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研究参加の経緯

2:クレスチン開発研究に携わるまでの経緯


2-1 クレハ入社

 K大学の4年になるとすぐ就職活動が始まり、U教授から「呉羽化学工業」の入社試験が近くあるが、今まで教室から数回試験を受けたが一度も採用されたこともないし、就職試験の模擬テストとして一度受けてみるかという話があり、日当、旅費も出るとのことであったので、呉羽の入社試験を受けた。30人ぐらいの受験者がいて、確かBHCの製造に関する問題などの化学と英語、論文作成の試験があった。試験の結果はあまり良くなく、その日に行われたA社長以下の役員面接でも、社長から「君の成績はあまり良くないなー」との発言があり、それに対してある役員が薬学ではこれらの問題は無理ではないかとのかばう発言もあった。これを聞いてやはり薬学は化学会社には不向きなのかと(不合格かと)思い帰路についた。下宿に帰ると呉羽から採用の通知が既についており、教授に報告すると共に、呉羽の会社概要を調べた。就職先として試験を受けたのではなく、模擬テストのつもりであったので、会社の概要などは全く調べずに受験したからであった

 教授は今まで一度も採用されていない会社に合格したのだから、呉羽に行って後輩のために道を確保してくれと懇願され、また、何時でも武田や三共には世話をするから、一度呉羽に行ってそれから無理であれば転職しても遅くはないと諭され、呉羽に行くことにしたが、それは採用条件として研究所勤務を希望し、それ以外であれば断りたいとのコメントを願書に書いておいたことと、研究所がパンフレットによれば「東京研究所」とあったので、そこが就職先かと早合点したからである。

 その夏に会社実習があり福島県にある勿来工場(現いわき市)で2週間ほど実習した。勿来は「来る勿かれ」の地であり、勿来の駅やその周辺を見て陸の孤島に来たようだと言っていた人もいたが、勤務地は東京と思い込んでいたので他の実習生と楽しく過ごした。
その実習に参加した人とは入社時には顔なじみとなっており、初めて会う人とはちょっと親しみが違った感じでもあった。

 呉羽に入社するにあたっては、入社日予定日が4月1日だったので、薬剤師の国家試験を受験すべきかどうか人事に問い合わせたところ(そのころ薬剤師の国家試験は一般的に4月1日を中心に2~3日間実施されており、大半の製薬会社では国家試験に合格して本採用となる条件が付いていた)、君を薬剤師として雇うのではないので(薬剤師の資格は不要)入社式を優先し、薬剤師の資格を取りたければ、国家試験は後日有休を使って取るようにとの回答を得たので、卒業論文作成に集中すれば良く、卒論も無事書き上げ、昭和38年3月に卒業し4月1日に呉羽に入社した

当時の呉羽化学についてはダイヤモンド社の産業フロンティア物語「塩素利用工業 呉羽化学」(昭和44年発行)に詳細に書かれているので、割愛する。(当時は荒木社長で、その中に「経営とビジョン」をきくという章があり、社長の仕事・フィロソフィー・研究所のあり方等々大変役立つことが書かれており、社長として20数年君臨した考え方が述べられている。)

この頃は社内の文書がすべて「カタカナ表記」であり、大変読みづらかったが、これは呉羽が伊藤忠商事関連会社であり商事の創業者一族の一人が「カタカナ表記」主義者であったためと言われていた。

2-2 錦工場

昭和38年4月1日呉羽化学工業(株)入社(大卒は技術系38名事務系8名)。入社式は中央区富沢町の呉羽紡績の講堂で行われ、辞令を貰った午後には、福島県勿来市(当時・現いわき市)錦町にある錦工場へ着任した。

写真は当時の錦工場(塩素利用工業{呉羽化学}ダイヤモンド社より)



呉羽化学独身寮(呉羽クラブ:当時は大学卒用の独身寮)に入居(同室に先輩H-ちょっと変人で6畳間をカーテンで真っ二つに仕切ってあった。人事担当の人からかわいそうだが我慢するようにといわれた)してクレハの生活が始まった。

教育が終わり、現場実習は第1製造部薬品農薬部農薬課を3交代勤務で行った。当時の第一製造部はK部長で農薬・薬品部はO製造部次長兼薬品課長、F農薬課長兼BHC係長だった。
O次長はクレスチン承認後に本社に出来た医薬品部の初代部長として来られたのでまたお世話になることになる。

当時の技師長であったSの命令?で新入社員は3年間3交代勤務を義務とすることになっていた(これを聞いて辞めたいと思った人が居たし、現に退社した人が出た。また勿来での生活に我慢できないことも理由の1つだった)。

3交代は6時から14時までの朝勤、14時から22時までの夕勤、22時から朝6時までの夜勤であり、5日間隔で勤務がまわって来たが、何しろ変則勤務であり体調維持と夜勤における眠気防止が大変だった。
最初の頃は東北弁が難しく会話がなかなか出来なかったが3ヶ月もすると「んだんだ」「・・だっぺ」と東北弁にすぐなじんだ。夜勤の時はその頃流行りだした「チキンラーメン」をよく食べた記憶もある。

農薬課は塩素利用製品のDDT、BHC製造現場であり、原料の塩素と溶剤にまみれる大変な現場だった。特に夏の季節であったため、汗にまみれた体にBHCやDDTが付着すると体中に汗疹や爛れが出来、特にBHCの粉砕工程は風乾(大型扇風機でベンゼンを飛ばす乾燥方法)であり、残留ベンゼンと残留塩素を持ったBHCを床にまいて自然乾燥させるという現在では考えられない環境下での作業だった。汗が眼にはいるとそれと共にBHCが眼に入り実習期間中「ものもらい」に悩まされた記憶が甦ってくる。
通称ブタマスクといわれる吸着マスクを付けての作業だったが、長年ベンゼンなどの溶剤にさらされた現場の従業員のその後は大丈夫だったのだろうかと今でもかなり心配である。

BHCの大増産計画とインドへの技術輸出の話が出てきて、農薬課で実習中の3人の3交代勤務は予想に反し10月で終了し農薬工務室にてBHC増産のための実験のデータ取りを行った。他の部署で実習した人々は殆どが3年間の3交代勤務を完遂したが、これがどうその後の仕事に役に立ったかはよく分からない。Sが退いてすぐこの制度(新入社員の3年間の3交代勤務実習)は無くなったと記憶するが、その当時は終身雇用の概念があったため、従業員の教育という名目で、色んな無理が通った時代でもあった。

2-3 技術部から錦研究所へ

BHCの増産とBHC製造プラントのインドへの輸出のためのデータ取りが終わって、39年6月技術部へ配置換えになった。といえばカッコいいが、現場での会議の時に、農薬課のF課長に「上意下達で何事も決めるのではなく、現場の意見を吸い上げるような会議にするべきだ」などと意見を具申したのでそれが原因かと勝手に思ったが、FやNも同時に異動になったので、思い違いかもしれない。

技術部は工場のバラック建ての長屋みたいなところにあり、BHCγ体の含量UP実験やラブコン(塩素系除草剤)試運転立ち会いが思い出されるが、F達が行っていた重合反応試験中にシールしたガラス管中での加熱実験で溶媒のオイルを加温中に食事に行き、加温していることを失念し、突然ガラス管が爆発し部屋中がオイルだらけになり、鉄製のふたが吹っ飛んで危うく女子従業員を襲うかと思われたような事故も体験した。技術課長のKにはそれらを含めてよく怒られたが、Kは根は優しくFが将棋を指したので、将棋を指しに良く実験室に来たのを覚えている。
思い出の1つにSさんがK課長に怒鳴られながら、俯いているうちにコックリコックリとし、またまた怒られたということもあった。

当時一緒に働いた技術部の仲間が東京研究所(以下CTと記すことがある)へ転勤になったが、それは「特別ボーナス」を出すのでその課で一番優れた人を推薦するようにとのことで、推薦された人は当時呉羽の次世代を担う事業と目されていた石油化学(ユリカ、SN)の実験に異動になった。
ただ、彼は異動の後、長時間の重労働に耐えかねて精神に異常を来たし自殺に追い込まれたといううわさが出た(社内報では病没とあるので真偽不明)。
選抜方法は姑息な手段と思ったが、我々は優秀ではなかったので助かったのかも知れないし、薬学は石油化学とは結びつかなかったので石油化学には向かなかったのかもしれない。
技術部が41年9月突然解散となり、錦研究所へ配置換え(技術部は民青の巣であり解散以外では民青の力を弱めることが出来ないといううわさが出たがこれも真偽不明)になり、農薬研究グループ(責任者I)の農薬合成グループに配属された。私はAグループに属したが、Aは非常に個性豊かな人物で、指導を受けながらもよく反発した記憶がある。錦研究所の3階の奥にあった31号が実験室兼居室だった。

写真は錦研究所と内部の31号室(塩素利用工業より)





農薬合成グループは殺菌剤、殺虫剤、除草剤の合成研究を行っていたが、Aグループは稲熱病用殺菌剤の開発に注力していた。
Aによれば当初は呉羽が製造していたPCP(除草剤)が(PCPでは除去できない雑草があるため)パムコンで代表される混合薬剤に取って代わられる様になりその対策として同じような混合薬剤の開発を目指していたそうである。他方新農薬の発想源として天然有機化合物に当然着目し、その中から酸素環を有する化合物に興味があったとのことであった。
私もAの指導の下、塩素利用の化合物の合成を心がけて合成実験を開始した。

フタリド型の化合物は当初はホルモン型除草剤の研究中に合成されたが、除草効果はなく3年後に稲いもち病菌に対する活性試験でその効果が見つけられ、殺菌剤として開発されることになった。(稲いもち病防除剤スクリーニングの手法導入は昭和39年)
PCPには魚毒があり、低魚毒除草剤の研究開発が行われ、ペンタクロル・フェニルアセテートが低魚毒性除草剤として登録されていたが、これにも稲いもち病菌に活性を示し昭和41年から「ラブコン」の商品名で市販された。(私は技術部にいた時にラブコンの試運転に立ち会ったが、濾過工程が難渋し、その解決に相当の時間をとられたと記憶している)


2-4 ラブサイド

Aがフタリド化合物として合成したN432と名付けられた化合物はin vitro試験(試験管内試験)では活性を湿さなかったがPot試験ではいもち病に効果を示した。N432は他のグループの開発した2剤と共に、台湾での圃場試験(公式委託試験の予備試験として)での耐熱効果試験に参加したが、途中の報告では他の1剤が非常に良くて、N432の効果はそれより劣るとされていたが、正式な報告書が来たときはN432が圧倒的な成績で優勢とあった。

他の一つはin vitro(試験管内試験)では抜群の効果を示したが、圃場に出して光が当たると分解して効力が無くなってしまったので、ナイトクラブ用殺菌剤と言われたものだ。

その結果、N432がいもち病対策の対策の開発品目となり、その合成法や、毒性、生分解性等商品化に向けての試行錯誤が行われた。
(N432は開発に成功しラブサイドとして市販されたので今後はラブサイドと称する)

実験室ではオルト-トルイル酸のベンゼン核に4ヶの塩素基を導入後、測鎖のメチル基を塩素化し、加水分解することによりフタリド化し、ラブサイドを合成したが、別な目的でオルト-キシレンを全塩素化し、硫酸で加水分解した生成物の構造を研究していたSがラブサイドとよく似た分析データに気づき、その成分がラブサイドと同一であることが判明した。
その結果安価なラブサイドの新規合成法が確立した。その製造法を特許出願したが、公告になる前にバイエルの同様な特許が呉羽より数ヶ月ほど前に出願されていることが判明した。特許回避策として、ベンゼンジスルフォン酸などを使った加水分解法を考案したが、採算が取れないため、結局ロイヤリティを払って硫酸加水分解法で工業化をすることになった。 特許がいかに大事であるかを実感した。この後私も特許で苦労したり、儲け話につなげたりしたが、これは後に述べよう。

当時は有機水銀系稲いもち病防除剤に代る抗生物質、有機リン系化合物及び合成有機塩素系化合物などを各社とも活発に研究を行っていた時代である。
例えば三共の「ブラスチン」(昭和40年発売)も当時は稲いもち病防除剤としてよく売れたが、稲藁として堆肥にされたり、敷き藁に使われ、野菜(インゲン、メロン、キューリなど)に対する第2次薬害(奇形や生育障害)の発生が明らかとなり、損害補償するなど(三共三島の農薬工場を手放すなどして補償費を工面したと言われた)の事件を起こし撤収された。これはブラスチンの直接作用ではなく、代謝産物による植物ホルモン様作用であり、次第に第2次薬害と称されていた。この結果他社で開発中のペンタクロロトルエンの誘導体は同様な作用を有することからほとんど全てが開発中止となったようだ。

ラブサイドには幸い第2次薬害の発生は見られず(植防協会に特別委員会が設けられ、全国の農試、園試を中心に検討され、第2次薬害の問題が生じなかった)、昭和45年8月に登録がおり、昭和46年に販売を開始した。 その後いもち病剤の標準薬剤となるなど、一時は当社を支える商品になり、長期にわたって利益を上げた。 
社史によれば1971年からの10年間で原薬1万トンを超え、Sの話によれば30年間で営業利益は100億円を超えているだろうとのことだった。



研究室長だったIはラブサイドの成功で農薬試験室を拡充改築し、農薬研究の本格的な実施を推進した(この建て屋はやっかみがてらI御殿と称された)。
またIは農薬研究の在り方をラブサイドの成功と同時に再検討を開始し、案をみんなで検討し、微生物応用研究も別な柱として立ち上げることになった。

 昭和46年に応用微生物研究グループはHを中心に旗揚げし、Hと私がサブリーダー的存在となり、医薬品、飼料添加剤、酵素阻害剤などの開発を目指し、菌の収集、培養、精製などの設備を整え、優秀な人材を集め研究がスタートした。

応用微生物研究がスタートして1年過ぎようとしていた頃、副所長になっていたIから呼ばれ東京研究所の壬生分室への転勤を告げられた。

錦工場勤務中で印象に残る出来事を2,3あげてみる。

*昭和44年のアセチレンタンクの火災は場合によっては工場の生命線をも揺るがしかねない事態であったが、最小限の被害で済んだのは不幸中の幸いだった。一社一工場の危うさも感じたものだった。

*昭和41年いわき市が誕生し当時日本1広い市が誕生し、勿来市が消滅した。

*農薬試験室の女子研究員が朝の通勤途中に交通事故に遭い数日後亡くなった。まだ20歳の若さであった。

*水銀型電解による塩素の生産ではその頃「チッソ」の水俣病が水銀分解物の蓄積が原因らしいと報じられていた。当社も同じシステムであったが、排水が太平洋に注いでおり有明湾のような蓄積がなかったため、水俣病が発生しなかったと思われた。ただ、途中の蛭田川は廃液の影響からどす黒く濁っていた。

*忘年会後酒を飲んでいたにもかかわらず、同僚を平の自宅まで自家用車を運転している途中で歳末検問に引っかかった。同僚をぐでんぐでんに見せかけ、酒臭いのは同僚のせいにし、ブレーキライトとウィンカーのチェックで切り抜けた。この頃は酒気帯び運転はまだ許されていた時代であったので、切符を切られることはなかった。自家用車を若い者が持ち始めた頃で今では信じられない時代であった。




  32 ゾロ品 クレスチン製造は基本特許(昭和43年10月3日 制癌剤の製造方法 特許登録番号968425 昭和51年公告)により昭和63年10月3日までの20年間は特許法によって守られていた。 特許が失効すると医薬品メーカーはある条件下で同一類似品(後発品)を承認申請出来る。...