17 PSK研究会・三共
呉羽が主催したPSK研究会は三共が引き継ぐことになった。
呉羽の過去の研究会について三共に詳しく説明し、呉羽としては臨床に関する研究会は三共に引き継いでもらい、副作用の報告は呉羽が行うこととしたい旨を伝え三共は了承し、がんセンターの木村先生と癌研化学療法センターの桜井先生に相談して決めていくことになった。その結果、三共の学術調査室(当時の室長O氏)に事務局を置き、名称を「癌の免疫化学療法研究会」とし運営案が作成された。呉羽は第4回PSK研究会を昭和51年10月16日に開催し、呉羽が主催したPSK研究会はこの会で終了し、研究会は三共が引き継ぐが組織は新たに立ち上げる旨を報告し了承された。
三共は木村先生や櫻井先生とあまり接していなかった三共の学術調査室に代わり呉羽がアポイントを取りながら研究会の骨子をまとめていった。木村先生は1年ほど研究会から離れたいと言われたし、櫻井先生は(悪性腫瘍剤調査会委員長であったので)一旦は辞退されたそうで基礎はH先生、外科系はF先生、内科系はS先生を推されたらしいが最終的には座長を引き受けられたそうだ。それによれば本研究会は、消化器癌、肺癌、乳癌を主たる対象とし、腫瘍免疫療法の宿主免疫能への影響と制癌効果を基礎的並びに臨床的に検討するための共同研究を行い、悪性腫瘍の治療に寄与することを目的とし、註として
1:本研究会はクレスチンを表裏なく評価する会である。
2:対象疾患に造血器腫瘍等適応外疾患も含める。
3:クレスチン以外の免疫療法剤の併用は行わない。
4:学問の前に医の倫理を優先させる。
をあげた。
構成メンバーは下記の通りであり、当時の名だたる癌研究者を集めたものだった。呉羽が行っていた研究会のメンバーに三共のシンパの研究者がメインであろう。
北海道大学
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癌研病理
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教授
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小林 博
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東北大学
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薬学部
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教授
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橋本嘉幸
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東北大学
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抗酸菌病研
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所長
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斉藤達雄
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東北大学
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抗酸菌病研内科
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教授
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今野 淳
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国立仙台病院
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副院長
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菊池金男
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東京大学
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医科学研外科
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教授
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藤井源七郎
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日本大学
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第1内科
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教授
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天木一太
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日本大学
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第3内科
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教授
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坂部 孝
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帝京大学
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第2内科
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教授
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古江 尚
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国立がんセンター
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副院長
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木村禧代二
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国立がんセンター
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臨床検査部
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部長
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仁井谷久暢
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国立がんセンター
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病棟部
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部長
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小山靖夫
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国立がんセンター
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産婦人科
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医長
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笠松達弘
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国立病院医療センター
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院長
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小山善之
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国立病院医療センター
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外科
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医長
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木村 正
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都立駒込病院
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副院長
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伊藤一二
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都立駒込病院
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化学療法部
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部長
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坂井保信
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癌研
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化療センター
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所長
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桜井欽夫
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癌研
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化療センター
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部長
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塚越 茂
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癌研
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病院長
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梶谷 鐶
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癌研
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化学療法部
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部長
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小川一誠
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国療松戸病院
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院長
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松山智治
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東海大学
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第2外科
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教授
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三富利夫
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名古屋大学
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第1内科
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助教授
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山田一正
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名古屋大学
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第2外科
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教授
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近藤達平
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国立名古屋病院
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血液センター
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医長
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広田 豊
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愛知県がんセンター
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化学療法部
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部長
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太田和雄
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愛知県がんセンター
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病棟部
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部長
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中里博昭
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京都大学
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第1内科
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教授
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内野治人
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大阪大学
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微生物病研外科
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教授
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田口鉄男
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大阪府立病院
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院長
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芝 茂
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大阪府立成人病センター
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臨床血液
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医長
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正岡 徹
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大阪府立成人病センター
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外科第4科
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医長
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青木行俊
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徳島大学
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第3内科
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教授
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螺良秀郎
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岡山大学
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第2内科
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教授
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木村郁郎
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岡山大学
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中央手術部
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助教授
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折田薫三
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広島大学
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原医研外科
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教授
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服部孝雄
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九州大学
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がん研
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教授
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野本亀久雄
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九州大学
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第2外科
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教授
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井口 潔
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国立病院九州がんセンター
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外科
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部長
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古沢元之助
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註:本研究会は営業的研究会ではないので限定施設で発足するが、メンバーが症例集積のため関連施設で研究を推進することは構わない。また、会の運営上参加を望む施設があればメンバーの推薦を条件に追加を認め
研究会は代表世話人に癌研副院長の斉藤達雄、実務世話人に伊藤一二、仁井谷久暢、塚越茂、世話人に橋本嘉幸、藤井源七郎、仁井谷久暢、伊藤一二、桜井欽夫、塚越茂、斉藤達雄、山田一正、木村禧代二、田口鉄男、螺良英郎とし、コントローラーに小川暢也、中里博昭を指名した。
運営に関しては部門別に次ぎの様にそのまとめ役を置いた。
基礎:塚越、橋本
内科・胃癌:斉藤、古江
内科・肺癌:今野、仁井谷
造血器腫瘍:山田
外科・胃癌:伊藤、田口、藤井
免疫応答性:螺良
研究テーマは基礎部門、臨床部門で夫々多数のテーマを選定して実施することになっていたが内容は割愛する。
昭和53年6月19日に世話人会、8月5日に研究会発足会が行われ順次各研究会が活動を始めた。私も呉羽の協力者としてこの研究会の一部を担当したが、胃癌手術後の化学療法剤研究会(胃手化研究会)に専任として協力することになってからは殆どそちらに時間をとられたので中央研究会のその後については詳しくない。
この会の「内科部門」胃癌プロトコールは「制癌剤の開発とその臨床応用」フジ・テクノシステム1978.11.10発行 p-157で公表されている(化学療法剤をベースにクレスチンを3ヶ月以上投与し、クレスチンの投与の有無はRandom Trial方式により実施する)が、ここでは詳細は割愛する。
外科胃癌グループに九大二外科井口潔教授を代表とする胃癌手術後の化学療法剤研究会(胃手化研究会)があり、後日この研究会発足のために呉羽から専任として私と三共からKが任命され、協同会社の大鵬薬品工業、中外製薬と連携しプロトコールや組織、研究会情報の収集、解析等を決めていった。胃手化については別項に譲る。