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16 薬価申請など

医薬品部での仕事はいろいろあったが、記憶に残る仕事を顧みる。

*薬価申請

承認された医療用医薬品(PSK該当)が実際に医療で使われるためには、医療保険の適用が必要でありこれが「薬価基準」である。これに収載されないとその医薬品を使っても保険請求が出来ないので、薬の価格を申請して「薬価」が決定される。

製造費から販促費等を上乗せして売価を決める一般の商品とは異なり、お上の承認が必要で、年に1回か2回?に「薬価基準」に登載されて発売許可となるシステムであった。薬価が幾らにつくかは当然利益に大きく影響するので重要な作業である。

当時の薬価の申請は厚生省薬務局の経済課に申請する。すでに三共への販売委託が決まっており、三共の医薬情報部の助言を受けられたので、承認申請の時に経験したような苦労は少なかった。  

PSKの薬価申請当時の薬価算定方式は製造承認された新薬(PSK)と既収載品と 
①効能・効果が似ている 
②薬理作用が類似している 
③化学構造式が類似している 
医薬品を、薬価算定の比較対象品に選定する。次いで、1日用量、1クールあたりの薬価にて新薬の薬価を決めるいわゆる類似薬効比較方式であった。(日薬連50年史:平成11年3月、日本製薬団体連合会、p-37。その後薬価算定が種々変遷するがここでは割愛する。) 
PSKの薬価を申請するに当り当然高い薬価を付けられるように当時の抗悪性腫瘍剤から薬価の高い医薬品を類似薬効比較薬剤として選抜するのは企業としては当然である。
薬価の高い制がん剤を探し、その中から1974年薬価収載のフトラフールと1975年薬価収載のピシバニールに着目しその比較検討を行った。

経口剤であること、効能効果が似通っていることを理由にフトラフールの薬価を参考にして一日薬価を基準として4600円/日(1200円/1g)前後を申請した。フトラフールはソ連からの導入品であり、外交問題もあって(1956年日ソ共同宣言、1973年田中総理訪ソなど)相当高い薬価が付いていたこともPSKにとってはラッキーであった。

薬価の申請を行うと薬務局経済課の学術ヒアリングが行われるが、実際の薬価を決めるのは保険局医療課である。そこで経済課が医療課にいかに説明しやすい資料を作成してくれるかで薬価が決まるので企業にとってはこのヒアリングが薬価を左右すると言って良い。医療課は日本医師会の薬価委員会に諮って了承を得られれば薬価が決まる。

昭和51年10月20日に厚生省薬務局の経済課に薬価メモを提出し、翌年1月28日にヒアリングが行われた。三共の薬価担当者と呉羽の医薬品部と東京研究所から出席し、担当のT氏とN氏からの質問に答えた。クレスチンの基礎から臨床に至る多数の質疑応答があったが、フトラフールを選んだ根拠がもっと明確になれば問題は無いのだが、何しろ制がん剤の売り上げが伸びているからなーということだったが無事終了した。 問題が無ければ5月1日頃収載になるだろうが遅れる場合は連絡するとのことだった。この質疑応答をもとに医療課への資料を作成し説明して貰ったと思われる。医療課から医師会の薬価委員会へ説明が行われた。日本医師会雑誌第77巻第10号(昭和52年5月15日号)p-1290~にクレスチンの薬価申請に対する審議の様子が載っている。


見にくいのでこの内容の概略を述べよう。
中村技官(医療課の担当者か?)がクレスチンについての基礎及び臨床の概要を説明した後、「経口投与という利点もありまして、このものはは進行癌の化学療法に対しても有効な薬であろうと言うことで承認されたものです」と審議を求めると、井上委員が「今までの問題の繰り返しだが」とことわって「適応のところで、頭頸癌の臨床データが全くない。それは専門家が入っておらんからですね。これは業者がこれだけでやるとまた金がかかるからやらなかったのか、あるいは、今からおいおい追加していくのか。(中略)フトラフールの場合もそうだったですね。この前、私注文つけたんですが、あとから症例を追加して、頭頸部の患者ついても効能効果を追加させましょうということをおっしゃていただいたんですがいまだにこれが出てきておりません。したがいまして、そういうときは正しく行政指導をなされるようにお願いしたいんです。」(中略)
永井委員もペニシリンを例にあげて、保険では使えないのがいっぱいあると応援し、井上委員は症例の少ない症例を保険で使えるようになるよう行政指導するようにお願いしている。浅野委員長が「このクレスチンは全科にわたり、また先般世界的にも問題になってたおったわけですが、他の方々どなたか御発言ございますか」
と質問すると五島委員が「確かに副作用は無いし、飲みやすいという点でいいですから、ぜひ早く使いたい。」
と発言した。再び症例の少ない癌腫を何とかしなきゃという議論に戻った後、永井委員が「早く売りたいものだから、薬屋はまずとりあえずというやつだよ。あと追加しやしない。少ないやつは。」とまとめ、浅野委員長「ほかによろしゅうございますか。ぜひこれは早く出して頂きたいという結論でございますが、効能効果これでよろしゅうございますね」と締めくくり、井上委員の「不足ですが、しょうがありません」で終わっている。この結果を受けて薬価収載が承認されている。

医薬品部での主な担当は私とZであった。交渉の結果1166.20円/1gという高い薬価が付いた。この薬価は当時の金の1グラムあたりの価格とほぼ同一で、あるドクターなどはPSK飲むより「金」飲んだ方が効くのではないかと冗談を言われたことがある。

この薬価は結果的にはクレスチンバブルと言われた呉羽のバブルの始まりとなった。


当時、新薬の薬価の収載時期についてはルールがなく不定期であり、昭和50年代には自民党社会部会にて年2回、収載することは定められたが必ずしも実施はされなかった。(日薬連50年史:平成11年3月、日本製薬団体連合会、p-39)

 既収載品の薬価算定方式と薬価改定については日薬連50年史によれば、「昭和42年以降は取引件数の多い医薬品については90%バルクライン方式にて、また取引件数の少ない医薬品については同種同効薬の薬価改定率にて薬価算定され、薬価改訂が実施されてきた。その結果種々の薬価算定方式を受けながら薬価は次々に低下して行った」とある。

(昭和53年2月1日△5.8%、昭和56年6月1日△18.6%、昭和58年1月1日△4.9%、昭和59年3月1日△16.6%、昭和60年3月1日△6.0%、昭和61年4月1日△5.1%、昭和63年4月1日△10.2%、平成元年4月1日+2.4%(消費税導入、全面改定)、平成2年4月1日△9.2%、平成4年4月1日△8.1%、平成6年4月1日△6.6%、平成8年4月1日△6.8%、平成9年4月1日△3.0%(消費税引上げ)、平成10年4月1日△9.7%)と続落している。

調整品目といわれて薬価が下がったこともある。
これは「薬価算定方式等に関する中医協答申」(昭和57年9月18日)により、薬価改定での薬価引き下げに該当しない医薬品であっても、再審査期間が終了し、競争がない寡占市場を形成しているとして、免疫療法抗がん剤等(昭和59年3月~昭和63年4月)が適用されて薬価が見直された(日薬連50年史p-48)とありPSKもこれにより見直された。

 三共は90%バルクライン方式で薬価が下がると利益が減少するので、病院からの薬価交渉でも強気で押し通し薬価が下がらないよう懸命に努力していたので、下記のように薬価の減少は少なくて済んだようだ。これは又呉羽にとっても利益確保に大いに役立った。途中で薬価がこれ以上下がると呉羽が潰れるからと薬価交渉で泣きついたこともあったが、あまりに売れすぎていたため健保財政が悪くなり当時の大蔵省から睨まれて「呉羽の一つや二つ潰れるなら潰してしまえ」と言われたらしい。このあたりから早く「ゾロ」を出させてクレスチンを使わせないようにとの雰囲気が出てきた。ゾロについては別項で述べる。ゾロの認可にもかかわらずそれほど薬価は下がらなかったが再評価により売り上げは激減した。


  *クレスチン発売準備

昭和52年5月2日に薬価が収載されたがその前の4月23日に三共はクレスチンを紹介するため全国の医薬品卸売業者を集めて東京プリンスホテルで大講演会を開催した。呉羽から社長と専務、部長と私が招待された。三共の大勢の参加者や卸の社長へ今後のことも考え名刺をばらまいたのを覚えている。また、立食パーティーの豪華さには驚くばかりであった。いよいよ発売が間近に迫った。 

                   案内状


当日のプログラム(そうそうたるドクター達)

呉羽の参加者(社長、専務、部長と私)

 

三共へのクレスチンの納入は壬生分工場で作られた製品が初納入である。その時の写真をWさんから頂いた。製品とそれを祝って送り出す従業員の人たちの写真である。
          
          





          

出荷当時のクレスチンの包装状況と製品は下記の通りであり、これが細粒に変るのは私が呉羽を退職した後のことである。飲みにくくもあり、この薬を飲んでいる人は「癌患者」とすぐ分かると評判は芳しくなかった(近藤啓太郎:微笑参照)。






 *クレスチン販売 
薬価収載と共に一斉に全国発売となった。当時のパンフレットを紹介しておこう。

               昭和52年3月とある





*クレスチンの売上

年度

売上(億円)

薬価(g)

備考

昭和52年

113

1166.20

5/2PSK発売

昭和53年

321

1141.90

 

昭和54年

431

 

昭和55年

519

 

昭和56年

450

1084.80

丸山ワクチン承認問題

昭和57年

485

 

昭和58年

510

 

昭和59年

515

1030.60

 

昭和60年

515

991.40

草川議員質問趣意書

昭和61年

530

 

昭和62年

515

再評価指定

昭和63年

490

960.70

ゾロ品上市

平成元年

350

983.80

再評価12月

平成2年

135

886.40

 

平成3年

125

 

平成4年

110

 

平成5年

95

 

平成6年

91

869.30

 

平成7年

82

 

平成8年

69

824.70

 

平成9年

60

791.00

 

平成10年

52

 

  国際医薬品情報1994.3.14等より 

  別冊ファインケミカル臨時増刊「制がん剤の最新事情」1981.11.16より

  平成18年3月期46億円、平成19年3月期37億円(製薬企業資料より三共の販売高)


 全制癌剤の売上は昭和51年度約600億円であったものが、昭和52年にクレスチンの登場に刺激され、フトラフール、ピシバニールの伸びも大きく、昭和55年度には約1800億円と5年間に約3倍の伸びを示した(別冊ファインケミカル臨時増刊「制がん剤の最新事情」1981.11.16より)とある。

クレスチンは平成元年の再評価後売り上げは急下降したが、上記のように平成10年までの総売上は6500億円を越えている。これ以降の平成29年3月31日に販売終了に至るまでの販売高は把握していないがそれほど増加してはいないと思われる。それでもPSK承認時に次の研究所の開発目標が最低売り上げ30億円以上を目指すとされた目標よりしばらくは上であった。退職した頃(平成12年)も30億円以上だったと記憶している。





  

 15 医薬品部へ

15-1  残業100時間越え 
 

・PSK承認の目処もつき申請作業がほぼ終了しつつあった頃、今後の自分の仕事はどうなるのか考えた。一つ目は錦研究所に戻って応用微生物研究に戻れるのか、二つ目は東京研究所でその後も研究を続けられるかである。東京での生活は文化や賑わいが「いわき」とは全くレベルが違うことは明らかであり、薬学出身なので出来ればこのまま東京研究所に残り医薬品関係の研究を続けたいと思った。錦研究所所長の有り難い申し出であった「しばらく不要な家具は工場で預かって貰えうように手配するよ」が実現できず家具を移動先へと全て持ち歩いていたこともあったので、錦工場より東京研究所を選ぼうと思った。そこで先ず家を都内に買うことを考えた(都内に自宅があれば転勤はないか転勤があったとしても、しばらくたったら東京勤務になるだろうとの姑息手段であるーーその頃、噂では東京に自宅を構えたら錦工場に転勤させられるという現象もあったやに聞いていたが)。

・申請作業の時は組合員だったので残業代がつき、それも毎月100時間を超える残業で(会社は当時利益が出ず残業は厳しく規制されていたが、石油関係研究の連中は残業無制限になっていたので、Yは自分たちも残業制限は無視してかまわないだろういとのことで全ての残業を申請するように指導していた)、毎月給料が倍近くあるようなもので、且つ残業が100時間超ということはほとんど会社にいるような状態で外出する費用もかからなかった(CT裏の社宅でもあり、休みはひたすら睡眠不足を補った)ので家の頭金の一部ぐらいがあっと言う間にたまった。医薬品部に異動してまもなく非組合員になった時、残業代がつかなくなり、この収入レベルに戻るまで数年かかった?記憶がある。もうしばらく組合員でいたら(その後の医薬品部の頃の激務からみて)会社から借りた金の返済は楽だったかも知れないが、現在では考えられない残業だった。インサイダー取引と思われる株売買の利益も当然建築費に役立った。

 

・家を建てることを報告して東京研究所残留をYに希望した。彼は工場の研究所か東京研究所の2択だが、PSKの承認がおりたしそれへの貢献も高かったので、東京研究所勤務を継続できるように努力するとのことだった。しかしながら実際には本社に新たに出来る医薬品部に異動辞令が出た(1976年10月1日付け)。噂によればY本人かそれに準じるものを異動させろと言われ自分は研究したいので私を出すことで手を打ったとのことであった。このあたりはやはり外様は外様ということなのかと当時は思ったものだ。私の東京研究所での仕事は研究ではなく申請作業が主だったし「ガン」について深く勉強する時間もとれず、ドクターとの接触も少なかったし、臨床データを集めた経験も浅かったので、Yの代わりになるほどの役に立つはずはないと思ったが、そんなことには関係なく辞令は出た。ただ、私の要望で東京研究所との兼務にしてくれとの頼みが認められたことは、不幸中の幸いだった。この兼務辞令が3年半後に医薬品部を解職されたときの異動先として役に立った。錦研究所への異動を強くお願いしてそれがかなっていたら私のその後の人生はどう変ったかと思うこともあったが。

 

15-2   医薬品部へ 
 
PSK承認2ヶ月後の1976年10月1日に職制の一部改正があり、本社に「医薬品部」、錦工場に「医薬部」が新設された。また、東京研究所壬生分室は錦工場長直轄の壬生分工場になった。

             呉羽時報(1976/11)より

 

医薬品部は本社ビル(日本橋堀留町)に出来たので、私は新宿の研究所からいつもは本社ビルにいることになった。 
           

                当時の本社ビル 

医薬品部は化学品本部長根津の管轄下に、化学品本部副本部長兼医薬品部長大平、主査前田(前輸出部長)主査宗像(化学品技術部1課長兼務)。部員綾木、頭師(2人共前化学製品課)、CT兼務の私と他課兼務の女性2人で発足した。しかし大平は根津(東大農学部卒)より年配であり同じ東大でも工学部卒だったので根津は大平を煙たがったようだ。

本部長席の後方に小さな会議室があり殆ど毎週のように根津主催の会議が行われ、細かい質問や指示が出され、部長の出る幕は少なかった。部長は陰で「あんな細かいことを聞くのではなくて、常務らしく大所高所からの意見、指示をすべきだ」と言っていた。

発足日の根津主催の会議では医薬品部の仕事として

・三共との連絡

・役所対策

・海外対策

・ドクターとの連絡

・他部との連絡

・商標、特許関係

・宝酒造との連絡

等が示され、発売に向かって支障の無いように全力を上げるようにと指示された。

この席で本部長の方針の根幹は「医薬品部はドクターの財布たれ」であり、接待やゴルフは日常茶飯事であるので、交際費の大幅な増額を要求したとのことであり、この方針は異動して来る人への土産話のようで、ゴルフし放題につられて異動してきたが期待外れに終わったと嘆いた人が多かったようだ。                 

 この打ち合わせ後は本社裏の「寿司英」で会食後、銀座へと出向いた。これは接待出来る店を紹介するとともに、接待になれさせ「財布たれ」の練習も兼ねたようだった。このような表に出せない接待などもあり、それは裏帳簿で管理させた。このような接待を覚えさせたことはその後の私の人生に大きく影響した。 

こぼれ話としては根津が行く銀座の店では「カティーサーク」をマイボトルとして入れていたのに、大平は「オールドパー」を入れやがってと非難したとの話を聞いた。大平は三共の常務に招待されて行ったお店に置いてあったのが「オールドパー」だったので、別な機会に行ったときにやむを得ず「オールドパー」を入れたらしいのだが。 このような接待に関するこぼれ話は山のようにあるので、その時々の項で書くことにしよう。

                   夜の銀座

 個人タクシーの券は一冊貰い連日のごとく深夜タクシーで帰宅したが、自宅までの1時間は睡眠のみであった。

 

発足当時の医薬品部の仕事として新任のメンバーから推察されたのはPSKの海外進出がメインの仕事のように見えた。大平は元ニューヨーク駐在所長だったし、前田もそうだった。宗像も留学経験者だった。

その後国内の仕事(三共販促の手伝いなど)が大幅に増え、且つ海外展開が難しくなり、国内用の仕事のため次々と人事異動が行われた。1976年11月に農薬課から林、1977年3月に新入女子社員の岡本、1978年6月に農薬課長だった平木が主査で、化学製品課の鴫原(1年後に海外留学)が異動してきた。

驚いたことに2年半後の1979年5月に大平部長に替わりデュッセルドルフ駐在所所長の羽生田が医薬品部長として異動してきた。この人事はまだ海外展開を計るのかと思わせたが、根津が大平を煙たがっており交代させたと思われた。同6月に私以外に唯一の技術系の宗像が錦商事に転籍となると同時に、岡田が大阪支店から、富樫が農薬課から異動してきた。1979年9月には前田も海外開発部に異動となり海外展開は結局頓挫した。1980年1月電算室の小迫が研究会のデータ解析を主務として異動してきた。

私は1980年6月に医薬品部を解職され兼務していた東京研究所のみの仕事に戻った。医薬品部在職は3年半に及んだが、3年半で部長以下男性6人で発足した医薬品部は男性8人と二人増えたのみで、新設部門のため試行錯誤はあったとしても異動の激しい部であった。解職されたとき「君は三共からの評判があまり良くない」と言われたが、私が三共の担当者に聞いていたところでは他の部員の悪い噂が多かったので、少し驚いた。確かに我々は医薬品の業界については知らないことが多かったし、PSKについて三共やドクター からの質問に殆ど答えられなかった。私も心配したとおり、実験手法の詳しいことは殆ど説明できなかったので、Yに頼んでCTから専門家を連れてドクターを訪問した。きちんとPSKやガンや業界の勉強をしてから活動すべきだったと反省した。羽生田部長からは「何も分からないで部長になったので、君の異動を止められなかったが、しばらく経ったらまた戻ってくるよう依頼するつもりなのでそのつもりでいてくれ」と言われた。確かにしばらくして研究所に誰か医薬品部に出してくれとの依頼があり、Yは今度は同期のOを推薦した。彼も申請作業は出来なかったが、留学するまではPSKの研究をしていたし、私を不要としたからには他を出さざるを 得ないと言っていた。このあたりから少し医薬品部と東京研究所の関係に不協和音が生じることとなったようだ。

東京研究所に戻ってPSK関係で医薬品部や三共を手助けしていたが、三共の営業部長(呉羽との窓口)から「ある支店でPSKの大事なドクターとの関係をしくじったので助けてくれ」と頼まれ、偶然以前から担当したドクターだったので訪問して努力した結果無事に解決した。その時その支店の支店長が「以前会ったときにあなたの態度が気に入らなかったので、三共本社にあなたのドクターや三共への対応が悪いと告げ口した。その後医薬品部を異動させられたと聞いた。あなたのやり方であの難しいドクターとの関係が元に戻り、あの告げ口が間違いだったとわかり、告げ口が原因で異動させられたとしたら大変申し訳ないことをしたと反省している」と異動の一因を教えてくれた。

その結果技術系が誰一人のいない全員営業の医薬品部になったため(社長研修会で技術系がいなくなっても大丈夫なのかと聞かれたが、皆さん勉強家なので大丈夫でしょうと答えた。これは異動内示後の研修会だったし研究所に戻れたのでゴマをすったのだが、羽生田部長からは心配だと聞いていたし、本当は大丈夫とは思わなかった。)研究会などのフォローが殆ど出来なくて三共と東京研究所に「おんぶにだっこ」となった。この頃はPSKの売り上げはうなぎ登りであり(まだ、明確なNY戦争も起こっておらず)、同床異夢の世界を楽しんだが、私の人生にはその後も色々なことが起こった。

医薬品部にいたとき担当した仕事については項を改めることにする。


 


 

  32 ゾロ品 クレスチン製造は基本特許(昭和43年10月3日 制癌剤の製造方法 特許登録番号968425 昭和51年公告)により昭和63年10月3日までの20年間は特許法によって守られていた。 特許が失効すると医薬品メーカーはある条件下で同一類似品(後発品)を承認申請出来る。...