呉羽の会社概要を調べた。就職先として試験を受けたのではなく、模擬テストのつもりであったので、会社の概要などは全く調べずに受験したからであった

 教授は今まで一度も採用されていない会社に合格したのだから、呉羽に行って後輩のために道を確保してくれと懇願され、また、何時でも武田や三共には世話をするから、一度呉羽に行ってそれから無理であれば転職しても遅くはないと諭され、呉羽に行くことにしたが、それは採用条件として研究所勤務を希望し、それ以外であれば断りたいとのコメントを願書に書いておいたことと、研究所がパンフレットによれば「東京研究所」とあったので、そこが就職先かと早合点したからである。

 その夏に会社実習があり福島県にある勿来工場(現いわき市)で2週間ほど実習した。勿来は「来る勿かれ」の地であり、勿来の駅やその周辺を見て陸の孤島に来たようだと言っていた人もいたが、勤務地は東京と思い込んでいたので他の実習生と楽しく過ごした。
その実習に参加した人とは入社時には顔なじみとなっており、初めて会う人とはちょっと親しみが違った感じでもあった。

 呉羽に入社するにあたっては、入社日予定日が4月1日だったので、薬剤師の国家試験を受験すべきかどうか人事に問い合わせたところ(そのころ薬剤師の国家試験は一般的に4月1日を中心に2~3日間実施されており、大半の製薬会社では国家試験に合格して本採用となる条件が付いていた)、君を薬剤師として雇うのではないので(薬剤師の資格は不要)入社式を優先し、薬剤師の資格を取りたければ、国家試験は後日有休を使って取るようにとの回答を得たので、卒業論文作成に集中すれば良く、卒論も無事書き上げ、昭和38年3月に卒業し4月1日に呉羽に入社した

当時の呉羽化学についてはダイヤモンド社の産業フロンティア物語「塩素利用工業 呉羽化学」(昭和44年発行)に詳細に書かれているので、割愛する。(当時は荒木社長で、その中に「経営とビジョン」をきくという章があり、社長の仕事・フィロソフィー・研究所のあり方等々大変役立つことが書かれており、社長として20数年君臨した考え方が述べられている。)

この頃は社内の文書がすべて「カタカナ表記」であり、大変読みづらかったが、これは呉羽が伊藤忠商事関連会社であり商事の創業者一族の一人が「カタカナ表記」主義者であったためと言われていた。

2-2 錦工場

昭和38年4月1日呉羽化学工業(株)入社(大卒は技術系38名事務系8名)。入社式は中央区富沢町の呉羽紡績の講堂で行われ、辞令を貰った午後には、福島県勿来市(当時・現いわき市)錦町にある錦工場へ着任した。

写真は当時の錦工場(塩素利用工業{呉羽化学}ダイヤモンド社より)



呉羽化学独身寮(呉羽クラブ:当時は大学卒用の独身寮)に入居(同室に先輩H-ちょっと変人で6畳間をカーテンで真っ二つに仕切ってあった。人事担当の人からかわいそうだが我慢するようにといわれた)してクレハの生活が始まった。

教育が終わり、現場実習は第1製造部薬品農薬部農薬課を3交代勤務で行った。当時の第一製造部はK部長で農薬・薬品部はO製造部次長兼薬品課長、F農薬課長兼BHC係長だった。
O次長はクレスチン承認後に本社に出来た医薬品部の初代部長として来られたのでまたお世話になることになる。

当時の技師長であったSの命令?で新入社員は3年間3交代勤務を義務とすることになっていた(これを聞いて辞めたいと思った人が居たし、現に退社した人が出た。また勿来での生活に我慢できないことも理由の1つだった)。

3交代は6時から14時までの朝勤、14時から22時までの夕勤、22時から朝6時までの夜勤であり、5日間隔で勤務がまわって来たが、何しろ変則勤務であり体調維持と夜勤における眠気防止が大変だった。
最初の頃は東北弁が難しく会話がなかなか出来なかったが3ヶ月もすると「んだんだ」「・・だっぺ」と東北弁にすぐなじんだ。夜勤の時はその頃流行りだした「チキンラーメン」をよく食べた記憶もある。

農薬課は塩素利用製品のDDT、BHC製造現場であり、原料の塩素と溶剤にまみれる大変な現場だった。特に夏の季節であったため、汗にまみれた体にBHCやDDTが付着すると体中に汗疹や爛れが出来、特にBHCの粉砕工程は風乾(大型扇風機でベンゼンを飛ばす乾燥方法)であり、残留ベンゼンと残留塩素を持ったBHCを床にまいて自然乾燥させるという現在では考えられない環境下での作業だった。汗が眼にはいるとそれと共にBHCが眼に入り実習期間中「ものもらい」に悩まされた記憶が甦ってくる。
通称ブタマスクといわれる吸着マスクを付けての作業だったが、長年ベンゼンなどの溶剤にさらされた現場の従業員のその後は大丈夫だったのだろうかと今でもかなり心配である。

BHCの大増産計画とインドへの技術輸出の話が出てきて、農薬課で実習中の3人の3交代勤務は予想に反し10月で終了し農薬工務室にてBHC増産のための実験のデータ取りを行った。他の部署で実習した人々は殆どが3年間の3交代勤務を完遂したが、これがどうその後の仕事に役に立ったかはよく分からない。Sが退いてすぐこの制度(新入社員の3年間の3交代勤務実習)は無くなったと記憶するが、その当時は終身雇用の概念があったため、従業員の教育という名目で、色んな無理が通った時代でもあった。

2-3 技術部から錦研究所へ

BHCの増産とBHC製造プラントのインドへの輸出のためのデータ取りが終わって、39年6月技術部へ配置換えになった。といえばカッコいいが、現場での会議の時に、農薬課のF課長に「上意下達で何事も決めるのではなく、現場の意見を吸い上げるような会議にするべきだ」などと意見を具申したのでそれが原因かと勝手に思ったが、FやNも同時に異動になったので、思い違いかもしれない。

技術部は工場のバラック建ての長屋みたいなところにあり、BHCγ体の含量UP実験やラブコン(塩素系除草剤)試運転立ち会いが思い出されるが、F達が行っていた重合反応試験中にシールしたガラス管中での加熱実験で溶媒のオイルを加温中に食事に行き、加温していることを失念し、突然ガラス管が爆発し部屋中がオイルだらけになり、鉄製のふたが吹っ飛んで危うく女子従業員を襲うかと思われたような事故も体験した。技術課長のKにはそれらを含めてよく怒られたが、Kは根は優しくFが将棋を指したので、将棋を指しに良く実験室に来たのを覚えている。
思い出の1つにSさんがK課長に怒鳴られながら、俯いているうちにコックリコックリとし、またまた怒られたということもあった。

当時一緒に働いた技術部の仲間が東京研究所(以下CTと記すことがある)へ転勤になったが、それは「特別ボーナス」を出すのでその課で一番優れた人を推薦するようにとのことで、推薦された人は当時呉羽の次世代を担う事業と目されていた石油化学(ユリカ、SN)の実験に異動になった。
ただ、彼は異動の後、長時間の重労働に耐えかねて精神に異常を来たし自殺に追い込まれたといううわさが出た(社内報では病没とあるので真偽不明)。
選抜方法は姑息な手段と思ったが、我々は優秀ではなかったので助かったのかも知れないし、薬学は石油化学とは結びつかなかったので石油化学には向かなかったのかもしれない。
技術部が41年9月突然解散となり、錦研究所へ配置換え(技術部は民青の巣であり解散以外では民青の力を弱めることが出来ないといううわさが出たがこれも真偽不明)になり、農薬研究グループ(責任者I)の農薬合成グループに配属された。私はAグループに属したが、Aは非常に個性豊かな人物で、指導を受けながらもよく反発した記憶がある。錦研究所の3階の奥にあった31号が実験室兼居室だった。

写真は錦研究所と内部の31号室(塩素利用工業より)





農薬合成グループは殺菌剤、殺虫剤、除草剤の合成研究を行っていたが、Aグループは稲熱病用殺菌剤の開発に注力していた。
Aによれば当初は呉羽が製造していたPCP(除草剤)が(PCPでは除去できない雑草があるため)パムコンで代表される混合薬剤に取って代わられる様になりその対策として同じような混合薬剤の開発を目指していたそうである。他方新農薬の発想源として天然有機化合物に当然着目し、その中から酸素環を有する化合物に興味があったとのことであった。
私もAの指導の下、塩素利用の化合物の合成を心がけて合成実験を開始した。

フタリド型の化合物は当初はホルモン型除草剤の研究中に合成されたが、除草効果はなく3年後に稲いもち病菌に対する活性試験でその効果が見つけられ、殺菌剤として開発されることになった。(稲いもち病防除剤スクリーニングの手法導入は昭和39年)
PCPには魚毒があり、低魚毒除草剤の研究開発が行われ、ペンタクロル・フェニルアセテートが低魚毒性除草剤として登録されていたが、これにも稲いもち病菌に活性を示し昭和41年から「ラブコン」の商品名で市販された。(私は技術部にいた時にラブコンの試運転に立ち会ったが、濾過工程が難渋し、その解決に相当の時間をとられたと記憶している)


2-4 ラブサイド

Aがフタリド化合物として合成したN432と名付けられた化合物はin vitro試験(試験管内試験)では活性を湿さなかったがPot試験ではいもち病に効果を示した。N432は他のグループの開発した2剤と共に、台湾での圃場試験(公式委託試験の予備試験として)での耐熱効果試験に参加したが、途中の報告では他の1剤が非常に良くて、N432の効果はそれより劣るとされていたが、正式な報告書が来たときはN432が圧倒的な成績で優勢とあった。

他の一つはin vitro(試験管内試験)では抜群の効果を示したが、圃場に出して光が当たると分解して効力が無くなってしまったので、ナイトクラブ用殺菌剤と言われたものだ。

その結果、N432がいもち病対策の対策の開発品目となり、その合成法や、毒性、生分解性等商品化に向けての試行錯誤が行われた。
(N432は開発に成功しラブサイドとして市販されたので今後はラブサイドと称する)

実験室ではオルト-トルイル酸のベンゼン核に4ヶの塩素基を導入後、測鎖のメチル基を塩素化し、加水分解することによりフタリド化し、ラブサイドを合成したが、別な目的でオルト-キシレンを全塩素化し、硫酸で加水分解した生成物の構造を研究していたSがラブサイドとよく似た分析データに気づき、その成分がラブサイドと同一であることが判明した。
その結果安価なラブサイドの新規合成法が確立した。その製造法を特許出願したが、公告になる前にバイエルの同様な特許が呉羽より数ヶ月ほど前に出願されていることが判明した。特許回避策として、ベンゼンジスルフォン酸などを使った加水分解法を考案したが、採算が取れないため、結局ロイヤリティを払って硫酸加水分解法で工業化をすることになった。 特許がいかに大事であるかを実感した。この後私も特許で苦労したり、儲け話につなげたりしたが、これは後に述べよう。

当時は有機水銀系稲いもち病防除剤に代る抗生物質、有機リン系化合物及び合成有機塩素系化合物などを各社とも活発に研究を行っていた時代である。
例えば三共の「ブラスチン」(昭和40年発売)も当時は稲いもち病防除剤としてよく売れたが、稲藁として堆肥にされたり、敷き藁に使われ、野菜(インゲン、メロン、キューリなど)に対する第2次薬害(奇形や生育障害)の発生が明らかとなり、損害補償するなど(三共三島の農薬工場を手放すなどして補償費を工面したと言われた)の事件を起こし撤収された。これはブラスチンの直接作用ではなく、代謝産物による植物ホルモン様作用であり、次第に第2次薬害と称されていた。この結果他社で開発中のペンタクロロトルエンの誘導体は同様な作用を有することからほとんど全てが開発中止となったようだ。

ラブサイドには幸い第2次薬害の発生は見られず(植防協会に特別委員会が設けられ、全国の農試、園試を中心に検討され、第2次薬害の問題が生じなかった)、昭和45年8月に登録がおり、昭和46年に販売を開始した。 その後いもち病剤の標準薬剤となるなど、一時は当社を支える商品になり、長期にわたって利益を上げた。 
社史によれば1971年からの10年間で原薬1万トンを超え、Sの話によれば30年間で営業利益は100億円を超えているだろうとのことだった。



研究室長だったIはラブサイドの成功で農薬試験室を拡充改築し、農薬研究の本格的な実施を推進した(この建て屋はやっかみがてらI御殿と称された)。
またIは農薬研究の在り方をラブサイドの成功と同時に再検討を開始し、案をみんなで検討し、微生物応用研究も別な柱として立ち上げることになった。

 昭和46年に応用微生物研究グループはHを中心に旗揚げし、Hと私がサブリーダー的存在となり、医薬品、飼料添加剤、酵素阻害剤などの開発を目指し、菌の収集、培養、精製などの設備を整え、優秀な人材を集め研究がスタートした。

応用微生物研究がスタートして1年過ぎようとしていた頃、副所長になっていたIから呼ばれ東京研究所の壬生分室への転勤を告げられた。

錦工場勤務中で印象に残る出来事を2,3あげてみる。

*昭和44年のアセチレンタンクの火災は場合によっては工場の生命線をも揺るがしかねない事態であったが、最小限の被害で済んだのは不幸中の幸いだった。一社一工場の危うさも感じたものだった。

*昭和41年いわき市が誕生し当時日本1広い市が誕生し、勿来市が消滅した。

*農薬試験室の女子研究員が朝の通勤途中に交通事故に遭い数日後亡くなった。まだ20歳の若さであった。

*水銀型電解による塩素の生産ではその頃「チッソ」の水俣病が水銀分解物の蓄積が原因らしいと報じられていた。当社も同じシステムであったが、排水が太平洋に注いでおり有明湾のような蓄積がなかったため、水俣病が発生しなかったと思われた。ただ、途中の蛭田川は廃液の影響からどす黒く濁っていた。

*忘年会後酒を飲んでいたにもかかわらず、同僚を平の自宅まで自家用車を運転している途中で歳末検問に引っかかった。同僚をぐでんぐでんに見せかけ、酒臭いのは同僚のせいにし、ブレーキライトとウィンカーのチェックで切り抜けた。この頃は酒気帯び運転はまだ許されていた時代であったので、切符を切られることはなかった。自家用車を若い者が持ち始めた頃で今では信じられない時代であった。




クレスチンkrestin

クレスチンとその周辺


1:初めに


クレスチン(krestin)は呉羽化学工業株式会社(現株式会社クレハ 以下クレハまたは呉羽という)が開発し、三共株式会社(現第一三共株式会社 以下三共という)が販売した抗悪性腫瘍剤であった。
昭和52年(1977年)にクレハが承認を取得し、翌年5月薬価収載され三共から発売されたが、瞬く間に売り上げが伸び、医療用医薬品単体の販売高として第1位を獲得するようになった。
だが、その栄光も10年ほどで後発品の出現と再評価を受けて瞬く間に終わりを告げた。その栄枯盛衰を如実に表すのが国際医薬品情報(1997/2/24号)に載った図である。

図1-1 制癌剤の販売高の推移


薬価基準での売り上げ高の年度別推移とその時期のトピックスをまとめると下記のとおりである。

表1-1 クレスチンの売上と薬価の変遷

年度

売上(億円)

薬価(g)

備考

昭和52年

113

1166.20

5/2発売

昭和53年

321

1141.90

 

昭和54年

431

 

昭和55年

519

 

昭和56年

450

1084.80

丸山ワクチン承認問題

昭和57年

485

 

昭和58年

510

 

昭和59年

515

1030.60

 

昭和60年

515

991.40


昭和61年

530

 

昭和62年

515

再評価指定

昭和63年

490

960.70

ゾロ品上市

平成元年

350

983.80

再評価結果通知12月

平成2年

135

886.40

 

平成3年

125

 

平成4年

110

 

平成5年

95

 

平成6年

91

869.30

 

平成7年

82

 

平成8年

69

824.70

 

平成9年

60

791.00

 

平成10年

52

 

  国際医薬品情報、1994.3.14等より   別冊ファインケミカル臨時増刊「制がん剤の最新事情」1981.11.16より  平成183月期46億円、平成193月期37億円(製薬企業資料より三共の販売高)

クレスチンについては丸山ワクチン絡みで承認時経過が不明朗と問題視されたり、再評価で効果なしと報道されるなどマスコミからもたたかれた。

再評価後は年々売上は減少し、ついに平成30年(2018年)3月には販売を終了し、クレスチンは過去のものとなった。

平成12年に呉羽を退職し、介護を18年間行うとともに、薬剤師の資格を生かして仕事も続けたが、介護も終了し、80歳で仕事も引退した時にコロナ感染症の影響で外出もままならず時間がたっぷりとれるようになった。
また、加齢が進むとともに認知症の疑いを拭い切れないという診断も受けているので、認知症進行阻止にも役立つかと思い、ブログを書くことにした。

クレスチンの開発研究に途中から参加し、その後承認申請作業、承認後の販売に携わり、一時開発研究に戻ったものの再評価対策や後発品対策などその後もクレスチンと関わった。
このように医薬品(クレスチン)の開発から販売に至るまで長らく携わった経験は大手の医薬品メーカーではたぶん経験出来なかったであろうと思い、「クレスチンとその周辺」と題し、過去録を綴っていくことにした。

記憶違いや間違いも多々あるかと思うがご勘弁願いたい。また、ご指摘を頂ければ訂正したい。

なお、公表されたもの以外については個人名は頭文字で表記し、敬称は大半省略させて頂くこととした。
また、クレスチンは英名Krestinであるが、略称PSKと称したので記載はPSKを用いることもある。

 


  33 医薬学術部 クレスチンが順調に売上げを伸ばしている頃、N専務は今後も新薬が出続けることを期待し、且つK-247の申請が問題になった事もあり、医薬関係の組織として本社に臨床試験を担当する部門が必要だとして精密化学品本部に医薬学術部を昭和58年7月に立ち上げた。 その部員と...