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4 東京研究所(CT)での仕事 

4-1 概要

 CTでは主に理化学関係を担当することになり、O、K、A、Iと仕事をした。Yグループのその他の人は化学工学出身のKは培養、後処理関係の設備設計を、Fは京都での人口肉研究の長期出張から錦工場に帰る途中にO専務に引抜かれてCTに途中参加し、後処理の実務を担当していた。この7名が同室で、大きなテーブルに椅子だけの実験室であった 。(パートを除く)

 Yはワンマンで気に入らないとすぐに怒り、各人はよく別室に呼ばれ説教された。
転勤後早い時期だったが、朝のお茶を飲みながらの打ち合わせ時間を廃止する旨突如通告したので、その理由と独善を注意したところ別室に呼ばれた。理由は忘れたが、
おれに文句を言う気の強いやつといわれた。辞めるつもりがあると何でも言えるものだったが、こういうことが彼の信頼を得たのかその後の色々な仕事をすることに繋がった。また、その頃は研究費が少なくまた当然接待費もなく、Yは各ドクターの 接待費を自腹で行っており(いつも分厚い札束を持って歩くと言っていた)、錦研究所時代に自腹で飲みに行っていた私を「自腹で遊んだ奴は接待させても大丈夫」といって、接待の席にもよく連れて行くようになった。

その他生化学関係は動物飼育関係、毒性試験関係、代謝関係、作用機作関係、培養関係があり、これらが一体となり、PSK研究を担当していた。

 この頃のPSKは静置培養したカワラタケを熱水抽出し、上澄みに硫安を入れて塩析してくる沈殿物を透析膜で硫安を除去し10%に濃縮した液を壬生からCTに送り、そこで30mlのポリ瓶に分注し凍結させていた。PSKは無菌処理をしていないため凍結状態での保存が必要であったためである。この作業は冬には大変過酷な作業でパートの人たちが大変苦労し、人手が足りない時は皆で手伝った。 

 臨床施設へのPSKの納入は国立がんセンターへは週2回タクシー(所長用自家用車:当時はまだ所長には自家用車が付いていた。当時のCT所長は常務、専務クラスだったので)または電車で運搬納入し、地方へは運送業者を使って凍結品を配送した。主にAが担当したが全員で応援する態勢が必要であった。

九大、東北大、広大、阪大、名大等の遠隔施設には航空便を利用して凍結品をドライアイス詰めにして配送した。 各施設にはPSK専用の冷凍庫を配置してあった。PSK認可後は散剤での提供となったので冷凍庫は不必要になったが、一切回収せず全て寄付された。

 生産担当の壬生分室
へはよく出張した。たまにはO専務の車に同乗させて貰った。よく「この本を読んだか」とか「読め」とかいわれ、がん関係の本を紹介して貰ったり、譲ってもらった。O専務は学閥を排除し幅広く人材を集め、会社がうまく行くような采配をされたと聞いていた。Oは副社長を経て、呉羽プラスチック(株)の社長となって転出し、CTはY専務が所長となり、その後H所長となった。 


4-2 PSKの構造研究

 PSKの理化学を担当することになりPSKの構造研究をすることになったが、研究の大半は京都工芸繊維大学の平瀬教授の指導をえており、癌学会などで多数発表されていた。Oは研修生として平瀬研究室に派遣されて研究の手助けをしていたこともあったという。

癌学会S45の表紙と発表内容









 癌学会での発表では質疑応答が大変だったらしく、その後は農芸化学会や薬学会等で発表されることになったらしい。癌学会も当時は講演要旨は手書きであったことが時代を感じさせる。

 構造研究にはカワラタケの静地培養のわらじを熱水抽出し、水酸化バリウム沈殿法で分別した画分を構造解析したものであった。現実の製造法とは異なるが学問的にはある程度精製したものについて構造研究を進めているとの事だった。その他のキノコについても同様の構造研究が同時進行していた。ただ論文化されたものはなく、「申請にあたって主要なものは公表すべし」ということを勘案し、至急論文化することになった。

 全く経験の無い私に学術誌投稿用の原稿を書く作業が回ってきた。それまで実施されていた実験や記録を見せて貰い、薬学雑誌に投稿すべく原稿作成に注力した。いわゆる学術雑誌への投稿は経験がなく、投稿規定や雑誌の論文を参考に、京都工芸繊維大学の平瀬教授と頻繁に打合せを行い、担子菌かわらたけの抗腫瘍性多糖の化学構造に関する研究第1報および第2報として投稿出来た。公表化の第1弾であった。

・手書きの投稿原稿。

・第2校

・薬学雑誌


・レフリーからの思い出として「アミノ酸組成にアンモニアをいれた」ところ「アンモニアがアミノ酸とは思わなかった」とコメントされたことが印象的だった。

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