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3 突然の転勤

 3-1 東京研究所壬生分室

 S48年4月頃上司の錦研究所のI副所長に呼ばれ、東京研究所壬生分室に転勤するように指示された。私一人ではなくNと2人の転勤命令とのことだったが、理由は言われず自分の力の及ぶところではないとのことだった。研究所のW所長からでさえ上からの命令だということだったが、後では0専務からの依頼で東京研究所で開発進行中のPSKを壬生で考えさせるようにとのことだったと聞いた。所長からは「PSKの開発については秘密が多く、状況がよくわからないので、入手した情報は送るように」との指示があった。が結局守れなかった。

 研究に関する何の情報もなく、S48年8月末にNと共に栃木県下総群下都賀郡壬生町にある呉羽の関連会社・栃木プラスティック(株)の隣に位置していた東京研究所壬生分室に転勤した。

           当時の壬生分室の写真(錦研究所と比べると?)


 
転勤に際し錦研究所長から1~2年でまたここに戻す予定なので、家財道具などで生活に不要なものは工場の倉庫にしばらく預けておいたらどうかとの話もあったが、実際には誰にきいてもどこにおいて良いのやら分からず全てを持って壬生に転勤した。後日談となるが結局錦研究所へは戻ることが無かったので賢明な判断となった。

 Nは壬生に転勤するに当たり、自分で住む家を探してきた。新築の3軒長家で家主は校長先生だったが、社宅をかってに壬生に契約したNに東京研究所の事務長のKは激怒したという(東京研究所の所属なのに勝手に家を決めるなんてと)が、結局そこも社宅となり住むことになった。 

壬生分室は元は北日本食用菌研究所という会社であり、その会社はシイタケ菌の生産販売を行っていたが、経営不振で閉鎖する予定のところを東京研究所のYがO専務に頼んでPSKの原料となる「かわらたけ由来のCM101菌の培養と研究」をするために呉羽が買い取ったという。(1968年?の頃)

壬生分室ではWを中心にCM101株の静置培養G、その後処理工程G、タンク培養研究Gのグループがあり、多くの人たちが研究していた。

 PSKの原料であるカワラタケCM101の培養は当時は静地ビン培養で行われており、1350mlのガラスビンに培地200~220mlを入れ、殺菌後、CM101の母菌を接種し、25℃前後で静置培養する(21日~27日)。培養すると菌糸体からきのこ(子実体)が生えるきて、その「わらじ」(わらじの格好をしており、我々はそれを「わらじ」と呼んだ)を取り出し、洗浄し棚段式の乾燥機にて乾燥し菌糸体を得ていた。1日当り5000本程のビン培養が行われていた。培養はPSKの需要により増減したが、赴任した9月頃は連日大量の仕込みが行われていた。

 乾燥菌糸体は熱水にて撹拌抽出し菌体を分離後、硫安塩析し透析膜にて脱塩した。濃縮したものは褐色の液体であり、それを東京研究所にて乾燥物換算3g入りのポリ容器詰めにし凍結保存した(味があまり良くないため飲みやすくするため砂糖を少々添加することもあった?)。製剤の形としては濃縮液をスプレードライし、乾燥粉末にすることが望まれたが、当時は凍結品で出荷されていた。熱水抽出物は以前はイオン交換樹脂を通して精製らしき手段をとったらしい(以前錦研究所時代に東京研究所見学があり、その時にはカラムを通した白い結晶をPSKといっていたような記憶があった?)が、S48年には上記の方法が確立していた。

         当時の壬生分室での培養風景(Wから提供された)




 壬生分室では研究という仕事は特になく、PSKの増産体制の作業としてカワラタケCM101の静置培養(ビン培養)の手伝いをしていた。それまでの仕事から考えるといきなり単なる肉体労働の仕事になり、このままでは大変だと思い今後のことを考えていた。その頃錦研究所の農薬関係者が社内旅行の途中に立ち寄り、私が長靴をはいて瓶洗いをしている姿を見て「何してるの」と笑われたのは屈辱的だった。  

 壬生への転勤後は必要最小限の荷物のみ開梱し、すぐ次へ引越し出来る体制(退社も含めて)を維持しておいた。大学の恩師には一応状況を報告し、退社の可能性があるのでその時はよろしくお願いしますと連絡したら、製薬会社であれば何とかなるよと言われ、それを背景に状況次第では退社も止むを得ないかと考えた。長女はまだ1歳で今後のことも考え、妻子を実家に帰し、東京研究所でPSKの実務担当者であるYに相談に行った。単なる肉体労働がこれ以上続けば、退職も考えなければとの覚悟をほのめかした。Yはビン洗いでは可哀想だし、しばらく東京研究所に来て勉強するよう取りはからってくれた。(会社の四谷寮に逗留し、半月ほどそこから東京研究所に通った。)

3-2 東京研究所へ

  S48年10月からはPSK出荷量が増大しその生産に対応するため再び壬生分室に戻りビン洗い等に従事したので、体力の限界と仕事への意欲喪失を覚えYに内部転勤を依頼した。かなわなければ退社する旨を伝えた。それが効いたのか11月に壬生分室から東京研究所へ内部転勤し豊島園の社宅に引越した。壬生分室は東京研究所の管轄であるので内部異動ということで正式な異動は発表されなかった。

             当時の東京研究所入り口

旧陸軍軍毒ガス研究所(?)と言われた研究所本館

 
 東京研究所(以下CTとも記す)ではU主任研究員がPSK関連研究のチーフでおり、Yは当時まだ組合員であったがPSKの開発責任者であり、その気力、体力はすごかった。Yの後ろ盾はO専務であり、専務専用の車に同乗し壬生とCTをよく行き来し、がん関係の本も数冊頂いた。

Yのグループ(B2)は旧CTの本館2階にあり、各人に個人の机はなく大きい机のまわりに椅子をおいた状態であり、錦研究所の各々に机のある状態から見ると研究環境は良く無かった。
 
翌年3月に新宿の大久保社宅に引越した(CT事務長Kから引越さないと永久に豊島園の社宅だよと脅されやむを得ず引越した)。結婚した時に勿来から引っ越しすることはないと話をしていたので4回目の引越しにはさすがに妻は約束違反と訴えたが、結果的には東京住まいが継続することになった。(豊島園の社宅ではAの奥さんになっていた旧農薬試験室の知り合いが飛び降り自殺し、これが原因かはわからないがしばらくして全面建替えになった。)

3-3 社史より

ここで社史によるPSKに関する記述より、研究の発端を引用しておく。

p419 第6節 高付加価値事業の拡充

1.クレスチンの開発と医薬事業への進出
クレスチン研究の発端
 クレハロンフィルムの登場は、魚肉ソーセージの常温流通の普及を加速し、我が国の食品産業に流通革命を起こした。その過程で呉羽化学は、1960(昭和35年)年に東京研究所月島分室(現食品研究所)を設立してクレハロンフィルムをはじめ各種包装材料や添加物の毒性について研究を開始した。クレスチン(PSK)は、この東京研究所月島分室における研究グループから生まれた抗悪性腫瘍剤である。
この研究グループは、1964年に月島から新宿区百人町の東京研究所へと移動して、生化学班と呼ばれるようになった。研究の重点が、食品防腐剤に移り、その活動はしだいに幅を広げていく過程にあった。呉羽化学においては、農薬のように食品以外の分野でも毒性試験を必要とする分野がある。また、この頃から欧米を中心に専門家の間では、食品添加物の発ガン性に関する関心が高まり、生化学班でもこの問題に関する勉強会がひらかれるようになっていた。
生化学班の吉汲親雄は、1965年に郷里の滋賀県甲賀郡水口町に帰省したとき、同町の甲賀病院で胃癌末期と診断された老人がかわらたけ等を含む「さるのこしかけ」の熱水抽出物を服用して奇跡的に回復したという話を聞いた。この話に興味を覚えた吉汲は、当時の研究所長の大塚重遠に研究の許可を申請した。大塚は正規のテーマとしては難しいが、いわゆる裏研究であればよいという意向であったので、吉汲たちは動物実験のメンバーとともに、残業時間を使って研究を始めた。すなわち、吉汲は休日などを利用して担子菌類の採取に出かけ、週末には正規の研究課題が終わると、採取してきた担子菌の抽出、分析を行った。動物実験のメンバーは抗悪性腫瘍効果を確認するため、マウスの実験腫瘍として知られているサルコーマ180(結節型)を用いたスクリーニングを行った。吉汲たちが採取した担子菌類の総数は200を超えた。これが「クレスチン」研究の発端であった。
 吉汲たちの裏研究は、その後数年間続けられたが、その間に有効画分の構造に関する研究にも着手した。その結果、有効画分は蛋白多糖体と判明したので、1968年に研究者の1人を京都工芸繊維大学化学教室に派遣して構造研究を進めることとなった。また、栃木県壬生町で食用菌(しいたけ、なめこ)を生産販売していた北日本食用菌研究所が業績不振で閉鎖されることになったのを知り、その内部施設の利用について交渉し、研究用に担子菌を培養する設備と体制を整えた。これらの計画の実施にはしかるべき予算措置が必要である。した、がってクレスチンの研究が正規の研究テーマとして公認されたのは、この時点であったといえよう。しかし、この前後から呉羽化学は、全社をあげて原油分解プロジェクトを推進する体制を取りはじめ、70年には東京研究所の研究陣も、ほとんどが原油分解プロジェクトに参加していった。クレスチンの研究は着実な進展を見せていたが、生化学班の存続が危ぶまれる状況となったのである。しかし、副社長に就任していた大塚が、研究の進展を評価して、その継続を主張し、クレスチンの開発研究は続けられることとなった。この間の研究成果は有望な担子菌の継代培養が進められ、68年には担子菌類さるのこしかけ科かわらたけの1系統(CM-101株)を選定する段階に到達していたことである。CM-101株を培養して得られた菌糸体からの抽出物が、抗悪性腫瘍効果の点だけでなく、安定性の点でも優れていて量産しやすい最適の株であることが確認されたのである。このように、初期の研究対象であった子実体だけでなく、菌糸体も同等な抗悪性腫瘍効果を持つことが判明したので、以降の研究はCM101株の菌糸体由来物を用いて行われることとなった。これまでの成果に基づいた特許の申請手続きも行われた。

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