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 22 財団設立

医薬品部に在籍中にDrI肝いりの財団設立のお手伝いをしたので簡単に紹介する。

DrIは臨床試験の全国的な組織を設立して臨床試験の評価を科学的に行おうと財団設立を考えたらしい。

クレスチンが売れ出して免疫化学療法の効果を検討すべきであろうと考えたDrI挨拶に来たN専務に臨床試験を科学的に行うべきであり財団を設立したいと申し込んだ。Nはこれに乗るべきだと考え設立に必要な基金も出そうということになった。

私は懇意だったDrNに相談に行ったが、何を考えているのかと言われた。その理由は「評価の定まっていないクレスチンをいきなり全国的な評価システムに乗っけて成績が悪かったらクレスチンはおしまいだ。先ず九州辺りでDrIの目の届く範囲で予備試験をしてその結果が良ければ全国的な臨床評価試験を行うようにすべきだ。」とのことだった。Yもその意見に賛成したが、N専務はDrIの意見に賛同し財団設立へ協力することになった。その間にDrNの要望も取り入れ九州に免疫賦活剤研究会を設立した。

DrIは財団の認可権限を持つ厚生省の偉いさんと話をしたいのでその準備のためN専務に某料亭を予約させ「会談」を実施させた。費用は全て呉羽持ちであったが、表面上は全てDrIが設定したような形式をとった。

財団設立に必要な情報を集めたり、基金を協賛できる会社に依頼したりして、この財団は「がん集学的治療研究財団」として認可された。(昭和55623日認可)

財団が発行した「がん集学的治療究財団のあゆみ5周年誌」に詳しいので少し引用する。この記念誌は財団設立5周年を記念して開かれた総会の記録であり、祝辞以下懇親会まで写真が出ている。



この財団は市販薬を使っての臨床試験なのでこの試験に各社の医薬品が使われると無条件に使用量が増えるというメリットもあり、抗がん剤を有するメーカーや有力製薬会社も要請に応じて基金を出し協賛した。

設立発起人は下記の通りであり、Dr以外に大鵬、三共、呉羽、協和発酵、中外の社長が名を連ねている。


 この研究会の祝辞は愛知県がんセンター名誉総長:今永一、癌研付属病院名誉院長:黒川利雄、国立がんセンター名誉総長:石川七郎、国立病院医療センター名誉総長:小山善之、(財)厚生団常務理事:田中明夫、厚生省健康政策局長:竹中浩治と蒼々たるメンバーである。田中氏は認可当時の厚生省医務局長だった人であり、国立がんセンターに出向中に癌専門医と親しくなったとある。

財団の設立趣旨は学問的な臨床評価を行うこととそれに協賛した5社(大鵬、三共、呉羽、協和発酵、中外製薬)から3億5千万円の基金が拠出されて実現したことが書かれている。




基金の推移は次の通りで先の5社以外に三井製薬、山之内製薬、旭化成が加わっている。


役員は下記の通りで胃手化3pのDrがメインであった。

財団は特定研究1として大鵬が行って評価の定まったフトラフールの投与法に免疫療法剤を追加する胃手化3pの方法とほぼ同じ方法でPSK、ピシバニールの評価をすることを決めた。
この研究が後日効果が得られなかったためその理由を考察して公表したが、呉羽三共、中外はマスコミ対策をしなければならなくなった。この時点では再び医薬品事業部に在籍したのでその対策案を作成することになった。詳細は別項に譲る。


 


 

  21 胃手化3p

免疫賦活剤研究会は胃癌手術の補助化学療法研究会第3次パイロットスタディ(以下胃手化3Pと略す)へ移行していった。

21-1  三社会

 九大2外教授DrIは全国規模の臨床評価研究会を設立すべきと考えていたようで、先んじて全国展開していたフトラフール研究会を基盤にして、免疫療法の臨床効果を検証する研究会の設立をN専務に提案した。しかし九大DrNの反対もあり先ずは九州地区で検討することで話は進み、三共の協力もあって免疫賦活剤研究会が進行していた。

データの重なりを避けるためあるいはデータの大規模化をするため全国規模の研究会にすべきとDrIはフトラフール販売会社である大鵬薬品とも話を付け、呉羽、三共、大鵬の3社が協力して研究会を運営して欲しいと要望した。

三共と呉羽はこの研究会への参加はやむを得ないと考え、対応策を決めなければならなくなり、概ね、窓口は呉羽がメインで三共はサブ。全国を8ブロックに分け、ブロック毎に呉羽三共と大鵬に分け呉羽三共は九州、中国、関東を担当する。データはブロック毎に担当会社が集積し胃癌は大鵬、大腸癌は呉羽三共がコンピューターに入力し解析を行う。データは相互に交換する。などを対応策として大鵬に提案することにした。この研究会は製品を使うため各社が大幅な増収になることをも見込んだ結果でもある。

これらを踏まえ、三社の専務、部長、課長らが集まり(昭和54年3月30日)三社会が開催されいよいよ三社会がスタートした。この会議では呉羽のN専務がDrIの要望を踏まえ、独自の研究会であった九州の免疫賦活剤研究会と中国の研究会が大鵬の研究会と統合することをやむを得ない判断である旨説明し、統合に大鵬もそれを理解して賛成した。Nは呉羽三共で合意した案を大鵬に示し大鵬も概ね賛成した。そこで詳細は実務者で進めることになり、O部長は呉羽の担当をHとAとした。研究費や公表などの話がでたが、呉羽三共の提案した大綱に合意が得られたため、これをもとにしてDrIを訪問し合意案を報告することになった。

同4月2日に三社の専務らが博多に赴き、DrIに三社で合意した研究会について説明した。DrIは免疫賦活剤が中外のピシバニールのところがあるのでよく話し合って欲しいといわれたが、中外から話があればその時点で対応することとして概要は了承され胃癌手術の補助化学療法研究会第3次パイロットスタディが動き出した。

三社会の実務者会議は各社持ち回りでプロトコール、ブロックごとの研究会組織、開催日時、研究費等々を着々と決めていった。私はZとともに九州地区、中国地区、関東地区と呉羽三共地区の実務を担当することになった。しかし私は九州地区が忙しく他地区まで手が回らず、中国はT、関東はZ他全員であたることになったが、私以外はいずれも研究会未経験だったので呉羽メインとはいえ大半三共頼りであった。

三社会を経ていよいよ胃手化3pのプロジェクトが動き始めた。

昭和5459日に胃手化の全国世話人会が開催され、それぞれの地区でそれぞれのプロトコールでそれぞれ担当会社がこの会を進めることになった。


 

 


上記は呉羽三共が担当する地区のプロトコールである。


21-2 胃手化3p九州

免疫賦活剤研究会は名称を胃手化3p九州ブロック研究会と名前を変更することは昭和54年8月の世話人会で了承された。その後は胃手化3pとして研究は進行し昭和55年3月に報告会が開催された。


その中で全国の胃手化3pは着々と進行していることも報告され、その時点での進行状況は下記の通りであった。


私はこの後しばらく三共のKと共にこれらの研究会をフォローしていたが、前にも記したように医薬品部から研究所への転勤辞令が昭和55年に出て6月に東京研究所への転勤しこれらの研究会も表向きは無関係になった。この研究会の呉羽の私の後任はOである。Oは大阪支店から転勤したばかりであり、最初頃頃は東京研究所へ教えを請いに頻繁に出入りしていたがやがて来なくなった。Oとの引継ぎ中の失敗としてDrNから頼まれた銀座の鮨屋の予約をOに依頼してOから予約が取れたとのことでDrNに予約が完了した旨連絡をした。当日DrNがその鮨屋に行ったところ、鮨屋はOの予約はあったがNの名前が無かったので「一見さんお断り」と拒否してしまった。DrNは大事なお客さんを連れていたので烈火のごとく怒った。鮨屋の店長が顛末を聞きその日のうちにお酒1本持ってホテルに謝りに行ったが許されず、翌々日Oと私は九州に飛んで平謝りに謝って怒りを解いた。Oは医者の世界の恐ろしさを初めて経験した。


この研究会はその後学会などで発表を続けたが、私は研究所でのその他の研究で忙しくなったがこの研究会のデータが東京研究所に蓄積されたので、九州と中国は裏で動くことになった。詳細は差し障りがあるので割愛しよう。

胃手化3p九州で活躍した三共のKは平成8年4月に60歳になり定年退職し、グラクソ三共に転籍した。その時に挨拶状と共に、「三共と歩んだ37年-思い出の数々-」と題した小文を頂いた。
その中に

4 PSKの免疫賦活剤研究会

昭和53年から九州大学第2外科教室井口潔教授(九州大学名誉教授、がん集学的治療研究財団理事長)を中心に九州・中国地区で胃癌手術の補助化学療法研究会の第3次Pilot Studyとして免疫賦活剤研究会が組織され、呉羽化学工業株式会社のFさんとその発足の推進にあたらせて頂きました。

この会では胃癌治癒切除症例に対するMMC、5FU、PSKを用いた術後免疫化学療法のrandomized controlled studyが行われ、昭和58年に5年生存率が発表されました。治癒手術症例において3群(1群:化学療法+PSK、2群:化学療法+FT207、3群:化学療法+FT207+PSK)比較ではPSK併用群(第3群)が有意に生存率の向上を認め進行胃癌の治癒切除症例の術後免疫化学療法としては3者の併用は有用であるとされた。(ONCOLOGIA 14:171-180,1985)

免疫療法が見直されつつある現在、顧みてよく頑張ったと思っています。

と記し、苦労の多かった研究会を懐かしんでいた。



  32 ゾロ品 クレスチン製造は基本特許(昭和43年10月3日 制癌剤の製造方法 特許登録番号968425 昭和51年公告)により昭和63年10月3日までの20年間は特許法によって守られていた。 特許が失効すると医薬品メーカーはある条件下で同一類似品(後発品)を承認申請出来る。...