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29 ウィーン国際泌尿器学会

K-247の申請取り下げでしばらくはK18の基礎と臨床(医薬品開発部に内緒で)を主な仕事としていたが、PSKは売れに売れて医薬品単体での売上げNo1維持していたのでPSKに関連する仕事も引き続き行っていた。

1985年6月にウイーンで国際泌尿器学会が開催されるに伴い、Yは今までご苦労さんだったとこの学会への出張を命じた。稟議が無事通り出張が決まったら、医薬部のS(同期入社)が同じ学会に出張することが決まった。彼によると「YN戦争は激化しN専務は医薬関係からYグループを徹底的に排除しよう」としているので「まさか研究所のYグループから行くものはいないだろうな」と聞かれたという。彼はよく分かりませんと返答したのでそのつもりで用心してくれとのことだった。稟議には専務の承諾が必要だったがメクラ判だったのか、忘れたのか私が行くことを知らなかったようだ。

膀胱癌維持療法研究会からPSKの発表があり、国立国立がんセンターのM先生が発表することになっていた。ちなみにM先生は私が東京研究所に異動後初めて仕事でお会いした先生で無口だったが文句も言わず付き合ってくれた先生であった。今回の出張の仕事のメインはこの先生のフォローであった。

いざ東京エアターミナルT-CAT(箱崎)から出発する段階で本社医薬部でSの壮行会が行われ、N専務が箱崎まで見送りに来た。私は箱崎でSと合流して成田まで行く予定だったが、前もって彼から用心してくれと言われていたので柱の陰に隠れるなどしてN専務をやり過ごし、Sが完全に一人になるのを見計らって合流した。Nの執念深さを笑ったものだが、その後YN戦争はYの敗戦に終わり私とFも巻き添えを食った。(黒澤明監督「隠し砦の3悪人」にちなみクレハの3悪人と宣伝された。その後も3悪人説は実情を知らない人々には信じられており、ことある毎に陰で噂されたが、儲かっているクレスチンをつぶす訳にもいかず3人とも我慢して聞き流すことにした)

成田からはSと私は旅行者の配慮でビジネスクラスに乗ることが出来、アンカレッジ、ロンドン経由でウィーンに着いた。

ウィーンでは別なグループの発表もあり、デュッセルドルフからの応援も含めて大勢の呉羽の人が来ていた。学会期間中は例によって「おにぎりパーティー」があり、参加した先生を接待したが、私は研究所だし、あまり表に出るなとSからいわれていたので、のんびりとウィーンの町を一人で散策したり、SやM先生と買い物に歩いた。

シェーンブルン宮殿、シュテファン大聖堂、国立歌劇場などの見学や数々の有名音楽家の銅像を見学した。

別なグループがドクター達の接待でボッタクリ酒場と知らず入ったお店の勘定が払えず、デュッセルドルフから来ていたYに助けて貰った出来事もあった記憶がある。

6月20日成田発

6月21日ロンドン経由ウィーン着 インターコンチネンタルウィーン泊(26日まで)

6月22日~26日まで学会

6月27日ウィーンからプラハへ インターコンチネンタルプラハ泊

6月28日プラハからフランクフルト経由ミュンヘンへ(まだ西ドイツだった)

6月29日ミュンヘンからフランクフルト経由成田へ(まだウイスキーが自由化されておらず研究所仲間へのお土産にジョニーウォーカーなど買い込んで大変だった。)

6月30日成田着

         

             おにぎりパーティー案内状

ウィーンの町の様子を写真で振り返って見よう。
シュテファン大聖堂、グラーベンのペスト記念柱、カーレンベルクの聖ヨセフ教会、映画「第3の男」で有名な大観覧車それに有名な音楽家達の多くの像などである。




学会の合間を見てデュセルドルフから応援に来ていたYの案内で、ザルツブルクまで遠征した。
モーツァルトの生家、ホーエンザルツブルク城、大聖堂やカピテル広場、市街地を流れるザルツァッハ川などを見学し出来たての美味しいワインをたらふく頂いた。




学会が終わりDrMの希望でチェコスロヴァキア(当時、現チェコ)の首都プラハに飛び、教会や美術館をうろついた。
プラハ城、聖ヴァーツラフの騎馬隊、ヤン・クス像、カレル橋、ユダヤ人墓地など美しい町並みであり思い出深い。




その後ミュンヘンに移動し、美味いビールと博物館を見学した。



このようにK-247の申請取り消しの苦労を一時的に慰めてくれた旅行であった。


  32 ゾロ品 クレスチン製造は基本特許(昭和43年10月3日 制癌剤の製造方法 特許登録番号968425 昭和51年公告)により昭和63年10月3日までの20年間は特許法によって守られていた。 特許が失効すると医薬品メーカーはある条件下で同一類似品(後発品)を承認申請出来る。...