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14 呉羽時報より

私がPSKに関わったのは1973年9月(昭和48年)であるがその頃の呉羽は激動の時代であった。時報からそのあたりを振り返っておこう。 
 
1972年4月1日号の臨時号で
「従業員の皆様へ 当社の現状と今後の方針について」と題した荒木社長の決意が述べられている。その中で「現在当社は創業以来の苦境に陥っています」から始り化学工業界の不況の現状とその原因を記し、会社は「幸い今後に大きな期待が持たれる多くの新技術の芽がある」とし、「石油化学関係を上げ更に医薬品などのファインケミカル部門も期待される」と記した。「これらが開花するまで会社の体力を持たせなければならないので、拡販、合理化、資源処分も辞さない方針であり、全社的努力が必要である。配当を6%に減配したが実態はこの配当の維持すら容易ではないが、無配会社は脱落会社と評価され多大の支障が予想されるので外に対しては6%配当を維持したい方針である。非常事態にあたり会社の方針と決意を披瀝し、皆さんのご理解とご協力をお願いする次第である」と悲壮な決意を表明し、10項目の方針(略)を掲げている。 
 
この段階ではPSKの開発はまだ「新しい芽」であり、それほど期待されてはいない。
              呉羽時報1972年4月増刊号


ここまで財政が悪化したのには化学工業界の構造的な不況やドルショックだけではなく、当社が社運をかけて推進していた石油関係事業の行き詰まりがある。社史によれば分社化していた呉羽石油化学は石油プラントの操業が安定せず多額の追加投資やつなぎ資金を必要とし、呉羽化学は多額の融資をし、その結果呉羽化学の借入金残高が急増し、事態は容易ならざるところまで来ていた。そこで1973年初頭に呉羽石油化学を財務的に根本的に再編成することになり、4件の具体的方策をたて4月からこの方策を実施していった。その結果ある程度の資金が調達され「SN財務対策」は一応目的を達し、「呉羽石油化学」は1973年7月に解散となり、同年5月に設立した「呉羽油化」と7月に設立された「太洋化研」がその事業を引き継いだ。この「SN財務対策」がほぼ予定どおりに完了した1973年11月荒木社長は会長になり、高橋社長が誕生した。PSKの後ろ盾だった大塚副社長は取締役相談役に退き呉羽プラスチックの社長に就任した。


その頃東京研究所長はGからY(通産省から1970年6月に入社し、本社の調査開発部長になった。通産省の研究費を呉羽に与えることを決めたと言われた)に替わり、本社営業本部長室長の事務系のFが副所長になってCT副所長はUとHを含めて3人に増えている。FはCTの労働運動対策ではないかと言われたが真偽不明である。1972/6/21


PSK関係の記事が呉羽時報に掲載されたのは多分壬生分室発足(1972/8/21)の記事が初めてではないかと思われる。

                呉羽時報1972年9月号


申請の頃の社内のPSKへの期待感?を示す呉羽時報からの様子も述べておこう。

              
               呉羽時報1975年4月号
「時報引用」
1975年1月28日、日経・サンケイ・赤旗の各新聞で当社の”PSK”について報じられてから俄然”PSK”は世間の注目去れ始めました。内容は第5回高松宮妃癌研究基金国際シンポジウムにおいて、癌研化学療法センター塚越基礎部長が、ガンの治療にサルノコシカケから抽出培養したPSKを使って、人間が本来持っている免疫から強化してがんの増殖を防ぐ可能性が出てきたこと、更に、PSKは呉羽化学が開発し全国指定病院で臨床実験を2年以上しており、年内に製造販売の許可申請をするとの発表を行ったことです。[中略]
S48年の制がん剤の全国の売り上げは71億円で医薬品総額13,637億円の10.5%にすぎません(抗生物質など一品目でも全制がん剤の販売金額より上まわるものは数多くあります)。PSKが医薬品として発売されたとしても、企業ベースでどの程度寄与されるものであるかは現在未確定ではありますが出来るだけ早く認可をとり早く呉羽化学の柱と成り得るよう、又多くの需要者の期待に添いうるよう努力して行きたいと思います。今後の問題としてPSKの販売方法など問題含みではありますが皆様の御意見御協力を期待しております。


          高松宮妃癌研究基金国際シンポジウムでの発表

 

この頃はまだ申請準備中であったが、ようやく社内で関心が出てきたと思われるが新聞のニュースが先で、発売されたとしてもどの程度会社に寄与するのか?と疑問を呈している。 
 
同じ号に連載中であった「われらの職場」にCT壬生分室も取り上げられているのは関心が広がっていると感じさせる。

その頃の呉羽の決算を見てみよう。昭和50年度の決算報告が時報の1976年6月号に載った。

解説の中で、「50年度の決算の特徴は限界利益率の低下により収益低下を経理処理委の変更と補修費等の固定費の思い切った節減圧縮により生み出したものである」とし、売上高546億円、経常利益が9億7千5百万円に対し試験研究費の繰り延べが12億2千5百万円もあると述べている。また、借入金がどんどん膨らみ前年度100億円も増えており自己資本率が低下し、企業体質の弱体化が進んでいるとし、1972年の荒木社長の決意にも関わらず業績は好転していない。


その後PSKに関する時報の記事はしばらく無く、PSKが承認された次の月(1976年9月号)に突然三共との販売提携の記事が出る。

                              


更に翌10月号には「クレスチン 制がん剤分野の概要:製造承認に当たって 化学製品課」の表題で数ページに渡って紹介された。承認後2ヶ月過ぎてもまだ本社に「医薬品部」は存在していない。




内容の項目は「医薬品産業とは」「医薬品の需要構造」「課題の多い今後の医薬品産業」「制がん剤の市場と開発動向」「制がん剤の分類」「壮年期の死因のトップはガン」最後が「クレスチンとは」となっており、ようやく社内で認知された。ただ、この紹介でも制がん剤の市場に不安感を示している。
 
当時の化学製品課の課員が治験を行った大学や病院を訪れ「クレスチンは売れるでしょうか」と尋ね歩いたそうで、大半のドクターから「馬鹿なことを聞きに来たよ」笑われたそうだ。医薬品大手がPSK販売権の争奪戦をしていたのに・・・。


この10月号に連載記事の「われらの職場」にCT(東京研究所)Bグループが紹介されているが、この記事の締め切り時点では私も一員として紹介されてように、突然の転勤がまた起こるとは夢にも思わなかった。









 

13 PSK研究会

 

食品研究所で行われていた毒性試験に関して東大のK教授から指導を受けていたという。食品研究所の一部が東京研究所に移り生化学班となり、毒性試験を社内受託するようになったとのことである。その頃Yは癌の研究を密かに開始していたらしい。
     
昭和46年に毒性試験の指導を得ていた東大のK教授の紹介で世界的な病理学者で東大病理のO教授の知遇を得、さらにO教授の紹介により当時癌の基礎研究の第一人者である癌研究会癌化学療法センターS所長の知遇も得ることができたという。昭和46年暮れから47年にかけてPSKに関する諸データをO教授、S所長に検討してもらい、O専務の裁可によりPSK研究会が組織されることになったという。臨床のトップはやはりK教授の紹介による国立がんセンターのK先生にお願いすることになったらしいが、がんセンターのK先生にはYの母親がお世話になっていたので、その縁で座長を依頼したとも言われていた。K及びS両先生が臨床及び基礎の研究会の座長となって研究会が組織された。    
 
抗腫瘍性の試験の手技は当初は実中研のE博士の指導を受けていたが、研究会が組織されてからは癌研の他、国立がんセンター、九大、阪大(微研)、名大、東大、東北大、北大(癌研)等の医学部や愛知がんセンター等々との共同研究が増大した。
 
Yが卓越していたのは一つの種(一人の人)から次々に繋がりを大事にしてそれを拡張していく能力に長けていたことである。O専務の小学校の同級生の京大医学部解剖学教授のN先生、助教授のT先生、助手のT先生、I常務の親戚のがんセンター外科のI先生、その仲間のN先生など次から次へと癌研究の第一線の先生方を網羅していった。 
PSKは初期にはKSFRと仮称されていたが、1971年に至って(国立がんセンターの)K先生によってPSKと正式に命名されたという。学会発表もPSKではなくKSFRとして発表されていた。

 研究会は昭和47年4月15日に第1回が、同11月18日に第2回そして昭和48年6月15日に第3回目が開催されている。その報告書が2冊出来ており、基礎研究と臨床研究の報告がされている。これ報告書はPSK研究会編となっており研究会に報告されており公文書と見て良いだろう。




臨床試験の研究会の組織は上図のようであったが、報告会での参加者も不明であるし詳細は割愛するが、この報告書と申請時の資料とでは相当異なることが記載されている。

 










これらの報告書ではPSKの抗腫瘍効果について癌研究所の桜井欽夫、副作用につ東大太田邦夫、臨床経験について国立がんセンターの伊藤一二が講演されている。
また第2報では、上記の他に抗腫瘍効果について名大内科の大野龍三、外科領域で九大2外の服部孝雄、名大2外市橋秀仁、婦人科領域で国立がんセンターの笠松達弘、野沢志郎、内科領域で大阪成人病センターの正岡徹、愛知がんセンター小川一誠、国立がんセンター坂井保信、癌研古江尚、東北大抗酸研斉藤達雄、高橋弘、国立東京第一病院武正勇造、国立名古屋病院広田豊らの講演と追加発言で阪大微研外科芝茂、東北大抗酸研内科斉藤達雄、国立東京第一病院小山善之が発言している(敬称略)。 
 
研究会はその後種々のプロトコールを立案し、実施していったが結果が確定する前に承認申請が行われ、販売を担当することになった三共がこれらの研究会を引き継ぐことになり、呉羽は手を引くことになった。呉羽時代のプロトコールなどは割愛する。

当時の開発責任者であったUのレポート(PSK研究の現状並びに今後の見通し:1973/6/21)によれば、第3回までの臨床例は約520例、未報告の例約50とあり、第3回の臨床まとめとして司会者が1.免疫療法の手がかりが出来たので、効果判定法の決定を急ぐべし。2.併用薬はどのようなものが良いか。3.適正投与量は?4.使用時期はいつが良いか。5.外科手術との併用療法は?を今後詰めなければならないと指摘したと記している。 
 
臨床研究は内科部会と外科部会があったが詳細はよく分からない。このような時期に私はPSKに関わることとなったが、内科部会の分科会があるホテルで開催された時からこのような会を手伝うこととなった。ただ、この会は夏の暑い時期に午前中開催され、終了後通常はパーティーがあり食事やアルコールが準備されるが、この時はホテルのビアガーデンの飲み放題が準備され、研究所の所員がホスト?となり接待したが、ドクターからは暑さと食事内容に不平不満が続出した。しかしその頃の呉羽の状況から見たらやむを得ぬ待遇であり、また当時の呉羽の苦しい台所を示す貧しい思い出である。


  32 ゾロ品 クレスチン製造は基本特許(昭和43年10月3日 制癌剤の製造方法 特許登録番号968425 昭和51年公告)により昭和63年10月3日までの20年間は特許法によって守られていた。 特許が失効すると医薬品メーカーはある条件下で同一類似品(後発品)を承認申請出来る。...