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 8 申請と審査

 8-1 申請

申請書の作成が大半終わり、PSKに「クレスチン」という販売名をPSK研究会臨床部門座長の国立ガンセンターのK先生に決めて貰い、いよいよ申請となった。(第5章申請から認可へ参照)

8-1-1 業許可申請 

申請の準備が整った時に、承認申請と同時に医薬品製造業許可申請が必要なことが判明した。いわゆるこの医薬品をどこでどのように製造するのかということであり、これは承認申請とは全く異なる申請であった。 

ちなみに前出の地人書館「医薬品開発概論」p-236に医薬品製造業の許可という項目があり、その中で「申請者に人的・物的に医薬品を製造(輸入)するに十分な能力がなければならないとしているので、[薬局等構造設備規則]厚生省令を尺度として、その許可は製造所(工場)ごとに受けることが必要」簡明に書かれているのみであった。 

先ず、工場をどこにするかが問題になり、錦工場では医薬品製造は初めてのことで対応が出来ず、CT壬生分室を工場として申請することになった。 
これまた申請の様子が分からず、結局、栃木県の薬務課に相談した。新栃木の料亭にて会食しながら業許可申請を相談しまとめ上げた。
薬事法で構造設備基準が示されており、一番簡単な条件での業許可申請書を作成した。 

ところがその工場には製造管理者として薬剤師が必須であることが判明した。当時薬剤師免許を持っていた関係者はH所長他2,3名いたが、当然私も免許を取っているはずということになった。私は試験には合格していたものの免許の申請をしていなかったため免許を持っていないと説明し、ついに食品研究所にいたSさんに白羽の矢がたった。名前だけ貸してくれればということでOKをとり申請したが、結局工場に常駐し実務をやることが必須になり壬生に転勤された。後日会う度に「計られた」と言われたが、当時私には何の権力もなく、私自身も承認後研究所から新設の医薬品部に異動させられた。 

*エピソード :私が免許を申請しなかった理由は入社時に薬剤師の国家試験が4月のはじめに実施されるので試験を受けてから研修に入って良いかと呉羽の人事部に問い合わせしたとき「薬剤師を採用するのではないので、薬剤師の免許を取りたければ後日有給休暇を使って個人で取って下さい」ことで、入社後3交代勤務やBHC輸出用データ取りで大変なときだっ国家国家試験の勉強をし直して有給休暇を使って受験し合格した。免許は申請すれば取得出来たが申請には登録費がかかり又入社後の10年間は薬剤師免許の必要性が無くは無免許を通し続けた結果だった。この時は壬生へ舞い戻る可能性を感じたので無免許は譲れなかった次第である。この時免許を申請して壬生で薬剤師の仕事をしていれば壬生はすぐ閉鎖になったので、錦に戻れたかも知れないが研究所勤務に戻れたかどうかなわからない。なぜかというと管理薬剤師になったSさんは壬生閉鎖と同時に錦工場の管理薬剤師として転勤したからである。定年間際になって薬剤師登録を行った時、担当のお役人がこんなに長く申請しない人はいませんよと笑って言われたが、定年後の仕事のことも考えて「薬剤師」になった。

 

申請は製剤と原薬の2本を作成したが、原薬をそのまま製剤とするのであれば1本でよいことになり、後日原薬を取り下げた。
場所、設備、試験機器などを準備し、業許可と承認申請を同時に栃木県経由で申請した。製造業の申請書は栃木県に申請して許可されたが、工場を錦工場に置くことが決まり、福島県薬務課に業許可申請も後日出された。(1976年10月に品目追加許可申請を行い、12月に許可がおり、65Tタンクによる培養が開始された。)

 



8-1-2 医薬品製造承認申請 

医薬品製造承認申請書も製造業許可申請した栃木県経由であったが「栃木県50.8.1薬第4-100号」の番号を押した申請書は添付資料とともに直接厚生省の審査課に運ぶよう言われその日のうちに霞ヶ関の厚生省、薬務局審査課に届けた。当時はCT所長専用の車があり、専任の運転手がいつも待機していた。申請書はそれに乗せて栃木県庁から厚生省に進達された。部数は忘れたが調査会用も含まれていたので4分冊の添付資料は膨大な量であった。 資料にはそれぞれの試験の生データを添付することになっており、安定性試験では分析データや液体クロマトグラフィーの写真など膨大な資料、毒性試験の病理写真、吸収分布試験等々が等々が別に持ち込まれた。

        添付資料(医薬品の承認審査の概要(新薬審査第五部)資料3-2より)

医薬品製造承認申請書自体は2ページで別紙「規格及び試験方法」の4ページを含めても6ページである。 
「販売名」「成分及び分量又は本質」「製造方法」「用法及び用量」「効能又は効果」「貯蔵方法及び有効期間」「規格及び試験方法」「備考」
であるが、これは法で定められた項目であり最近も変わりは無い。 

 

   最近の申請書様式(医薬品の承認審査の概要(新薬審査第五部)資料3-2より)


申請があると厚生大臣は中央薬事審議会会長宛に諮問書を出して、これらの申請内容が承認に値するかを(添付した膨大な資料から)検討させる。審議会のそれぞれの専門家が判断して、最終的に中央薬事審議会の常任部会が承認して差し支えなけれ厚生大臣に承認しても差し支えないことを伝え、大臣はこれを受け申請者に「医薬品製造承認書」を発行して申請は完了するのである。 
 
当時の薬事審議会は薬事法第3条の規定に基づき中央薬事審議会が設置されており、この組織は、調査会(新医薬品調査会、抗悪性腫瘍調査会など6部会)、医薬品特別部会および常任部会よりなり、委員は厚生大臣の任命する医学・薬学の専門家で構成された。調査会は一部を除き3~4ヶ月に1回開催されたようだ。(当時は抗悪性腫瘍調査会のメンバーは10名、特別部会は23名、常任部会は20名であった) 

 

             医薬品開発概論(地人書館)p37より

8-2 審査 

審査は薬務局審査課のヒアリングから始まりった。先ず審査課の担当事務局が抗悪性腫瘍剤調査会にかけるための準備を行い、調査会での質問に対し申請者に代わり対応するためだった。ヒアリング当日はH所長以下担当者が10人位出席して対応したが、膨大な想定問答集を作成しそれぞれの担当者が回答するようにした。
その後調査会の度に出された質問などには必ず当日質問内容を箇条書きにして事務局担当者に確認をとった。

回答に当たっては面会時間に担当者と面談し、納得が得られるまで話し合った。当時は審査課の担当者との面談は廊下や担当者席での立ち話が多く、他社もそれらを聞き取ることは可能な位であったが、通っているうちに担当者と顔なじみになり、ロビーにあった自販機で購入したコーヒーを飲みながらの面談もあったぐらいである。日に2~3回面会に行ったことも多々あった。担当者はその後他の部署に異動していったが、私も医薬品部に異動した後、他の用件でばったり出会ったりしてお互いびっくりしたこともあった。当時の厚生省は現在の厚生労働省と建物が違って古い建物で審査課は確か1階であったが道路際の歩道には水俣病やその他の座り込みがよく見られた時代であった。

調査会で指摘された事項は会社に持帰り対応を考え、その結果を書式にして事務局に確認をとり、その後謄栄社に持ち込み和文タイプで仕上げて厚生省に提出した。(当時はパソコンも無く、提出資料は手書きの文章を和文タイプして提出せざるを得なかった)
 
*その頃の個人的エピソード:2女が誕生したときの思い出がある。Yとある先生に面会に行く予定があった日だったか?、2女が生まれたので病院に行く旨電話を入れて有給休暇を取りたいと連絡したところ、仕事と個人の出来事とどっちが大事なのかと叱責された。長女の時は里帰り出産だったが、2女は東京での出産で誰も手助けする人がいなかったので、仕事よりも個人の出来事を優先させて貰った。Yには相当文句を言われたが、彼は身内が亡くなっても仕事を優先させるのか(仮定の話だが)と思ったものである。だが彼のPSKにかける執念を見た思いでもあった。

8-2-1 第1回の調査会

PSKを審査する第1回目の抗悪性腫瘍剤調査会はS50年(1975年)10月29日に開催され(第3回抗悪性腫瘍剤調査会)、指摘事項が8ヶ出された。その内容には我々の想像していた想定問答にはないような指摘もあり、その対応には相当時間を費やした。提出した資料に無かったデータや、分類方法を見直して整理すること等の指摘は割と早く整理がついたが、毒性試験における標準偏差値の異常に小さい理由を説明し、個別データを提出せよという指摘があり、なぜこのような指摘が出たのか検討がつかなかったが、最終的には文献調査して、それほど標準偏差値に差異は認められなかったこととし、個別データも提出して何とか対応がとれたが、このような思わぬミスには回答を得るまでに相当時間がかかった。文献調査は現在ではネット検索で簡単だが当時は科学技術文献速報やCA(Chemical  abstracts)などで文献の抄録を調べて全て文献依頼をして取り寄せ、英文の場合は翻訳するなど大変な労力を必要とした。先輩のHは博学で指摘事項を解決する文献を次から次に見つけてきて早い回答に大いに貢献した。回答作成に相当時間を要したのには別な要因もあったが、それは内緒でここでは述べない。
回答書は1項目数ページのものから200ページ弱のものまであり、これまた謄栄社に持ち込み年度明けに完成させて提出した。
 
*その時のエピソード:(この切羽詰まった状況の時)毒性試験担当のFのお祖母さんが遠方で亡くなり、Fは忌引きで帰省していたが、葬式中にも関わらず何回も呼び出しては問題の解決策を早くまとめろとYは指示した。その当時はこの問題を早く解決せねば審査が遅れるとあせっていたので、悲しさに浸っていたFの気持ちも分かっていたが、やむを得ずこのような態度に出たのである。
 
8-2-2 第2回の調査会
 
指示事項への対応で相当時間を食ったが調査会に対する回答書を提出した。それを元に、S51年(1976年)3月2日第2回の調査会が開催され、指摘事項の検討がなされ了承された。追加の指摘事項が2ヶ出されたが、それは「文言の訂正を行うこと」との指摘であり、「訂正のうえ次回特別部会に上程する」とのことだったので、そのとおりに訂正をして提出した。調査会の特別部会への調査報告書では、問題点として1:本体の研究 2:副作用のチェック 3:粉剤の安定性の検討 4:報告の投稿を積極的に行うことがあるので、引き続き検討を命じ、後日事務局に提出させることの条件を付与してあった。この頃からPSKの販売に関する争奪戦が始ったようだ?。

8-2-3 特別部会

同年6月18日に特別部会が開催され、「本品についてはこのものの物質としての本態の研究、副作用及び使用量等に関する調査を行うよう指示することを条件に、承認して差し支えない。次回常任部会に上程すること」になった。

8-2-4 常任部会 

同年7月23日に常任部会が開催され、審議の結果、特段の問題もなく承認して差し支えないとのことで、1976年8月20日付けで厚生大臣より承認されたが承認条件として「本品の副作用報告を3年間行うこと」という付帯事項がついたがこれは通常の副作用報告義務であった。なお、審査経過については昭和55年10月9日受領の鈴木総理から衆議院議長宛の答弁第4号で公になっている。

 

昭和50年8月1日付けで申請し、昭和51年8月20日付け承認番号(51AM)第488号で承認を得た。「運」「鈍」「根」は成功の元らしいがPSKにはその時々に応じてこの3つが揃ったと言うことだろう。私は東京研究所転勤時の約束通り(PSKのお手伝いの仕事も終わったので、)錦研究所に戻って新たな研究が出来ると思っていたが、予想に反してまた波乱の人生が幕を開けることになった。

8-2-5 余談

調査会の委員であった国立衛試のO部長はPSKの申請書に対して“必要にして十分な資料を整えた立派な申請書であった”と賞賛されたという。

付帯事項については「薬効成分の正体の研究と解明。副作用のチェック。臨床効果の報告などであった」と(問題小説昭和568月号p-154~)記されている。また丸山ワクチン問題で代議士や丸山ワクチン問題を考える会等などが国会への質問書を出したり、レポートを報告書にして公開したりして大半公開された。

・使用量の調査は(そのころは経口剤のフトラフール、注射剤のピシバニールが承認後1,2年後であった)フトラフールが大鵬薬品の努力もあって売り上げを伸ばしていたので、厚生省は経口剤で副作用のないPSKが馬鹿売れする事を懸念して、使用量・使用期間の調査を承認の付帯事項として付けたのではないかといわれた。

後日丸山ワクチンの承認がらみで呉羽の承認が1年でおりたことに対し、いろいろな中傷が入ったが、申請担当者としては1年で通ったことに対しては準備の完璧さを認められたものであり、申請に対する自信が生まれたものであった。これが後日K-247という次の制がん剤の開発では大いに役立ったし、また過信にもつながったことになる。

・承認後10年以上も経った後日、その後設立された医薬品事業部の連中からPSKの申請書はお粗末といわれたが、(当時のレベルでは)結構優れたものと三共の申請担当部門からもお墨付きをもらったのである。その後申請したKM2210の申請書を後日薬事部長として見る機会があったが、その申請書の方が私から見ると非常にお粗末だった。(最後はKM2210の申請取り下げを薬事部長として行った)

三共はこの申請書を見て当時で数億の費用がかかったものでしょうと評価した。 

当時国立がんセンターの総長はNであり(癌トキソホルモンの研究で有名)、中央薬事審議会の常任部会委員であったが、「PSKは絶対に通さない」と公言していたらしい。がんセンターではTが味の素と共同で椎茸由来のグルカン(後のレンチナン)を抗癌剤として研究し発表していたからと言われていた。が、Nは我々が申請作業中に突然亡くなった。この時はがんセンターでのお通夜にも出席し、帰りには不謹慎であったが皆で祝杯をあげた。PSKにとっては最大の障害?が無くなったと我々は思ったものである。

前にも述べたように臨床サンプルは液剤であり(PSK3g入り凍結保存品を飲む前に解凍して服用する)、申請剤型の散剤とは異なっていたことが、後日調査会でも話題になったと聞くが、結局散剤を溶解して服薬することは良くあることで散剤の規格やその他の条件が申請に耐えうるものであれば承認されることが確認された。(Yと懇意であった某社の人から「調査会で何か問題があるので承認には3~4年かかるのではないか」とYに電話があったという。このように申請作業の内容はすぐに各社が入手し調査会の内容もほぼ把握していたらしい)。

・昭和48年入手した「抗悪性腫瘍剤調査会」のメンバーは大森義仁(国立衛試)、山村秀夫(京大)、戸部満寿夫(国立衛試)、武正勇造(東一)、木村禧代二(がんセンター)、小田島成和(国立衛試)、古江尚(癌研)、橋本嘉幸(東京生化学研)、山本皓一(警察病院)であったが、昭和50年2月時点では木村禧代二、武正勇造、古江尚、山本皓一、石井良治(以上臨床)、戸部満寿夫(病理)、谷村孝(催奇)、橋本嘉幸(薬効)、神谷庄造(理化学)であった。癌研癌化学療法センター所長であった桜井欽夫は特別部会委員であったらしく、この時点では抗悪性腫瘍剤調査会の委員長では無かったと思っていたが、その後の丸山ワクチン騒ぎではPSKを審査したことになっているが、多分特別部会での審査であったと思われる。(敬称略)

・効力試験については国立衛生試験所でも初めて規格として採用する方法であったため、呉羽に試験方法を教えて欲しいとのことで、Fが出向いてS-180の移植方法や、腹腔内投与法、腫瘍の取り出し法等などを教授した。慣れるまではなかなか80%抑制には到達しなかったがその内規格として採用しても良いことになった。錦工場でも慣れるまで相当期間がかかったと聞いた(Fは効力試験には「こつ」があるんだと言っていたので安心して規格に取り入れたが、確認不足であった)。工場では何でこんな試験を入れたのだと文句を言ったらしいがPSKを承認してもらうためには必須の条件でやむを得なかった。退職後に当時試験を担当した人から「これでようやくこの試験の意味がわかった」と言われたが問い合わせてくれればすぐに解決する問題でもあった。

・当時小野薬品は三重大学と共同研究で担子菌由来の制癌効果を学会でほぼ同じ場所でPSKと競うように多数発表していた。発表時に余裕を感じていたが彼らは特許を先に取得したと思っていたに違いない。PSK関連の特許が公開されたと同時にPSKの方が先願だったことを確認したのか突然学会発表は終了した。この時も特許の大切さを感じた。

・Yが出張などでいないときの楽しみは大久保界隈での麻雀であった。皆で悪口を言いながら遊んだが、忙しくなってからは時間も体力も無くなり途絶えた。その時の仲間は今でも交流がある。

・ほぼ承認の目処がついた頃、副社長になっていた元錦研究所長のWがCTに来て、PSK申請の主だった連中を集めたので「ご苦労さん、よく頑張った」とでもいたわりの言葉でもかけてくれるのかと思ったが「お前たちだけが開発申請出来ると思うなよ。誰にでも出来ることをやってたまたまうまくいっただけだ。のぼせたらお前らなんか切るぞ」との説教だった。皆唖然としたものだが何か別な目的でもあったのかも知れない。しかしその後医薬品は「クレメジン」が上梓しただけで、ついには研究も縮小し医薬品の開発機運は消えたらしい。令和になって元の東京研究所(生物医薬研究所)は売却されてしまったという。

・特別部会に上程されることが決まった頃から?製薬会社からは販売権を得ようと各社のトップが直々に申し込みを開始したらしい。当社には医療用医薬品の販売経験も販売網もなくどこかに販売してもらうしかないが、競争が激しくなると言うことは高く売れるということであり、当時のA会長のところやT社長のところには表からも裏からも接触があったようだ。呉羽は農薬関係で武田薬品工業と密接な関係があり、武田は当然自分のところにくるものと自信を持っていたらしい?。山之内製薬(当時、現アステラス製薬)はA会長が入院しているところまで押し掛けて良い条件を提示し、ほぼ獲得出来るという感触を得たらしく、社内で勉強会、講習会を実施し、ドクターにもPSKは山之内が販売することになりましたと挨拶して回ったということであった。(あるドクターの話)
当時も今も販売する側が強く、薬価の3割前後で販売会社に納入するのが一般的といわれていた。三共(当時、現第一三共)はドル箱の「クロマイ」が副作用で販売量が激減し、また農薬の薬害補償等で苦境に立っていたが、社長に成り立てのKがPSKの販売に社運をかける?こととし、破格の条件を提示し、ついに販売権を確保した。条件は薬価の××%?で納入、プラス開発費××億円というものであった。(問題小説昭和56年8月号p-154~)(矢野経済研究所「医薬品関連企業調査年報1994年版」)
当社としても赤字で四苦八苦していた時の恵みの雨となり、その後急激な販売量となって行き、その後10数年三共・呉羽の利益を稼ぐこととなった。

・個人的には調査会が通った頃、叔父が創業した証券会社に依頼して呉羽の株を購入した。その頃は癌関連は何かあれば株の材料となりよく乱高下していたので、PSKも承認されれば呉羽の株価も上がるだろうといわゆるインサイダー取引を行った。得た利益は家を新築するのに貢献したが、仲間には1000株(当時は購入単位は1000株だった)買って少し上がったところで売ったことした。(当時の呉羽の株価は150~300円?だったが、PSKが馬鹿売れしたので最高1500円?位になった。)また、錦研究所時代の先輩がPSKの進捗状況を聞いてきたので多分承認されるだろうと教えたところ、しばらくして相当儲かったらしくお礼を言われたがこれもインサイダー取引だろう。

・B2(Yグループ)のメンバーだった後処理を担当していたFと工程管理を担当していたKはPSK生産工場の建設のために錦工場に転勤となったが、聞くところによればあまりに難しい工程のためにこれまで何していたのかと「村八分」のごとき扱いを受けたという。




   





 

7  臨床試験


申請作業の内、臨床成績の収集については最初は大半がY、Fの二人の独占作業に近かった。当時のCT別館2階で二人がヒソヒソと臨床試験のデータを解析したりしていた。私は申請作業の途中経過をしばしば報告に行ったため、彼らがやっているところを垣間見ることになり、途中から参加させられたがその頃には大半のデータは彼らにより集められていた。

効果判定はその頃外国で導入されつつあった生存率のコントロールスタディをしなければというがんセンターのDrの意見などが出始めたため(そのためにはこれからまた5年以上の臨床試験が追加で必要になることから)単独での効果判定により申請することが基本戦略となっていた。

私が最初に臨床成績について担当したのは国立がんセンターの泌尿器科である。泌尿器科の臨床データがどうなっているかをMと一緒に行って調査して来いとの命を受けてDr.Mを訪ねた。始めてのことなのでどうすればよいか分からず、Yにどうすればよいか聞いたが指導することなくただ行ってデータがどうなっているか確認せよとのことだった。DrMは無口であり、同僚のMもほぼ初めてDrを訪問するらしく結局何の情報も得られず帰ってきた。その後国立がんセンター耳鼻咽喉科T部長以下、国立医療センター放射線科DrMらを担当したが、Yは私が臨床データの収集にはあまり向いていないと思ったのかそれとも他の作業を急がせたいのか、理化学や文献公表、概要作成等を担当するように命じた。

CTに赴任した当時の昭和48年11月の臨床例数の数は総計511例との内部資料が残っている。それによれば胃癌146例、肺癌82例、子宮頸癌55例、直腸癌39例、乳癌36例、食道癌32例、急性白血病18例、肝癌17例、細網肉腫16例、卵巣癌11例が10例以上の癌種である。(単独か併用化の区別は不明)

単独効果の臨床試験は結局YとFが行い、全ての報告書をドクターの手書きで収集し、申請のデータとした。通知によれば臨床試験の一部は公表文献であることとあり、唯一名古屋大学2外科のデータが公表されていが、その他は学会発表など大半が抄録などであり、単なる参考資料であった。

後日再評価や丸山ワクチンなどで臨床試験の単独での成績が否定されたり、データに疑いを持たれたので、申請時の臨床試験の判定について述べておく。 

7-1 ガンの効果判定基準

 申請時の癌の効果判定は癌治療学会効果判定基準、カルノフスキー判定基準、東京癌化学療法研究会判定基準や腫瘍によっては種々の判定基準が使用されており、(慢性骨髄性白血病の寛解効果判定基準「木村(禧)」など)、それに従って各ドクターが有効か無効かを判定しており、その判定を第三者が検証するシステムが存在しなかった。

7-1-1  癌治療学会癌化学療法効果判定委員会基準(日癌治、22)p-791967より)


判 定 項 目

腫 瘍

A

自覚症状

B

他覚症状

C

検査成績

D

原発巣

A1

転移巣

肺、肝、腹膜(腹水)、リンパ節、その他

A2

1.    食欲

2.    主症状

1.    体重

2.    可動性

1.    血沈

2.    貧血(HbあるいはRBC

3.    A/G

4.    血清鉄

5.    LDH

各項目についての判定

A1 軽快・・-26%~-100% 不変・・-25%~+25% 悪化・・+26%以上

A2 軽快・・縮小ないし消失  不変・・不変  悪化・・悪化

B 軽快・・2項目とも軽快 不変・・一方のみ軽快、他は不変、あるいはいずれも不変 悪化・・いずれか1つ、あるいは2項目とも悪化

C  軽快・・2項目とも軽快  不変・・一方のみ軽快、他は不変、あるいはいずれも不変 悪化・・いずれか1つ、あるいは2項目とも悪化

D 軽快・・5項目のうち、3項目以上正常化  不変・・軽快、悪化が2項目以内のもの 悪化・・5項目のうち、3項目以上悪化

効果判定

軽快:1)A1A2共に軽快あるいはいずれか一つが軽快、他は不変(BCDの如何にかかわらず軽快)

   2)A1A2共に不変で、BCDすべてが軽快

不変:A1A2共に不変で、BCDの内、1つでも軽快しないものがある場合

悪化:1)A1A2のうちいずれか1つ、あるいは2つとも悪化

   2)A1A2不変でBCDすべて悪化

注:入院後2ヶ月以内に死亡した症例は効果判定から除く。

 

7-1-2 Karnofskyの判定基準

0-0

腫瘍の縮小と自覚症状の改善を全く認めず

0-AM

腫瘍の縮小を認めないが、自覚症状は改善される

0-BM

腫瘍の縮小は認めるが、自覚症状は改善されない

0-C

腫瘍の縮小と自覚症状の改善が認められる。しかし1ヶ月以内しかそれが続かない

Ⅰ-AM

腫瘍の明らかな縮小(計測できる腫瘍では直径の縮小2549%)と自覚症状の改善が認められる。1ヶ月以上それが続く

Ⅰ-BM

腫瘍の著名な縮小(腫瘍径の縮小50%以上)が1ヶ月以上続き、自覚症状は少なくなり、たいした支障なしに日常生活ができる

Ⅰ-C

1年ないしそれ以上にわたり腫瘍が90%以上縮小し、治療前の自覚症状が全てなくなる(完全寛解)

MMonthの略で治療効果の持続月数を示す

 その他各施設毎の判定基準や白血病、多発性骨髄腫、悪性リンパ腫など多数の判定基準が存在した。PSKでは効果の判定をきめるにあたり「腫瘍の縮小、腫瘍陰影の縮小、胸腹水の減少、消失などの他覚的かつ客観的判定を重視して著効:腫瘍が消失または著しく縮小したもの。有効:腫瘍が25%以上縮小したもの。」を有効とし、それ以外は無効と判定された。

参考までに薬史学雑誌49(2)196(2014)日本における抗癌剤開発とガイドラインの歴史」前田らによると

「1980年代までの抗癌剤開発においては臨床試験のエンドポイントとして生存率を用いるものから全般改善度等の臨床症状を含むエンドポイントを用いるものまで雑多で有り、製造(輸入)販売承認申請に際しての臨床評価に関する指針が必要になってきていた。そこで1991年2月に厚生省薬務局発で抗悪性腫瘍剤の臨床評価に関するガイドラインが発出された。

とあり、1991年以前の申請であるPSKの臨床効果判定は問題が無かったことが明らかである。 

 

7-2 臨床例数と留意点

臨床試験の例数については「5ヶ所以上、150例以上。1主要効能当り2ヶ所以上。1ヶ所、20例以上」という原則が示されていたが、当時の製造指針には「抗悪性腫瘍剤の臨床例数」が下記のようにあげられていた。(1977年版医薬品製造指針。日本公定書協会編。薬業時報社p85) 

(2)悪性腫瘍治療剤の取扱い

新医薬品に該当する悪性腫瘍治療剤の製造(輸入)承認申請に際しての必要な添付資料については、他の新医薬品の場合と同様であるが、悪性腫瘍治療剤の特殊性から、提出資料の作製に際し次の点に留意すること。

1)基礎実験(省略)

2)臨床試験

(ア)  臨床試験の例数

 原則として十分な施設がある医療機関5ヶ所以上において、経験ある医師により治療され、正確に評価された150例以上の例数を必要とする。

なお、腫瘍別に効能として記載するためには、原則として2ヶ所以上の施設において次の臨床数を満足することが必要である。

臨床試験の例数

腫瘍名

臨床例数

 

 

昭和52

参考(昭和57年)

 

脳腫瘍

30

30

 

頭頚部腫瘍

30

50

上顎癌20
口腔癌(舌、口唇、頬粘膜、口腔底、硬口蓋、下顎を含む)20

唾液腺癌 20

咽頭癌20

喉頭癌20

 

耳下腺癌

10

 

上顎癌

10

 

下顎癌

10

 

舌癌

10

 

口唇癌、頬部癌

10

 

咽頭癌

10

 

喉頭癌

10

 

甲状腺癌

20

20

 

消化器癌

150

 

食道癌

20

30

 

胃癌

100

100

 

膵臓癌

20

30

 

胆のう癌、胆管癌

10

20

 

肝臓癌

20

30

 

結腸・直腸癌

30

40

肺癌

30

50

乳癌

30 

50

腎癌

10

30

膀胱癌

20

30

子宮癌

30

30

卵巣癌

20

30

前立腺癌

10

30

皮膚癌

20

30

悪性リンパ腫

30

30

急性白血病

30

30

慢性白血病

20

20

悪性絨毛上皮腫

20

絨毛性疾患 20

肉腫(骨肉腫、軟骨腫、軟部腫瘍など)

20

悪性骨肉腫 20

悪性軟部腫瘍 20

睾丸腫瘍(ゼミノームを含む)

10

30

胎児性腫瘍(ウイルムス腫瘍、神経芽腫、網膜膠腫など)

10

30

多発性骨髄腫

20

 (イ)  臨床試験に際しての留意点

    被検患者の病歴、治療前の状態が詳しく調べられていること。

    使用前、中、後において被検患者の自覚的・他覚的症状の推移が明らかにされていること。自覚的とは食欲、悪心、嘔吐、腹部膨満感、咳そう、喀痰、血痰、胸痛等。他覚的とは腫瘤、腹水、胸水、体重、出血、血液所見、肝機能、腎機能等の臨床検査成績をいう。

    疾患の判定をするに必要な臨床病理検査(権威ある病理組織学者による病巣の組織学的所見を含む)の成績が調べられていること。

    副作用の有無、種類、頻度、程度について詳しく観察されていること。現在の悪性腫瘍治療剤は何らかの点で多くの副作用を有することが認められており、またこの種の疾病においては長期間使用される性質を有する関係から副作用については十分に観察されるべきものである。この際のまとめ方としては症状として現れた副作用(例えば食欲不振、各種消化器症状、頭痛、眩暈、全身倦怠、発熱、出血傾向等)及び検査成績に見られた副作用(例えば血液所見、肝機能、腎機能等)に分けて整理すること。

    適当数以上の患者についてその遠隔成績が調べられていること。効果の質が問題となるので、一概に例数だけを規定することはできないが、一応参考まで二この点について従来の中央薬事審議会における審議を経て認められた新医薬品としての悪性腫瘍治療剤については、約30例以上で10ヶ月以上の長期観察がなされている

その他臨床試験に関して一般的な、例えば鎮痛剤の場合について中枢性の鎮痛作用が基礎実験で認められたと仮定すると、一般臨床において必ずしも規定例数以上の臨床が行われていない疾患でも、中枢性の鎮痛作用で効果が期待できる疾患であれば、ある程度まで認められることがある。この悪性腫瘍治療剤に関してはこの一般論が適応できないので、必ず胃癌、子宮癌、肺癌、乳癌、皮膚癌、肉腫等その個々の疾患に対して広く臨床試験を行うよう心掛けるべきである。これを言い換えれば臨床試験が全くないような疾患については(勿論臨床試験が行われていてもその効果が全く認められないものも同様である)、申請に際して申請書の効能欄から削除しておくべきである。このことは他の医薬品についてもある程度いい得ることであるが、特に新しい医薬品であればなおさらのこと自信のある効能のみに止めるべきである。なお、「新医薬品の範囲と審査の取扱い」の項で説明したように、悪性腫瘍治療剤についてはすべて常任部会まで審議が行われる。


   ちなみにPSK申請時の例数は下記の通りである。

16医療機関、19施設(科)から合計503症例が登録され、単独投与293例、併用投与210例である。国立ガンセンター、癌研、九大、名大、阪大、広大等を中心とし、胃、食道、肺、乳、結腸・直腸が症例数と有効率で申請に足るものとして集められ、それらを効能効果の対象癌腫として申請することになった。

                                      癌と化学療法4巻2号p-227より

単独投与は消化器がん181例(食道がん6/23、胃がん21/107、結腸・直腸がん6/30、その他1/21)乳がん10/31、肺がん9/46、頭頸部腫瘍2/7、悪性リンパ腫3/5、その他の腫瘍4/23であり、ガイドラインの症例数と有効率から申請した効能効果は

消化器がん(胃がん、食道がん、結腸・直腸がん)、乳がん、肺がん

であり、日本の固形癌患者の7割?は対象となるに思われた。

 臨床試験の論文は公表されることが望ましいとされていたが、各ドクターは症例の検討だけの論文では学術誌には採用されないと公表することは無かった。その代わりとして国立がんセンターから都立駒込病院の外科に転籍された伊藤一二先生にお願いして資料をまとめて頂き「癌と化学療法」に一覧表として公表した(癌と化学療法4巻2号p-227)。

効果判定については後日PSKの再評価で効能が削減されて新聞などで「単独効果なし」と騒がれたが、1991年2月以前の申請であるPSKは当時の単独効果での臨床評価をクリアしていたことを明確にしておく。再評価時の臨床効果判定については再評価の項で述べる。

7-3 余談 

*      単独症例のとれた施設の内、有効例の無いのはT病院の内科のみであり、これはCT事務長のKが「あそこは呉羽が健診をお願いしていて懇意なので俺に任せろ」とのことでどうしても自分がやるということを聞かず、結局単独有効例がとれなかった唯一の施設となってしまった。後日担当ドクターのK(抗悪性腫瘍剤調査会メンバーの一人)は他施設から有効例がたくさん出ているのを見て、それを知っていれば俺の所も有ったのにと言っていたそうである。当時の調査会の雰囲気のわかる話でもある。

*      がんセンターには多量の治験薬が出されていたが、いわゆる単独使用で効果を判定出来る症例をいかにして集めるかが最大の難点であった。外科や内科からは単独使用の報文を入手したが、放射線科、泌尿器科、耳鼻咽喉科、婦人科などからは、併用成績かまたは成績を貰えないなど症例集めには大いに苦労した。

* 臨床試験ガイドラインであるGCP(Good Clinical Practice)施行以前の治験だったため、PSKの出荷量と回収されたデータの量は一致しない。回収されたとしても大半が併用療法と思われたので申請の評価対象には該当せず、結果的には単独例を持つ施設が臨床評価の対象となった。

*当時の状況を知る上で貴重な記述がある。

国立病院医療センター放射線科におられた御厨修一先生が出された「がんは治る」梧桐書院1989.4改定第6版発行(初版1987.9)である。
「免疫療法で用いられる薬」の項で、クレスチンやピシバニールを紹介し、「私は放射線治療に際して、その照射方法を従来の方法とは違った方法(少分割大線量照射法)で照射することによって、特異的な活動免疫ができるのではないかという研究を行っています。同時に免疫賦活剤のPSK(クレスチン)、OK-432(ピシバニール)については、人に用いる以上、私自身、実験で確かめる必要があると思い、数年にわたって実験を行い、たしかに効果があるという感触を得ておりますし、あるいは放射線治療とこの免疫賦活剤を併用すれば、更に効果が上がることについても臨床の実験でそのような良い結果を得ています。p-48」と延べその著作の中に俳優の故梅宮辰夫氏の「肺癌を治してくれた先生」の記載があるので転記すると
「私はかって肺癌にかかりましたが、御厨先生に放射線治療とお薬(抗癌剤と免疫賦活剤)の併用療法を受け、完全に治すことができました。もう12年も前の話になります。医者である父には半年か1年の命と告げられていたようで、その時はさすがに気の強い父も涙を落としたと言うことです。心配をかけたことが悔やまれますが、その父はもう亡くなりました。私の病気が治って、こうしてずっと元気でいられるのが、せめてもの親孝行と思っております。「このお薬は、最近できた免疫力をたかめる薬ですが、こういった薬はできたときが一番効くのです。」とおっしゃられて、黒いどろどろした薬を飲ませてくれました。何かおっかないところもあるような御厨先生(本当は優しい先生でしたが)のお言葉です。否も応もなく飲まされてしまいましたが、それと同時にやはり免疫力を高める皮内注射を2年余り続けました。できたてが一番効くなどと、まるでできたてのパンと同じようにおっしゃいましたが、いやな薬をそういって飲ませようという、先生の親心だったのかもしれません。いずれにしても、放射線治療といろいろなお薬で、それも御厨先生のやり方で治ったのだと思って感謝しています。p-14」

 


 

ここに出てくる「黒いどろどろした薬」がPSKで、当時PSKの凍結品を解凍して飲ませている様子が良く分かる。まして「こういった薬はできたときが一番効く」と言う言葉は後から考えると正鵠を得ており?、申請作業中にPSKはアルカリ熱水抽出に変更したのでその後の臨床効果が変わったのかも知れない。



  32 ゾロ品 クレスチン製造は基本特許(昭和43年10月3日 制癌剤の製造方法 特許登録番号968425 昭和51年公告)により昭和63年10月3日までの20年間は特許法によって守られていた。 特許が失効すると医薬品メーカーはある条件下で同一類似品(後発品)を承認申請出来る。...