23 医薬品部の思い出
*メンバー
医薬品部創立時に技術系はO部長、M主査、私の3人。事務系がM主査、AとZと3対3だったが、その後事務系が大幅に増え、私の異動で医薬品部には技術系が0になった。O部長の後任のH部長は(デュッセルドルフ駐在所長から医薬品部部長に着任した)私の異動を聞き驚いたようで「君にはすぐ戻って貰いたいと思っている」と言っていた。社長も研修会の席で心配していたがしばらく様子を見ていたようだった。その後は事務系だけがどんどん増えていって、当初の「ドクターの財布たれ」の目的には合致したが・・・。
創立時の医薬品部メンバー
3年後の医薬品部(呉羽時報より)
前にも述べたが事務系の医薬品部への異動に際してはゴルフし放題、クラブや食事も接待で美味いもの食べられるし飲み放題との誘い文句があって承諾した人が多かったと聞いた。しかしながらその期待は裏切られて、ゴルフに誘うにはまずドクターと仲良くなったり、目的があったりせねばならず、そのような壁は厚く必然的に身内同士での接待が多くなった。この傾向はいつまでも続いたようで、後年再び医薬品事業部に戻ったときもクレスチンの貢献が少なくなっていたにもかかわらず継続されており驚いたものだ。銀座には呉羽から依頼される長距離の頻度が高いと期待して待つ個人タクシー(カタツムリ)がいつもたむろしており、そこまで行けばタクシーが拾えていたと聞いた。
事務系だけでは対処出来ないとしばらくしたら技術系を東京研究所(CT)や他部署から補充していった。私に戻るようH部長はCTのYに言ったらしいが、Yは「彼を一度医薬品部に行って貰ったのにCTに戻された」ので代わりの人を出すことにし、留学のためPSKの申請にはあまりタッチしてなかったOを3ヶ月後の9月に出した。
*海外出張
初めての海外出張は台湾である。海外は初めてのことでありパスポート取得から始りO部長に色々教えてもらいながら準備した。目的は台湾の会社がクレスチンを販売するために台湾三共を通じてその内容を教えてくれとの依頼であった。台湾・韓国のクレスチン販売許可は日本の製造・販売許可証があればその資料をそれぞれの国の申請書にして提出すると許可が下りるというシステムだったので(現在はよく分からないが)しばらく経つと許可が下りた。台湾の会社では日本語の達者な人が多く説明は全て日本語で良かったので楽であった。韓国も同様な状態であり、クレスチン輸出の説明に数回訪問した。台湾では輸出先の社長から紹興酒の古酒(何かの記念を祝って作られた銘酒と聞いた)を頂き大事にとっておいたが定年後開封し楽しんだ。さすがに美味しかった。台湾料理もご馳走になったが乾杯で杯を飲み干してから返杯するしきたりには閉口した。特別な料理と称して食べさせられた肉料理が馬の一物だったよと後から聞かされびっくりしたのも良き思い出である。時間が出来れば故宮博物館やお寺など観光できたのも楽しい思い出である。韓国はやはり焼き肉の美味しい思い出が多い。
台湾の故宮博物館
台湾の奇岩
台湾講演会:演者と台湾民族衣装
台湾料理のメニュー
こんな感じの紹興酒を貰う
台湾、韓国の名刺(全て有名人らしい)
不思議なことに韓国の写真は無い。
台湾では日本のような再評価システムが無く、一度許可が下りたら効能効果に変更は無く販売は続けられた。韓国では国策?としてゾロを認めたためクレスチンの販売は急速に減少した。1979年にボストンで国際化学療法学会があり参加した。これについては別項で述べる。
当時国立がんセンターの汚職事件以後公務員(特に医薬関係)に対する接待が厳しく見られるようになっており、会社は私立のドクターを接待したことにして公務員のドクター達を接待した。社内での領収書につける相手先は帳簿につけるときは私大のドクター名や会社を書き、裏帳簿に本当の接待者名を記載するようにした(これがいつまで続いたかは知らない)。その内部内のみであるいは一人で飲食店やクラブに行くようになり、あたかもドクターを接待したことにするための裏の裏のドクター名が必要になり私のところに私大のドクター名を聞きに来たので、知っていたドクター名を教えたが私も臨床医はあまり知らなかったのでだんだん枯渇していった。
また、N専務には内緒?の口座があり、ドクターたちへの餞別など領収書が取れない場合に支出するお金を持っていた。管理を一元的にHがしていたようでが信頼が厚かったのだろう。また、餞別など領収書の取れないお金を渡すときには必ず二人で渡せとの専務命令があった。餞別を部員がネコババしないようにとのことだったが、CTの頃は領収書が取れる指導料等の支払いの時でも1対1であったのでびっくりしたし、信用できないならその使いは自分でやるか信用できる人に任せるべきであろうと思ったものだ。
*接待
ドクターによってはネクタイを拒否する人もおり、なかなか予約が取れない銀座の高級イタリアンレストラン「サバティーニ」を予約して入店した時、九大のドクターNはネクタイ着用といわれたとたん「たかが飯食うのにネクタイつけろとは何事だ」と怒り心頭に発し、ここは駄目だ他店に変更しろとのこと。まだ携帯電話の無い頃で招待主のN専務がまだ来てなかったのでOを残し、ロシア料理店に案内しそこで専務と合流したこともある。サバティーニにはその後試食に訪れてみたがそれほどでもなく2度と行っていない。
接待では多くの飲食店やクラブ、バーが必要になり、その頃はまだミシュランガイドが無かった?ので(バーやクラブは元々無いか?)、有名飲食店ガイドブックなどを調べてお店を探して歩いたり、三共からの情報や異動したクラブのホステス、店員からの紹介で出かけたりして見つけることも多かった。探すときは当然身内だけの交際費であったが・・・。
N専務はドクターの接待時によく銀座のクラブ等に案内したが、しばらく話をした後トイレに行くふりをして途中で消えることが多かった。招待、接待しておきながら結局逃げ出すことになりドクターからはあきれられた。
クラブ等では名刺やマッチ、コースター等をよく貰ったので、一時はよく集めていたが結局廃棄した。名刺の一部がドクターや企業の名刺に混じって残っていた。全国各地の有名どころが残っていた。
海外担当はクレスチン申請関係や公表論文の英訳版を作成していた。あるドクターところに公表論文の英訳したものを持って行き海外へ紹介するのに使いますと了承をとりに担当のMと行ったところ、外国雑誌に投稿するかも知れない論文を勝手に翻訳して公表してしまったらもう英文で出せなくなるでは無いかと怒られた。公表論文の翻訳なので新しい論文にはならないと思ったが「泣く子とドクターには勝てぬ」ので削除することにした。クレスチン輸出の目処があまり立たなくなったので、その後公表論文の英訳は進まなくなったようだったし、海外勤務経験者や留学経験者もお払い箱になった。O初代部長の後任のHはニューヨーク所長やデュッセルドルフ所長だったが・・・
三共からはクレスチンに関するあらゆる必要事項の説明が求められた。特許は?、ドクターの親派と反対派は?、販促資材用の発表済の文献の著作権は?、研究会は?、生産に関する問題点は?、治験薬は終了したか?免疫療法をうたえるか?等など多数にわたった。大きな会社なので色んな部署から質問がありそのたびに答えを用意したり考え方を説明した。
クレスチンが三共の売り上げ(利益)に貢献するようにと各地区でドクターを対象に講演会が催された。呉羽にも私にも医薬品販売のこのような経験が無かったので販促の方法を学ぶ良い機会であり、呉羽から1~2名参加させてもらった。まず各地区毎(関東地区、東北地区など)に大きな講演会を催し、次に各県単位で、次に病院毎にと講演会と称し説明と接待を行っていった。
講演会(又は説明会)後はたいてい立食パーティーを行い、その後一部の有力ドクター(演者や教授、院長など)は三共の担当者がクラブなどで接待した。その他のドクターには三共のプロパー(現在は医薬情報担当者:MRと言う)がそれぞれ接待した。私もこれらの講演会にかり出され三共と共に接待したり、あまり知らない地域では三共の担当者とクラブなどに行った。これらの経験は役に立ったかどうか分からぬが、医薬品はその後クレメジン(球状活性炭を利用した腎不全薬)も三共が販売権を取結局結局呉羽のみで医薬品を販売することは無かったので、私個人にとっては貴重な体験であった。しかし講演会等は大抵土曜日の午後に行われることが多く遠方の場合は泊まりになり結局土、日がほとんどつぶれた。家族にはPSKに関わって以後迷惑をかけ続けた。
三共は拡販用に種々の資材を投入した。電卓、温度計、ノートその他多数に上った。一部は我々にも回ってきた。電卓はその後長年にわたり使用していたが残念ながら起動しなくなり廃棄した。手帳は大いに役立ち1977年から1987年まで50冊位のノートとして使った。読み返すと色々な仕事やドクターなど思い出される財産となった。このブログもこれによるところが多い。
三共との打ち合わせや講演会などで多くの人たちに出会った。驚くべ三共三共本社や研究所には「博士」がうようよいることであった。医薬品開発には高度な知識、技術などが必須であることを裏付けていた。呉羽の東京研究所のYはこれからの医薬品開発にはこのような人的な充実が必要と考え人事に要望した。幸いクレスチンで有名になりつつあったので呉羽にも東大、京大などの薬学出身や生物専攻の人たちも入社するようになった。しかしながら武田や三共であっても新製品の開発には難渋したしその後の医薬品業界は再編の波に襲われたように、開発には呉羽でも少ない研究者ではその後の医薬品開発はバラ色ではあり得なかった。クレスチンの成功で化学業界等医薬品会社ではない会社が医薬関係の研究に多数乗り出したのもこの頃である。このような会社は研究のあり方などを勉強する「PIフォーラム」という集まりを組織したが、私も後に医薬品事業部に異動となりこれに参加した。PIフォーラムについては別項で取り上げたい。
主柱であったクロロマイセチンが特許失効に伴う後発品の乱立と医薬品再評価による適応症の大幅な削減の影響で年商100億円から10億円未満の製品へと急落し(中略)販売努力を重ねたが、業績面でクロロマイセチンの低下をカバーし他社並みの成長率を確保することができなかった。しかし、この間の体制立て直しを伴う営業努力と昭和52年の抗癌剤クレスチンの導入によって、医薬営業部門の売上高は45年の503億円から53年には1078億円弱と倍増し、55年2月にはセフメタゾン、ペントシリンと待望の大型新抗生物質製剤の発売を見るに至った。p-100
「クレスチンは、従来の化学療法剤と異なり、カワラタケの菌糸体から得られたユニークな新抗癌剤で、呉羽化学工業の十数年にわたる研究の成果であった。抗癌作用と免疫機能賦活作用を併せ持ち、副作用が極めて少ない製品である。当社は、販売権を得て、昭和52年5月に発売した。発売に当って、市場導入計画書を作成し、その計画的育成と、当社の営業体制の改善と強化を図った。クレスチンの販売実績は、発売後1年後には全医薬品のトップグループに加わり、わが国の抗癌剤市場の勢力分野を大きく変化させ、免疫賦活作用をもつ抗癌剤の研究開発活動に刺激を与えた」p-101
「売上高は、創業90周年を迎えた昭和63年度に、念願の3000億円を突破し、3085億円を達成した。これは、昭和54年度が1599億円であったのに対して193%の伸長で、ほぼ倍増となった。このように売上高が順調に推移したのは、その83%を占める医薬品、中でも、90%近くに達する医療医薬品分野で、相次いで大型新製品を発売できたことによる。(中略)加えて、52年に発売した抗悪性腫瘍剤クレスチンが成熟期に入って、安定した売上を収めたことなどが、売上げ拡大の主な要因であった。」p-197
第2節 の 「 医家向け大型製品によるめざましい業績の伸び。1.クレスチンによる急成長の達成」の中で
「昭和52年5月に発売した抗悪性腫瘍剤クレスチンは、癌治療が、人類の課題として世界的に関心を集めているなか、抗癌作用とともに免疫機能賦活作用を併せ持つ、副作用の少ない新しい経口タイプの抗悪性腫瘍剤として、また、医療ニーズに応える画期的製品として、医学会の注目を集めた。クレスチンの出現が、癌治療における免疫療法を大きく進歩させたことは、特筆すべきことであった。当時、当社は、クロロマイセチンの売上げ激減を受けて業績不振が続いていたが、クレスチンの売上げによって業績は急回復し、以後、毎期、増収増益を続ける原動力となった。」p-282