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27  開発中止 K-18・K-MAP・O-16 ・KDR

上記の一連の化合物はYグループが開発したか開発に関与したものであるが、いろいろな理由で商品化に至らなかったものである。それぞれ簡単に記述する。
 
*K-18
K-247と平行してK-18という化合物も治験申請されていた。二つの制がん剤を同時に治験するには人材が不足し先ずk247が先に臨床に入ったが残念ながら申請取り消しに至ったので次はこのようなことが無いようにと慎重にスタートした。室長のYはK-18の開発に傾注することになった。

K-18は免疫グロブリンと既知の制癌剤メルファランを縮合させた制癌剤であり、免疫グロブリンが腫瘍に多く存在することをヒントに、制癌剤の毒性が軽減され、効果が持続することを狙った一種のDDS(DrugDeliverySystem)である。


                k-18の構造式

メルファランと他の制癌剤との比較試験は一応行われたが(MMC、ブレオ、アドリアマイシン、クロラムブチル、エンドキサン、ACNU等々)効果はバラバラであったが、各制癌剤が持つ副作用をある程度低減させた。 
 
メルファランは水溶性でグロブリンと合成が可能、既承認であり特許上問題が少ないという理由で選択されていたようだが、元々メルファランは適応症も限られており使用量も国内では少なかったので選抜理由も詳細に検討したものではなかったと思われる。アルキル化剤だから癌細胞に到達すれば効くだろうという漠然とした効果を期待したようだが、なぜ他のもっと優れた制癌剤を選ばずにメルファランを選んだのかとの質問はドクター達からよく質問された。 
 
静脈注射での効果は高かったがその特質(グロブリンは血液製剤)を考えることなく、また製剤上の苦労も考えて、(PSKの成功が経口投与であったことから)商売上の利点からかある程度効果のあった経口投与剤として治験届けが出されていた。 
 
原料の免疫グロブリンは血液製剤であるため、絶対量の確保がかなり難しいと思われたが、この当時はアメリカ(USバイオ社)から免疫グロブリンが試薬として購入できたので、それを合成したメルファランと縮合させてK-18を得ていた。

開発途中の昭和57、8年頃いわゆる「エイズ:後天的免疫不全症候群」が見つかり、原因が色々と検討され、結局エイズウイルスが特定された。エイズは1981年6月にアメリカで男性同性愛者の間に5例の原因不明の免疫不全の症例を発見したのがエイズの始まりと言われている。82年7月には「AIDS」と命名され、83年5月パスツール研究所が原因ウィルスを発見し、日本でも6月に「厚生省エイズ研究班が発足した。

エイズウイルスを含む血液製剤が日本で大量に使われ、エイズに感染する人が多数出て、いわゆるエイズ被害が出て、血液製剤でエイズが発症することを知りながら、それを隠してミドリ十字の血液製剤を広めたとして、帝京大の阿部教授らが指弾されたことはこの頃の薬害被害のトピックスとなった。
        

               裁判中での阿部教授

血液製剤を加熱処理をすることでエイズウィルスが死滅する事実を知りながら、製薬会社の利益確保のために、非加熱製剤を認めたことがその後の薬害裁判の争点であった。結果的にはミドリ十字は薬害を認めたが、阿部は認めず、裁判中に認知症になり、不起訴になった。 
ここで原料の免疫グロブリンが問題になってきた。 
 
我々はエイズウイルスが混入している可能性が考えられた段階で、免疫グロブリンを加熱処理を施して、エイズウイルスを不活性化させて使用することにしたが、加熱処理を行う前に作成したK-18でエイズウイルスに感染した可能性が皆無では無かったと思われるが、当時は癌患者が治験の対象であったため、エイズの発症については情報は得られなかった(大半の患者は癌で死亡していた)。 
 
治験中には将来商品化され時のために免疫グロブリンの確保が問題になった。血液製剤は人からの献血で成り立つので原料として確保できるのかと厚生省からも質問が出たがアメリカから輸入できると強弁しながら治験は進行させた。この件についてはYグループのO君の弟が弁護士をしており彼経由で生物製剤課に問い合わせしてもらい、血液製剤に関する法律は血液を取り扱う業者を対象としたものであり、それに由来する医薬品は原材料も含めて全てが薬事法の制約を受けるとの回答を得た。(採血を業者が行うためには採血業者のライセンスを受ける必要があり現時点では採血は出来ないとのことだった。)
 
一方CTではPSKに抗エイズ効果を認め、類縁BRM(Biological Response Modifiers)型抗エイズ薬の開発にも乗り出した。後日、不二ラテックスとの共同研究のもととなった特許はこの時の成果を特許化したものである。これについては別項で述べよう。 
 
k-247の経験をもとにして臨床試験の専門部署を立ち上げることになった。本社精密化学品本部に臨床試験を担当する医薬学術部(昭和58年7月医薬学術部発足:N精密化学品本部長兼務医薬学術部長、H医薬品部長兼学術部副部長、O主査が部員ら)が発足しており、K-18以外にCTの他の研究室で開発されたK-2210という制癌剤も同時に治験に入っていた。(このK-2210はCTのEと知り合いの東大3内講師O先生が開発に関わった制癌剤である。この治験の承認申請取り下げ願いをも後日担当することになるとな夢にも思わなかった)この学術部創設がYグループから臨床試験を取り上げることになり、結局医薬品開発のネックになった。
           

           医薬学術部創設(昭和58年7月呉羽時報より)


学術部発足にともない新たな人材の採用や技術系の人事異動が発令された。CTからもずいぶん異動したが、残念ながら経験者といえる人たちでは無かった。K-18の治験は本部長N→H。部長S→N。課長O→S→K→H。の体制で行われた。

学術部要員として他社の経験者や新人が途中採用として多数入社したが、この組織下では働けないとすぐ悟り大半はすぐに退社した。他社から引き抜くとすれば学術経験の豊富なマネージメントの出来る人材を採用すべきであったが、残念ながらそういう考えまでには至らなかったということだろう。 
 
学術部のK-18の担当者の中にはH(医薬品部から異動)もおり、彼は治験先にも行かず、症例の収集もしなかったらしい。事務のM女史がある時「他の人は仕事に行って忙しいのにHさんはいつも居ますね」と質問したところ「仕事をしないという仕事をしている」と謎めいた返答があったという。これはNが「K-18はYの研究だからこちらの仕事は極力進めないように」と言ったために、Nの命令を守ったHは「K-18の仕事をしないという仕事」に精を出したということであろう。Hが担当した病院に行って聞いてみると確かに彼はほとんど来ないか、Hという人物を知らないということだった。

この学術部の中にZ君がおり辣腕を発揮して症例確保に全力を挙げていた。彼は他の制癌剤であるK-2210の担当でありK-18の担当ではなかったため大半をK2210にとられてしまい、彼の担当施設ではK-18の治験は大幅に遅れを取った。その理由はZはあたかもYグループのような顔をして「K-2210K-18より先に治験して良い成績をお願いしたい」と言っていたという情報もあった。ドクター達はZが当然Yグループと思い込み(Yと仲の良いドクター達はYの頼みならと)奏効しそうな症例をk‐2210に振り分けておりK2210は良い成績を取得していた。

また、依頼された病院のドクター達の中には学術部員から「K-18の症例は効かなくても良いから、ステージの重い患者でも何でも良いので例数だけはやって欲しい」と頼まれたという。ドクター達もこのような症例収集のやり方では効くものも効かなくなるよと言って驚いていた。ステージⅢやⅣでは既に許可が下りている制癌剤でも効果を発揮することは少なく、このような症例の集め方は「無効例を多数集積し、K-18は効果がない」という方針を貫くために行われた話であり、これではK-18は潰されると思ったし、他のすべての治験もうまく行くはずはなかった。

このような状況下でK-18は苦戦を強いられたので、Yはこれを打破するためにYグループで症例集めを推進することを考え実行に移した。Y一派のベテランが各Drのところに行き、治験症例の集積をお願いし、徐々に症例が集まり始めたが、なにしろ本社医薬学術部の症例が「効果なし」で大量に集められたため申請に必要な奏効率20%以上に達するのは難しくなりつつあった。有効例を1例確保する間に無効例をすぐに10例以上集めてくるのでは勝負にならなかった。

その後CTと学術部との症例検討会で治験の結果を検討し治験症例の集積を続行して行なうと決めたにも関わらず、その日の本社の学術部の会でこの治験終了するという結論を出した。それはNの方針に従っただけであったろう。

その時の学術部長はSに替っていたが、内弁慶で外部に出るとドクターと一言も話せなかったという。治験経験の全く無い人物をいきなり学術部長にせざるを得ないほど人材不足であったのか、それとも無知な方がNのコントロールがたやすかったのかは分からない。このような部長の元では臨床試験はほとんど不可能であったろう。しかし、NはそれでもPSKが売れていれば良いという考えであり、「坊主憎けりゃ」と典型的なY憎しで懲り固まっていたため、K-18はつぶすと決めていたものと思われた。

医薬品を生かすも殺すも人次第であり、結局臨床治験の経験の無い学術部とY憎しのNの采配で、Yグループの殆どの医薬品は消えていった。

 ここで改めてNY戦争の原因をまとめてみよう。当時色々な説が言われていた。

・クレスチンが承認されたとき、Nは申請書を読んで製造に関してタンク培養について65トンタンクで難しいのであれば実績のある2トンタンクを並べて生産すれば良いと進言したのでクレスチンの開発者だと言ったそうだがYは開発者ではあり得ないでしょうとやんわりと諭したが論功行賞の欲しいNはこれを根に持ったという 

・H医薬品部長が着任したときに私に医薬品部に戻るようYに要請したが、兼務を解かれてすぐに戻るのはおかしいと断ったことの原因がYの拒否によること

・ある銀座にクラブでNとY二人が飲んでいたときに「Nさんはいつも交際費で飲むのみで自腹なんか切ってないでしょう。私は自腹で数百万使いましたよ」と皮肉ったのを根に持たれたこと

・また飲んだ時にNにここのママはNの囲いものかと聞いたこと

・医薬学術部が出来たときCTから私を含め臨床経験の深い人を出して欲しいと要請したのに大半が未経験に近い人を出したこと。

・Yのワンマンぶりに嫌気を差した若い連中が色んなところでYの元では働きたくないといっているとの進言があったこと

・学術部主催の研究会の時、Y達が謝礼を前もって配ったため「研究所から貰ったのでいらない」などと研究会を混乱させたこと

等々であった。結局色んな説があったが本当の原因は不明である。これらが総合的に働きNY戦争になったのであろう。この戦争は長く続くことになり、Yグループは大いに苦労することになったのは事実である。Nが退職した後もその意を引き継いで色んな人達がYグループを敬遠した。それもYが何かにつけて彼らにPSKをどうするつもりだ、こうして欲しいと結構無理を言ってきたことが原因でもあったとYの同期から聞かされた。彼は一見Yのいうことを笑顔で聞いていたが腹では大嫌いだったと医薬関係から離れたときに打ち明けた。

 

 開発の経過をまとめておこう。

東京研究所でのK-18のプロダクトマネージャーはF君であり、私は相変わらず全体的な臨床担当で、問題があればそこを訪問して治験を進行させる役目をしていたが、K-18についてはDrからあまり期待しない方がという話は聞いていた。経口剤にした理由が良く分らない、注射剤であれば効いたろうにとのことだった。

「K-18研究の歴史」

昭和50年 前臨床試験を開始

昭和559月 治験申請(私は6月にCT専属となった)

昭和56年~昭和5811月 フェーズⅠパイロットスタディ 58年7月本社に医薬学術部創設され治験担当が本社に変った

昭和591月~12月 フェーズⅠスタディ追加実施

昭和604月 K-18研究会発足(消化器癌、肺癌、乳癌、造血器腫瘍、小研究会の各部会)

昭和612月 肺癌Early phaseStudyまとめ

昭和6111月 消化器癌Early phaseStudy中間まとめ

昭和621月 造血器腫瘍Early phaseStudy中間まとめ

昭和624月 乳癌Early phaseStudyまとめ

昭和6310月 小研究会(婦・泌尿)Early phaseStudyまとめ

平成元年3月 消化器癌(胃癌)Early phaseStudyまとめ

平成元年4月 造血器腫瘍Early phaseStudyまとめ

 

昭和604月に発足した研究会は

代表幹事:木村禧代二、斉藤達雄

幹事:井口潔、近藤達平、太田和雄、田口鉄男、大沢利昭

部会長:消化器癌 田口鉄男、肺癌 仁井谷久暢、乳癌 阿部令彦、造血器腫瘍 山田一正、小研究会 関場香

消化器癌治験参加施設(32施設36科)

:部会長 阪大微研 外科 田口鉄男

・ 北大 第1外科 内野純一

  札幌医大 第1内科 谷内昭

  札幌医大 第4内科 漆崎一郎

  弘前大 第1内科 吉田豊

  東北大 抗酸研 化学療法科 涌井昭

  新潟県立中央病院 外科 中村正則

  埼玉県立がんセンター 消化器科 服部理男

  千葉大 第1外科 奥井勝二

  千葉大 第2外科 磯野可一

  千葉県がんセンター 内科 馬場尚

  帝京大 溝口病院 内科 古江尚

  東海大 第2外科 三富利夫

  東大 第1内科 岡博

  癌研 内科 斉藤達雄

  癌研 外科 西満正

  都立駒込病院 外科 粟根康行

  国立名古屋病院 内科 須賀昭二

  国立名古屋病院 第1外科 嶋地崇 

  名大 第2外科 高木弘

  愛知がんセンター 第3外科 中里博昭

  名古屋記念病院 内科 稲垣治郎

  京大 第1外科 戸部隆吉

  京府大 第1内科 近藤元治

  兵庫医大 第4内科 下山孝

  奈良医大 第1外科 白鳥常雄

  岡大 第1外科 折田薫三

  広大原医研 外科 服部孝雄

  鳥取大 第1外科 古賀成昌

  島根医大 第2外科 中村輝久

  九大 第2外科 杉町圭蔵

  国立病院九州がんセンター 内科 原泰寛

  佐賀医大 内科 堺 隆弘

  佐賀県立好生館 外科 井口潔

  鹿児島大 第1外科 愛甲孝

  熊本地域医療センター 外科 池田恒紀

 

肺癌部会(18施設21科)

代表世話人 日本医大 内科 仁井谷久暢

  札幌医大 第3内科 鈴木明

  国立道北病院 内科 坂井英一

  東北大 抗酸研 内科 今野淳

  磐城共立病院 内科 林泉

  埼玉がんセンター 内科 吉田清一

  千葉大 肺研 内科 渡辺昌平

  千葉大 肺研 外科 山口豊

  都立駒込病院 外科 池田高明

  都立駒込病院 内科 木村仁

  安城更生病院 内科 星野章

  愛知県がんセンター 第2内科 太田和雄

  京大胸研 第2内科 大島駿作

  近畿中央病院 内科 古瀬清行

  大阪府立羽曳野病院 内科 福島正博

  刀根山病院 呼吸器科 螺良英郎

  岡山大 第2内科 木村郁郎

  岡山大 第2外科 寺本滋

  広島大 第2内科 西本幸男

  九大 第2外科 安元公正

  熊本地域医療センター 外科 池田恒紀

 

乳癌部会(13施設13科)

代表世話人 慶応大 外科 阿部令彦

  東北大 第2外科 葛西森夫

  群馬大 第2外科 泉雄勝

  東大医科研 外科 藤井源七郎

  癌研附属病院 外科 西満正

  都立駒込病院 外科 富永健

  国立名古屋病院 外科 久保完治

  阪大微研 外科 田口鉄男

  奈良医大 第1外科 白鳥常男

  鳥取大 第1外科 古賀成昌

  国立病院九州がんセンター 乳腺科 野村雍夫

  熊大 第2外科 赤木正信

 

造血器部会(20施設20科)

代表世話人 名大分院 内科 山田一正

  北大 第3内科 宮崎保

  弘前大 第1内科 吉田豊

  群馬大 第3内科 前川正

  埼玉がんセンター 内科 服部理男

  千葉がんセンター 内科 小黒昌夫

  都立駒込病院 化学療法 坂井保信

  国立名古屋病院 内科 広田豊

  名大 第1内科 斉藤英彦

  愛知がんセンター 内科 太田和雄

  名古屋記念病院 内科 木村禧代二

  藤田保健大 内科 平野正美

  三重大 第2内科 白川茂

  京大 第1内科 内野治人

  福井医大 内科 中村徹

  大阪成人病センター 内科 正岡徹

  岡山大 第2内科 木村郁郎

  広島大 輸血部 岡田浩佑

  長崎大 原研 内科 市丸道人

  鹿児島大 腫瘍研 化学療法 柚木一雄

 

小研究会(9施設11科)

代表世話人 岡大 産婦人科 関場香

  国立仙台病院 産婦人科 高橋克幸

  都立駒込病院 泌尿器科 木下健二

  日本医大 第1病院 泌尿器科 中神義三

  信州大 産婦人科 福田透

  国立名古屋病院 産婦人科 鈴置洋三

  国立名古屋病院 泌尿器科 浅井順

  近畿大 産婦人科 野田起一郎

  神戸大 産婦人科 望月信人

  岡大 泌尿器科 松村陽右

  広大 泌尿器科 仁平寛己

 これをみると当時の著名な癌臨床医(大半は亡くなった)を網羅していたことが分る研究会だったが、呉羽の治験体制が未熟では宝の持ち腐れに終わった。

 臨床成績(Early phaseStudyまとめ)

胃癌 6/55(10.9%)

結腸・直腸癌 1/33(3.0%)

肝臓癌 1/18(5.5%)

肺癌(非小細胞癌) 2/55(3.6%)

肺癌(小細胞癌)0/7(0%)

乳癌 5/45(11.1%)

卵巣癌 4/10(40.0%)

子宮癌 3/9(33.3%)

膀胱癌 6/33(18.2%)

非ホジキンリンパ腫 15/30(50%)

AML 5/20(25%)

MDS 6/21(28.6%)

等々

このように一部に有用性を認められつつあったが、

*前臨床試験が非GLPデータであったことにより、その試験のやり直しに42千万円の追加費用が発生すること。

*臨床成績がメルファランを上回っているとは言えないこと。

*吸収・代謝のメカニズムを解明するのに多大な苦労をすること。

*消化器癌に適応が取れない場合当社の利益確保が難しいこと

等々を理由に平成23月に開発委員会に開発中止提案がなされ4月25日開催された開発委員会において開発中止が了承され開発は終了した。

当時の開発委員会は委員長:H医薬品事業本部長。委員:A研究本部長、T企画本部長T、T生物医学研究所長、M医薬品事業副本部長。 提案説明:K医薬品事業企画室長、N医薬学術部長というメンバーで開催された。いずれもアンチY?

 この開発では数十億円の投資が無駄になったが、我々が担当すれば少なくとも臨床成績はもっと上がったと思われ、中止の理由の一部は覆ったであろうが、なにせYの開発品は全て中止させようというNの考えは浸透しており、Yグループでの開発自体がこの会社ではもう無理となった。

K-18については開発が問題になる頃に基礎分野での公表が進んでおり、学術誌に掲載された。もちろん臨床成績の公表もお願いして歩き、相当数の公表論文が存在する。

K-18文献集の一部

私的なこととして、基礎分野での呉羽単独の一部の公表論文については私の学位論文としてその論文を用いても良いとの承諾を連名著者から得ることが出来たので、K大薬学部の同級生の助教授に相談したところ、一度教授のところに挨拶に来るようにと話が進んだ。H教授は助教授の頼みであれば断れないからと、担当教授を二人選んでくれて、論文作成が始まった。構造解析についてS君経由で東大薬学部のA教授に指導を頂き、それを中心に論文作成を開始した。経口投与ではなく、血中投与による腫瘍蓄積とK18NMRによる構造解析を中心にすえた。基礎研究に絞ったことで論文もまとまり、おかげで発表もうまく行きありがたいことにK大より薬学博士号を取得できた。

博士号取得時にもいえたことだが研究的材料があることは必然としても、関係先へのコネの有無が大いに役立つということを実感した。他の人々も大半Yの世話で学位を取得した人が多かった。


*K-MAP

  K-247と同じ頃(昭和51年頃)PABA(パラアミノ安息香酸)のマンノシッド誘導体として合成され、前臨床試験が行われ、安全性が確認され、色々な効能(抗血小板凝集阻止作用、冠血流増加作用、血圧降下作用、抗炎症・鎮痛作用、血糖降下作用など)が期待されたが、その中から抗血小板凝集阻止作用をメインとして開発を推進することになった。フェーズⅠスタディが昭和57年暮れから翌年1月まで実施され安全性が確認された。


        

              K-MAP構造式

 K-MAPの開発状況の概略は下記の通りである。

K-MAPについてはI君がプロダクトマネジャーとなり推進した。

・ 昭和58年3月にK-MAP研究会が発足した。代表世話人:東大1内教授・岡博、世話人:筑波大内科教授・山下亀次郎、昭和大藤が丘病院内科・鈴木晟時、佐賀大内科・苅家利承。コントローラー:帝京大1内教授・清水直容とそうそうたるメンバーであった。
・ 糖尿病性血管障害に対するパイロットスタディが行われ(昭和58年4月から10月)、高脂血症の改善、糖尿病性腎症の尿蛋白量(沈渣、潜血)の改善、血小板機能亢進の改善効果が認められたが、血小板機能亢進の改善では適応を取得することは出来ないとされた。
・ 昭和59年7月に糖尿病性腎症に対する研究会(代表世話人:岡博。参加施設8施設)が発足し、オープンスタディを行い、それを受けて昭和61年3月にダブルブラインド試験が開始され(参加施設24施設)、昭和62年12月に第1回の中間まとめを(94例の解析)を行い、昭和63年第2回の中間まとめ(143例の解析)を行った。 その結果K-MAP群はプラセボ群と有意差は認められなかった。そこで抗凝固療法パイロットスタディも実施したが効果は確認出来ず、開発は即座に中止された。 
 
ダブルブラインド比較臨床試験において本来群分けが分らないスタディであることが前提である。にもかかわらず、これらの試験はある方法を駆使して実薬群、プラセボ群を把握できる状況にあった。(その頃のダブルブラインドランダマイズコントロールスタディはいかにして群分けを知ることが業界の趨勢でもあったろう。末尾に他社の様子を引用した)

群分けを知ることが出来るにもかかわらず、途中解析段階において解析方法を間違えたらしく、いつも圧倒的に「実薬群の効果有り」との解析結論が見出されており、安心して臨床試験が推進できていると思われていたが、最終段階に近くなってその解析法の過ちを見出し正常な解析を行ったところ、プラセボ群とに差を見出すことが出来ず、いろんな対応を試みたが有意差を見出す対応策が見つからなかった。その結果、申請に至らなかったことも思い出される。何のためのプラセボ群の把握だったのかと。(試験群の割り付けは第三者のコントローラー行っており、一般的にはそのキーは試験が終了した段階でオープンにされ、プラセボ群と対象群の有意差の有無で判定される)

・ 公表文献は基礎を中心に東大系の内科を中心として発表されたが、開発中止ではその意味も失われた


              東大の公表文献


  
K-MAPも結局20数年、数十億円の開発費が無駄になった。


*O-16  

クレスチンの開発の段階で感染症や腸内菌叢について研究しており、耐性菌、菌交代現象、腸内細菌叢などの問題点を解決すべく勉強していた。その中から腸管内不活性、吸収後活性化するプロドラッグ抗生剤の開発を行うことになった。
M君がYグループに配属され(昭和56年2月入社)、本格的な合成研究が行われるようになってきた。彼はアメリカに留学後大学の助教授になるか企業に就職するか悩んだらしいが、クレスチンで有名になっていた呉羽に途中入社して来た人物である。

合成研究の研究員として昭和57年北大薬学部出身のOが三共S常務の紹介で入社しており、彼女がMの指導の下に合成した16番目の合成物はO-16と名付けられたが、多くの合成化合物の中から、殺菌活性が高いO-16が選ばれ開発することになった。ただ、母体の成分は薬効が高かったが、血中濃度はそれほど上がっていなかった。ところがYはそれは製剤の技術の問題ですぐ解決できるだろうと開発を急ぐことにした。これは後で考えるといろいろと問題を発生させた。

                O-16と代謝物の構造式

この頃は学術部が存在していたので学術部が最初からからんで来たが、やはりY開発品に対するNの反対は極めて強く、妨害工作がいろいろ行われ、開発自体に大変苦労した。

 当時研究所は事務系のF専務が統括されていたが、専務の大学同級生に東京女子医大Sという教授がおられた。細菌学の大家であったがF専務の紹介というとすぐに面会できた。開発内容を説明すると、面白い研究であるが既に三共も同じような薬を開発中なので、三共に相談したら彼らは開発阻止に動くだろうから三共には話はするな、三共以外にもこのような薬を欲しがるところはいっぱいあるので心配するな、うまく行きそうだったら私が三共以外の他社をすぐ紹介するとのことだった。また、この薬はもたもたしたら三共に先を越されるので、急がねばならないよとのアドバイスを受けた。

どこからこの情報を得たのかNはそれに反対し、すぐに三共に評価を依頼するよう厳命した。

三共では研究開発部長らが出てきて「活性母体の活性は呉羽と三共では違いは無いが、O-16の経口投与では活性は低く、第3世代の抗生剤としての開発は難しいかろうとの結論を出した。(確かにCTでもO-16の経口投与では種々の製剤の工夫にもかかわらず活性を高めることが出来なかった)

(Yはこの時三共の研究者が大半薬学や理学等の博士号を持っていることをみて、自分たちもこれに匹敵するよう博士号取得に全力を挙げたのでこの後Yグループのメインだった研究者は博士号を取得出来た。)

それを受けて学術部は臨床試験に進む前に開発委員会に開発中止の提案をし、即了承された。

 この間M以下携わった人々はO-16関連の特許を申請すべく申請案を作成し特許部に提出したところ、特許部長以下これらの特許は既存の他社の特許に触れるので、特許申請は出来ないと断言して来た。普通の会社の特許部であれば、他社の特許の穴を見つけて何とか申請出来るよう工夫をして発明の完成を願うところだが、Nの依頼を受けた特許部長以下、O-16関連特許さえ出させないという。驚いたことに特許会議ではCTの特許案に対して、特許部が膨大な資料を準備して我々の申請案を打破することに心血を注いだので特許申請までに大変苦労したが、社内で揉まれたおかげで提出した特許類は問題なく認可された。

が、この特許も製品化に至らず、結果的には無駄になった。


*KDR

KDRは一般名:Secalciferol、慣用名:24R25-Dihydroxycholecalciferol または24R25-DihydroxyvitaminD3の治験薬である。

これは海外からの医薬品候補化合物を導入するグループが合成者(開発者)Kaiserと契約しクレハが権利を得たものであり、その医薬品としての可能性を検討することになったものである。

これも我々のグループも手がけた開発医薬品であるが、Y個人の開発品ではないことから研究が続行されていた開発品であるとともに、いわば医薬品学術部の存続、維持のために無理に臨床試験を企て続けたとも言える開発品だった。Yグループの開発品はNが開発を阻止し、その他のグループの開発品は殆どが第Ⅱ相試験あたりで脱落しており、折角構築した医薬学術部は崩壊の可能性があった。(クレスチン以外でうまく行ったのはクレメジンだけである。後日この開発者から話を聞くことが出来たが、相当苦労した治験であったらしい。本社異動後クレメジンには適応拡大試験で後日かむことになった。) 

KDRのYグループでの開発担当はK君とM君がメインであった。(このメンバーはK大卒といういわばYの同窓生であり、経験や知識とは無関係に担当者が決められたようで、このあたりからYの言っていた学閥や経歴に関わらず仕事が出来るかどうかで人を選ぶという考えが薄らいできたようだった。?)

ただ、治験になれていない彼らが担当Drを怒らせたり、問題が発生すると私が呼び出され関係修復に行かされた思い出がある。この頻度は結構高かったが、このようなことは医薬品部から戻った後は私の担当のようになっていた。 

合成と基礎研究が東京研究所で行われ、骨量が増大する可能性が認められ、臨床試験が学術部主体で実施された。1988年(昭和63年)から第Ⅰ相試験に入り、腎性骨異栄養症(ROD)、閉経後骨塩量減少症PMO)に対する有効性の確認をメインに治験が実施されたが、RODでは第Ⅲ相・高用量のキーオープン(19976月)で有意差が無く、PMOでは後期第Ⅱ相でのキーオープン(19968)で有意差が得られず、開発は中止された。(臨床担当のHに聞いたところ途中解析である特定の条件下では有意差が出ている群があったが、誰もそれを評価せず中止することが決まった、もう試験をやりたくないのでは言っていた。)

KDRは癌の分野から離れて、新たな人脈が形成された。

PMO第Ⅱ相試験は

治験総括医師:大阪市大 第2内科教授 森井浩世

世話人:浜松医大 整形外科教授 井上哲郎、横浜市大 産婦人科教授 水口弘人

中央委員:東京都老人医療センター 検査科長 白木正孝、東大 産婦人科助教授 武谷雄二、東大第4内科 講師 松本俊夫、埼玉医大 第4内科助教授 板橋明、横浜医大 産婦人科講師 五来逸雄、浜松医大 整形外科助教授 串田一博、大阪市大 第2内科助教授 西澤良記、産業医大 整形外科助教授 中村利孝

治験実施施設は北は北大 産婦人科 藤本教授から南は鹿児島大 産婦人科 永田教授まで77施設(科)が参加した大規模なものであった。

RODも治験総括医師 昭和医大藤が丘病院 内科教授 越川昭三教授以下治験実施施設95を数えた。

 臨床開発には三共も後半から参加したが、結局あまり戦力にはならなかったようだ。

また、臨床試験担当部長はFであり、Uによるとクレメジンでお世話になった先生達からの評判が悪く、クレメジンに傷が付くと言っていた。彼に関しては医薬品事業部の再構築を後人事を専務に進言する時、臨床開発部長からの異動をお願いしたが、その時点では達成されず、彼が異動になったのは、Zが医薬品事業部長になってしばらく経ってからであった。

 

以上の治験薬情報は1991年版「癌化学療法剤」株式会社メディカルリサーチほか多数の文献より引用したが、詳細は割愛する。


なお、参考までにネットで検索した得た情報のコピーを下記に示すが(現在は削除され検索できない)当時の医薬品業界の一部が垣間見られる。これらをみると当時の呉羽の学術部のあり方では業界に立ち向かうことは不可能であったろうし、新薬の開発にはこのようなテクニックも必要悪であったのだろう。(青字が引用部分)


TOSHIES VERDEN 松川利行の世界」www.page.sannet.ne.jp/matukawa/eizu3.htm

「新薬の開発の裏面」より

私はだれ?のコーナーで自己紹介したが、僕は、かって、ある製薬メーカーの研究所に勤めていた。 社内の都合で、1978~9年にかけて社運を賭けた大型新薬(セファロ系第3世代抗生物質)の臨床開発プロジェクトに動員され、新薬の申請業務に関わり し烈な新薬開発競争のただ中に身を置き、問題となっている製薬会社、厚生省、医者の悪の三位一体をつぶさに見る経験を持った。(中略)多分初めて知った方には、予想もできないことと思われるが、こんなことが公然と行われていた(いる?)日本の新薬開発の現状を知っていただいて、2度とこのような不幸が起こらぬことに役立てればと思う。(中略)僕自身、あの時色々な不正を目の当たりにしたが、それらを糾す勇気は無かった。後述するが、せいぜい公文書偽造のケースカードの改竄作業をサボタージュするのが精一杯であった。あの当時、自分を自己納得させていたのは、幸いにも、開発している薬は良い薬であり、耐性菌に苦しむ患者さんには福音になると思ったからである。(事実、そう言った症例も何例かあった。)

という背景があり、 臨床試験の概要を述べた後

第2相からは、いわゆる患者を使った臨床試験である。現在はインフォームドコンセントと言って患者の承諾を得るようになってきたらしい。

昔はこんなことは一切なし、医者の独断で投与されるた。しかし、そうしなかったことについて単純には批判できない面もある。薬は、いわゆる擬薬(プラシボ)効果と言って、心理的な暗示で効くことがあるからである。患者が新薬と知るとそれだけで効果が変わることも十分ありうるからである。

この段階はオープン症例と言って、できるだけ多くの症例を集めて有効性の範囲を探るわけである。あの当時、内科系で1例が5万円、尿路系で3万円の治験料であった。総件数で2~3千件集めることになる。

ドクターお任せなので、必要な症例が集まるとは限らない。有効性を証明するためには複数の疾患で、それぞれある程度の数がいる。しかし、お任せなので、よくある症例は必要以上に集まる。

症例が集まっているからといって、実際は医者と製薬メーカーの力関係から、断れないので全部もらってくることになる。それらには無駄と分かっていても全部治験料は出す。これは、会社にとっては一種の合法的賄賂の意味合いもあるからである。ドクター側はやればやるだけ儲かることになる。(ひどい医者がいるもので、同じ症例を、患者名、日付けを代えて出してくるものもいた。あまりに症例が似ていたので気が付いたので、部長に指示を仰いだが、公にせず会社は知らないことで通したが全くいいかげんなものである。当時提携していた外資系の製薬会社ではブラックリストに載っていて、この先生は使わなかったとのこと。この先生は化療では一応名の通った大病院の産婦人科のドクターであった。当時のメモと記憶によると、このドクターには治験料として150万円、2報の原稿料として20万円支払った)
(中略)

(抗がん剤で丸山ワクチンと言うのがあったが、開発者の丸山先生個人の経歴から正式な治験薬とならず認可されなかったというのはこのヒエラルキーに背いた面もある。 最も、僕も抗がん剤の開発の関わっていたのでこの丸山ワクチンとやらも調べてみたが、医薬品としての体裁はとっても成り立っていないので薬としては認可されないことに関しては当然だと思う。 しかし、あのころ認可された免疫療法剤と言うもののなかには、その有効性が極めて疑わしいものでもガン学会のボスであった為、認可されたものもある。

この薬は、有効性には厳しい欧米では相手にされていない代物であるが、効かない代わりに副作用も無いので国民皆保険のもとで大いに使われ単味の薬としては月商数十億の商品になった。 一旦権威ある所で、お墨付きをあたえると、有効性が否定されても、これをなかなか是正できないのがお役人仕事でしょうか。

いまだに高い薬価で局方に収載されているのは、エイズの対応と同じく厚生省の怠慢といわざるをえない。普通の商品では考えられぬことが公然とまかり通るのが医薬品業界である。 丸山さんに言わせれば、あれが薬になって俺のがなんで認められないんだといいたい気持ちは分かります。 しかし、僕に言わせればどちらもどちら擬薬効果以上には効かないことは同じ穴のむじなと思う)
(中略)

大ボスの権威が如何に大きいかということについて、次のような例に遭遇した事がある。。 ある施設の治験効果が、無効症例ばかり続いたとき担当のドクターは自己規制して、自ら有効症例を増やし数字的にボスの施設の症例の平均値に持っていったことがある。

あの時感じたのは、余り悪い結果を出すとボスに盾突いたと思われる雰囲気があの世界にはあるということである。 だから、日本で新薬が、薬になるか否かはボス次第だともいえるわけである。

新薬の開発に成功すれば、ますますそのボスは力を持っていくことになり、製薬会社にっとては利用価値が上がるので、ますます金と情報がこのボスに集中していく構図になっている。
(中略)

それでは次に、実際どのようにして臨床治験は行われるのか、僕の経験したことから その概略を述べてみよう。

治験は全国で200くらいの施設(大学や大病院)を用いて行われた。20人くらいのプロジェクトメンバーに 地区割りされ担当は一人、大体10施設くらいが割り当てられた。

まず最初に、言われたことはこれらの施設の担当ドクターと人間的なつながりを早く構築することであった。 そのためには、予算の制限はなかった。毎週、用も無いのに顔つなぎのための出張を命ぜられた。 当然常に高い洋酒等(オールドパーが好まれた)の手土産付きである。
会社にとって、1億や2億の金はこの際、端下金である。何故ならば、治験薬が一旦承認されれば、確実に月商何億と言う商品に成るのだから、そのためにはできるだけ早く承認され薬価の収載を受けねばならない。
しかし、この承認をする厚生省の中央薬事審議会が年1から2回しか開かれない。 運良く開催日に間に合うように資料がそろうえば、すぐにペイする額だからである。
そのために、必要な症例を集めねばならないが、適当な患者の数は限られている。 自社に良い患者をまわしてもらうためには、義理人情の日本ではこの人間関係が最も有効である。 外資系の製薬企業が日本でなかなか成功しないのは、この独特の商習慣を理解できない点にある。
しかし、これは有り体に言えば癒着の奨励である。 何かといっては医者への付け届けを奨励された。
外国の学会に出席といえば、5万円くらいの餞別を包んだり、国内の学会に出席するときはいわゆる夜の接待が付き物であった。 それも、常に一流のクラブである。あの当時で一人5万円くらいの高級クラブが当たり前であった。 おかげで、30才にもならない身で全国の有名な盛り場は、北はすすき野から南は中州まで2年間の間にいやというほど、身分不相応に体験した。(会社は将来に備えての社員教育の意味もあったのかも知れない。) いわゆる、政治家がひそひそ話をする東京の黒くやたら高い塀に囲まれた料亭にも、某国立大学医学部の有名な教授様と同席する機会も何度とあった。
(中略)

研究会の世話人(いわゆるボス)名で研究会が組織される。この組織は、大学医学部の講座が代々引き継いできたものでほとんど固定されている。 治験薬により世話人がそれぞれ代わる程度である。
最初に発足研究会が開かれる。場所は東京が多いが、ホテルオークラ、ニューオオタニクラスのホテルの大宴会場を借り切って行われる。 地方から来るドクターには当然、これらのホテルでの宿泊、交通費(グリーン)付きである。 都内のドクターにはハイヤーを差し向けるのが慣習。 たまに、地方のドクターは家族そろいの宿舎、交通費を要求する場合もあった。 研究会は、いつもほとんど形式的で短時間に終わる。
その後は、別室に用意された宴会場で懇親会になる。 懇親会の後は、それぞれの担当者などと、銀座などの一流クラブに2次会に出かける。
当時は、抗生剤の治験薬が多く他社の研究会と重なる場合がしばしばあったが、慣れたドクターはそれぞれの会社からもらったチケットを現金化し、新幹線の回数券を購入していた人もいた。 研究会の出席者には、相当額の日当(ランクによって額は異なった。教授クラスで10万円くらいであったと記憶する。)と3~5万円のお車代が包まれた。
中央での研究会終了後、それぞれの施設の小ボスは、関連病院のドクターを集めたミニ研究会開催を要求する場合も多い。 子飼いの弟子たちを集めて、それぞれの地域でまた同じ事を、今度はそれぞれの会社の担当者に場所設定をさせて開く訳である。 大学医学部の教授の権力は絶大なものである。子飼いの関連病院で実際の症例は集められる。

この段階が、いわゆる第2相試験といわれる段階にあたる。 (第1相試験はボスの施設を中心に極少数で施設でパイロットスタディを兼ねてやられる場合が多い) 大体1年をかけて2000~3000症例が集められた。
我々の仕事は、これらの施設への薬剤配布とドクターの尻たたきが主である。 症例にはカルテから必要事項をかき出したケースカードと言う書類を提出してもらう。
会社に集められた症例は、全てチェックされる。 ドクターが書いたケースカードには実際いいかげんなものも多い。 この時、治験薬剤にとって不利な記述(特に副作用)はできるだけ事前に押さえるようにしむける。
この操作は、副作用をもみ消すという意味が大きいがそれだけではない。、実際、治験薬のせいと断言できない場合いもカウントされている場合があるのは事実である。
ある程度、臨床に関する知識をこちら側も持っていなければならない。

副作用を押さえる手段はいくらでもある。例えば、ドラッグヒーバー(薬熱)とカウントされた副作用は、その気になれば簡単に消去できる。
普通、投与は単味(一剤)で行われることは無いので、副作用は他の薬剤のせいにすればいいのである。 この段階は、当然実務を担当したドクターとのやり取りで納得ずくでケースカードの書き換えをやってもらう。 この交渉時に、いわゆる微妙な人間関係が大いに役に立つことは言うまでもない。その為に、先行投資をしてあるわけである。

どの程度までの消去は許されるのかは難しい問題である。 前に述べた、財閥系で薬業には新参者の大手化学会社の新薬が失敗したのは、ここら辺の微妙なノウハウを知らず、この段階での副作用をそのままま正直に纏めてしまい、副作用の発生率が高かったのが最大原因であったといわれている。この薬は、外国では承認され実際多くの人に使われたが、既存の薬に比べて決して問題になるようなものではなかった。
しかし、この段階で余り押さえすぎると重篤な副作用も知らずに葬り去ってしまうことにもなりかね無い。 ソリブリジン?であったか、最近重篤な副作用が問題になった薬剤は、こうして開発段階で見逃されていった可能性が考えられる。
(中略)

出来るだけ担当ドクターと接触して自社に有利な患者を回してもらうように、それとなく圧力をかけるのも大事な役目である。 しかし、よほどの間違いでも無い限り、予期せぬ重篤な副作用がなければ、この段階の効果は、前にも書いたようにドクターの方で自己規制して、幹事施設のパイロットスタディでの有効率に収まるものである。
各施設の症例は、このように水面下で検討された後、治験報告として論文にしてもらう。 ほとんど、形式化された論文なのでひどい場合は、会社の担当者が代筆することもある。(僕も数例代筆したが、最も、原稿料はしっかりとられる) そうして集められた論文は、化療誌の特集号として会社の買い取りの形で発行される。(編集校正も、ほとんどが会社の人間がやる)
学会では、新薬シンポとして基礎、臨床(内科、外科等科別)および副作用について、それぞれの担当幹事のドクターが発表するわけだが、膨大な、資料をまとめるのはいわゆる我々会社の開発スッタフであって、大臣の国会答弁と同じように彼らはこちらの造った原稿をほとんど読むだけに等しい。

これだけでは、申請できない。 次に、このオープン症例の検討を経て、既存の薬との比較試験(二重盲験)が行われる。 この段階を、第3相試験と呼ぶ。開発する担当者としては最も緊張する大事な試験である。

薬の効果は、先にも述べたとおり心理的な要因が大きい。 目くそ鼻くそと言って、良く効く薬だといって暗示をかければ、鼻くそを丸めた丸薬も、妙薬になるという逸話があるとおりである。
だから、こういった要因を避けるため、純粋に薬の効果を科学的に評価するために考えられたのがこの試験方法である。 したがってこの治験の結果は重く評価される。

また会社とっては最も重大な、薬価がこの結果によって決まるからである。
我が国では国民皆保険の制度になっているので、ほとんどは保険治療で行われる。保険治療は、日本薬局方に収載された薬にのみ保険が適用される。そこに収載されるためには、 その薬の適応症および価格を中央薬事審議会で決めてもらわねばならない。

治験はこの会議に提出する資料作りのために行われるが、薬価基準は同一薬効同一薬価が原則であった。 薬は、普通の商品が、いわゆるコスト計算と需要と供給の市場原理によって決まるのとは全然違うシステムで価格が決まる。 例えば対象薬が1g3000円とすると、治験薬が0.1gで同じ効果が得られたとすれば10倍、すなわち1g10000円と言う薬価が付く訳である。(あの時の対象薬はまさに薬価が3000円のCEZであった。)

二重盲験の教科書的方法は、次のように行う。

新薬と同じ薬効の既存の薬で最も優れているものを対象薬に選ぶ。 対象薬と、治験薬が外観では見分けが付かないように包装する。
これらの薬は、同じ数だけ用意し、キーマンと呼ばれる統計学者によって、(統計学者は、それはそれは日本を代表するような東大の名の売れた統計学の先生であった)乱数表を使ってこれらの薬剤に通し番号を振られる。
どの番号がどちらの薬なのかは、このキーマンしか知らないはずである。 途中、重篤な副作用が発生したとかの不測の事態以外は、全ての治験が終わるまで金庫に厳重に保管される。
対象疾患とプロトコール(治療方法)が決められる。 統計的に意味を持つのに必要な症例数を集めることになるが、薬効の評価を決めるためにはあらかじめ決められたプロトコールにしたがって行われたものだけが評価される。(途中違った操作をしたものはドロップ症例になる)
治験を行うドクターも患者も、どちらの薬を使っているのかは分からない。 条件にあった患者に機械的に順番に投与していき治療効果、副作用を調べるわけである。
統計的に意味がある症例が集まった時点で、全ての資料を集め、我が国で、その筋では権威のある(名の売った)10名くらいの先生に一同に集まってもらいホテルに3日間ほど 缶詰になって、それぞれの症例の分析、効果判定を行ってもらう。 この時点では、薬剤番号での効果が出るだけである。
それが終わると、直ちにこの治験に係わった全ての施設の関係者をホテルに一同に集めキーオープンの会議を行う。 先に行った、効果判定委員会の結果に異議が無ければ、ここで先ほどのキーマンが恭しく出てきて、割り振り薬剤をオープンにし、直ちに別室で統計的有為差検定を行いその結果を報告する。
この瞬間が、本当は最も緊張する一瞬である筈だが、裏を知る我々にはカラクリが見破られないかの心配の方が大きかった。 しかし、後で冷静に振り返ってみると、あの席に同席しているほとんどの人はこの茶番の内容を知っているが、知らん振りを装い、欺まんに満ちた会議を演じていただけであったのだと思う。

こんなに大切な会議である筈であるのに、会議の正味は1時間も無く、後は例のごとくの宴会である。 九州や北海道のような遠くから、日ごろ忙しく気位の高いドクターをわざわざ集めて、これだけだったら、普通は怒り心頭に発するはずだが不思議と、皆涼しい顔をしている。 最も、会社側はねんごろにもてなしているのは申す間でもないが。
この治験は、いろいろ条件があるためあの当時治験料は1例10万円であった。大体1施設100万円単位で研究費として支払った。 1つの二重盲験をやるのに必要な経費は、軽く数億必要であった。それだけに失敗は許されないわけである。

では、実際はどのように行われたのかそのからくりを次に述べる。
ダブルブラインド(二重盲験)試験は、治験薬と対象薬の区別がつかないのが前提で成り立つ。 だから最大のからくりはここにある。
当然、会社側はキーマンによって割り振られた薬の中身分かる仕掛けがしてある。
手口はいろいろあるらしいが、あの時は次のような方法を使っていた。

薬剤は注射剤であったが、バイアルは一本一本箱に入れて封印してある。 市販の風邪薬のビンの包装を思ってくれればよい。 当然、箱には何も書いていない。外見から見る限り簡単にどちらかが判別できるものでは無いのは言うまでもない。 (質量も合わせてある)
それでは、どこに仕掛けがしてあるのか。箱の蓋である。蓋の閉める順番を右と左で違えてある。右を下にする場合と、左を下にする場合とで区別しておけばキーマンが割り振った薬剤は簡単に分かる。
使われた後、点検のために外箱も空き瓶ともに回収することになっているが、箱を開いてしまえば証拠は無くなってしまうので絶対にバレ無いわけである。 手品師も顔負けのトリックである。

この手口は、その時我が社が考え出したのでは無く、この業界の臨床開発担当者には密かに伝えられているノウハウであった。 後程、技術提携で他社の専任の臨床開発スッタフと知る機会があって、いろいろ聞いてみるとこんなことは公然の秘密である事を知った。
従って、本来は分からないはずの有効性の判定が、治験の途中で会社側は全て知っているわけである。

担当者は、ドクターに治験番号によって、巧みに患者を選択するように進めるのが仕事である。

以下もっとひどい内容が連綿と綴られており、数々の逮捕に至った医薬品業界の不祥事を紹介しているが、ここでは引用を割愛する。 
 
呉羽はこのような医薬品業界の内情を知らないまま学術部を立ち上げ、大半の治験薬を効果無しに導きその後医薬品の開発自体を断念した。他社に持ち込んだら有効性を見いだされたものもあったかも知れない。PSKが売れている間はこれで良かったろうがそれにしても随分開発費をドブに捨てたものだ。


 



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